2 怪しい人物、限りなく黒に近いグレー
「なぁ、やっぱりその帽子は外しておいたほうがいいんじゃないか?」
遼はコーヒーカップを置くと遠慮がちに言った。遠慮がちに言ったのは、そのセリフを言うのが三度目だったからだ。
絵里奈は遥か頭上に吊るされたシャンデリアに向かってタバコの煙を吐き出すと、頭の上にのったハットの鍔に軽く手を当てた。体の線がはっきりとわかる黒のドレスに大ぶりのサングラスを掛け、やけにつばの大きなハットを被った彼女は、まるで避暑地のハリウッド女優みたいだった。
「昨日はそんな恰好してなかったじゃないか」
「昨日はリハーサルで、今日は本番よ。本番には本番用の衣装ってものがあるでしょ?」
「それにしても、目立ちすぎるよ。もし俺がこのホテルの宿泊客で、警察に『事件の夜に怪しい人物を見なかったか?』と訊かれたら、真っ先に君のことを話すよ」
「私なら真っ先に、同じスーツで同じ場所に二日連続で座ってた男のことを話すわ」
「同じじゃない。確かによく似てるけど、今日のはイタリア製の高いスーツだ。本番用の」
「結局のところ、私と同じ発想じゃない」
その時、入り口からスーツの集団が入ってきた。
「来た」と遼は、ロビーに背を向けて座っている絵里奈に伝える。絵里奈は素早く手鏡を顔の前に出した。アイラインを確認するふりをしている。
五人。上下白のスーツを着た初老の男性を取り囲むようにして、ロビーを足早に横切っていく。老人の手には、ジュラルミンケースがしっかりと握られていた。
「ジュエルの他に四人。昨日と同じだ」
集団がエレベーターホールの方向に消えたのを見届けてから遼は言った。腕時計をみると、十八時を回ったところだった。
「確かに一人には広すぎる部屋だけど、ベッドは二つよ。どうやって五人も寝るのよ」
「まさか。ジュエル以外は階下の他の部屋だろう」
「わかってるわよ。冗談よ」
それから数分でスーツ姿の男が二人、エレベーターホールから再び姿を現した。そのままホテルから出ていく。
「二人出ていった。これも昨日と同じだ」と遼は絵里奈に伝える。
今度は絵里奈も軽く振りかえって、ホテルの外を確認した。ベンツに男たちが乗り込むところだった。
「ジュエルのほかにあと二人ね。もう少し待ってみる?」
遼は束の間思案した。
「いや、ここまでのところ、彼らは正確に昨日と同じ動きをしてる。とすれば、今の時点でジュエルは一人で、まもなくルームサービスを頼むはずだ。もたもたしてるうちに食事を終えられたら厄介だ。行こう」
昨日、同じようにジュエルたちの動きを観察していた遼と絵里奈は、この後ジュエルの部屋の斜向かいに取った自分たちの部屋に戻り、それとなくジュエルの部屋の様子を伺った。三十分ほどしてルームサービスがジュエルの部屋の扉を叩き、ジュエルが自ら応対した。もし他の二人の護衛がジュエルの部屋に残っていたのなら、彼らのうちのどちらかがドアを開ける可能性が高いだろう。よって、この時点でジュエルは一人だと判断した。
だから、最上階に到着し、ジュエルが宿泊している部屋の前で二人の男が優秀な門番よろしく仁王立ちしているのを見た時は、少なからず動揺した。思わず立ち止まった遼たちに、二人の門番が同時に目を留めた。遼は絵里奈の手を取ると、何食わぬ顔でその前を通り過ぎた。
「誰か有名人でも泊ってるのかしら?」と絵里奈が言う。
彼女なりの演技なのだろうと思い、遼も適当な返事を返す。そのまま廊下の突き当りまで来ると、道なりに左に折れた。そこには喫煙所とトイレ、非常階段、それに従業員用のエレベーターがある。ルームサービスを運んでくるボーイは、宿泊客用ではなくこのエレベーターを使用するはずだった。一般のエレベーターと違い、階数を表示するランプがないため、中の箱がどのような動きをしているのかはわからない。
絵里奈は喫煙所に入るとさっそく煙草に火を着けた。
「ちょっと、あいつらあそこで何やってるの? 昨日はいなかったじゃない」
絵里奈の言うとおり、昨日の下調べの時はいなかった。遼はいろいろな可能性を考えてみた。
「昨日の俺たちの動きがバレてたのかも」
「私たちが怪しまれてるってこと?」
「可能性の話だ」
「もし私たちの顔が割れてたら?」
「今の時点で、限りなく黒に近いグレー二人組だろうね」
「どうする?」
遼は少し考えてから、最もシンプルだと思われる結論を導き出した。
「ルームサービスが来るまでにあの二人がいなくなってたら決行。彼らが寝ずの番を覚悟してるんなら中止だ」
絵里奈は煙を吐き出すと、「オーケー、そうしましょう」と言った。
それから遼は男性用トイレに入った。中に人はいなかった。三つ並んだ個室のうち一番入り口に近い個室に入ると、ドアに鍵を掛けた。タンクに登って周囲の様子を伺い、人の気配がないことを確認すると、仕切りを越えて隣の個室に移る。それを繰り返し、全ての個室に鍵を掛け終えると、喫煙室に戻った。
「何か変化は?」
絵里奈に尋ねると、首を横に振った。それから五分おきに、遼と絵里奈は交代でジュエルの部屋の様子を窺った。三度目に帰ってきた絵里奈が、「いないわ」と報告した。
「自分の部屋に戻ったのか?」
「わからない。見た時にはもういなかったから」
その時、喫煙室の目の前にあるエレベーターが扉を開けた。ワゴンを押した女性従業員と一瞬目があったが、彼女は気にする様子もなく客室の方へと歩いて行く。
「女性か……」
「問題ないわよ」
「よし、作戦決行だ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます