2 ヤニスの過去、初めて見る世界
狭い店内に客は少なかった。ヤニスのほかに、カウンターに年配の男性が一人。テーブル席にカップルが二組。マイルス・デイビスの演奏する「So What」が、料理の脇に添えられたレモンみたいに、それぞれの世界に異なったアクセントを加えていた。
ヤニスは昔を思い出していた。
十歳の彼は、ニューヨークのアッパーイーストサイドに暮らしていた。一流銀行に勤める父親と元女優の母親の間に生まれたヤニスは、何不自由ない生活を与えられた。朝ふかふかのベッドで目が覚めると、家政婦のミミおばさんが焼いたパンケーキを食べ、昼間は私立の男子校で勉学に励み、夕方にはセントラルパークで友人とサッカーをした。日が暮れるとドアマンが立つマンションに戻り、夜にはミミおばさんが作ったイタリアンを食べ、ふかふかのベッドで眠った。
ヤニスは、自分の生活が他人のそれとは違う特別なものであると感じたことはなかった。少なくとも、彼が知っている人たちはみな彼と同じような暮らしを送っていた。
その日は、家族旅行だとか、体調不良だとか、バイオリンのレッスンだとか、そういった些細な事情が重なり、いつもサッカーをする友人が集まらなかった。時間を持て余したヤニスは、サッカーボールを抱えたまま、どこへ向かうともなくマンハッタンの通りを歩いていた。その時の彼には知る由もなかったが、レキシントン通りを北上していたヤニスはまもなくアッパーイーストサイドを出ていた。周囲の景色が変わり、意味のわからないスペイン語が目に着くようになった。通りを歩いている人の中に、ヤニスと同じ肌の色の人はいなかった。やせ細った老人が通りに座りこみ、うつろな視線を彼に向けていた。それでもヤニスに恐怖心はなかった。ただ、別の世界に迷い込んだような感覚に高揚感を覚えていた。たった数分歩いただけで自分の知らない景色があることを彼は知らなかった。
やがて、一際薄暗く陰鬱な雰囲気の通りに出くわした。通りの両側には小さな店が並んでいたが、半分程はシャッターが閉まっているか、窓ガラスが割られていた。ヤニスはドアの開いていた一軒の店に入った。彼の家のキッチン程の広さしかない店内には食料品や酒、日用雑貨などが所狭しと並んでいた。特に欲しいものなどなかったが、店の中を数分歩きまわり、スナック菓子の袋と瓶に入ったコーラを手に取り、レジへと向かった。レジの中の太った女性の店員にそれを渡し、ポケットの中から二十ドル札を出した。万が一の時のためにと、ヤニスが外に遊びに行く時にミミおばさんが必ず持たせてくれたお金だった。金額を口にする店員の後ろの棚に並ぶタバコがヤニスの目に留まった。
「二段目の右から三番目のタバコをください」
気がつくと、ヤニスは畏まった口調でそう告げていた。本当にタバコが欲しかったわけではない。それまで喫煙した経験すらなかった。あこがれや願望もなかった。自分の知らない世界に触れた高揚感が、彼をその世界のもっと深いところへ引き入れようとしていた。店員はヤニスの目を見つめ、一瞬考え込んだが、彼の手の中にある二十ドル札に一瞥をくれると、背中を向けた。その時、次の衝動がヤニスの体を動かした。ヤニスは背後を素早く振り返り、誰もいないことを確認すると、レジの脇に置いてあったライターを左手で取り、そのままズボンのポケットに滑り込ませた。直後、店員が向き直り、彼の右手から紙幣を抜き取る。すぐに何枚かの硬貨が戻された。
「この店には至る所に鏡がある」
店を出ようとした彼の背中に向かって、店員が言った。
「外の世界も同じだ。どこかで誰かが必ず見ている。良いことも悪いことも、すべてだ」
幼いヤニスにはその意味がわからなかった。店を出て、自宅の方向に歩きながら、ヤニスは手の中の小銭を数えた。一袋の菓子と一本のコーラ、一箱のタバコ。そのお釣りにしては少し少ない気がした。
それから数カ月経ったころ、ヤニスの家庭にはある緩やかな変化が訪れていた。一つは、遅い父親の帰りがさらに遅くなったこと、もう一つは、派手好きだった母親の生活がさらに派手になったことだった。
ヤニスの父親が務めていた銀行が別の銀行と合併した。実質的な吸収合併だった。何人もの同僚が辞めていった。ヤニスの父親は残ることを選んだが、彼の地位と給料は相対的に低下した。それでも、これまでと同じ生活を送るために不足はなかったが、それは金銭の問題ではなく、プライドの問題だった。それまでは日々処理している書類の山や、絶え間なく鳴り続ける電話の先に、約束された地位や待遇があると信じていた。そこに決して無視できない疑念が生じた。その疑念を埋めるように、ヤニスの父は毎夜酒を飲むようになった。しかし、ぽっかりと開いた穴は決して埋まることはなく、酒を飲み、現実から目をそむけようとすればするほど、仕事などくだらないもののように思えるようになっただけだった。
時を同じくして、ヤニスの母親の生活も変化を見せていた。若いころ世話になった映画監督から出演の誘いがあった。二十代の頃に何度か一緒に仕事をしたその監督は、今では「巨匠」という冠が付いて呼ばれるようになっていた。知人のホームパーティーで十年ぶりに再会した彼は、「もう一度一緒に仕事をしないか」と言葉を掛けてきた。当然、社交辞令だと思っていたが、その数か月後に電話があり、正式な依頼をされた。悪い役ではなかった。もとより女優の仕事に未練などなかったが、もう一度やってみようかという気になった。復帰というほど大仰な決意はなかった。昔の仲間たちと久方ぶりに同窓会で顔を合わせ、時間を忘れて思い出話に話を咲かせる程度の軽い気持ちだった。いずれにしても、と彼女は思った。あの監督と一夜をともにしておいたのは無駄ではなかったわね。
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