第三章 それぞれの過去

1 世界の底、希望だけに満ちていないとしても

 富と繁栄の象徴である高層ビルは同時にその足元に影を作り出し、彼女のような人間にも居場所を与えた。乾いた風が地を這うように吹き抜ける。都市の喧騒が微かに聞こえる狭い路地を、いつも通り下水の臭いが満たしている。満たしているはずだ。彼女の鼻はすでにその匂いを感じなくなっていた。無事にこの街に適応したわけだ。マルティナは自嘲した。


 タンクトップから出た細い二の腕をさすりながら、通りでただ一軒シャッターの開いているドラッグストアのドアを押す。レジの中で雑誌を読んでいた太った黒人女性が一瞬目を上げたが、挨拶代わりに、あんたか、という表情を浮かべただけで、すぐに雑誌に目を戻した。蛍光灯の薄ら寒い明かりに照らされた店内を一周し、レジに向かう。


「タバコ」

「私の後ろにあるのは全部そうだけど?」

 椅子に座ったまま、雑誌から目を離すことすらなく、店員が無愛想に答える。

「二段目の右から三番目」

 立たなくては取れない場所を指定されたことにむっとしたような表情を浮かべて、重い腰を上げる。体中に満遍なく蓄えられた贅肉が波打つ。

「運動した方がいい」

「何だって?」

「二つくれ、と言った」

 タバコ二つを鷲づかみにすると、振り向きざまにレジをはじく。

「二十二ドル五十セント」

「一箱十ドルだろ?」

「ビールは一本二ドル五十セントだよ」

 店員が相変わらずにこりともせずに言い、マルティナの腰のあたりを指差す。特大の舌打ちをとともに、マルティナはジーンズの後ろポケットからビールの小瓶を取り出し、カウンターの上に置く。二十ドルと引き換えにマルボロだけを手に取り、店を出る。さっそくマルボロを開け、ライターで火をつける。吐いた煙は薄暮の中を吹き抜ける風に散った。


 どこからともなく十歳そこそこの少女が現れ、マルティナの三歩手前で立ち止まる。いつでも逃げられるように。そんな距離だった。

「シガー?」

 しっかりとした視線で、しかし辛うじて聞こえる程度の声で少女は言った。マルティナは少し考えた後で、今買ったばかりのマルボロを一箱、少女の頭上に放った。少女は小さな両手でそれをキャッチする。礼を言う代わりにポケットを弄り、一ドル札を差し出す。

「ライターは持ってるのか?」

少女は首を振る。

「必要だろ?」

 少女はその言葉の意味を理解しあぐねていたようだったが、やがて不揃いな前歯を見せると、マルティナが今出てきた店に掛け込んでいった。


 自分の足首に手を伸ばすと、まるでスパイが忍ばせたナイフを取り出すように、マルティナはビールの小瓶を取り出した。歯で栓を切り、勢いよく流し込む。

 もちろん、この生活に満足はしていなかった。昔を思い出すことが、最近は多くなった。荒涼とした赤い大地。鬱蒼と茂る熱帯樹。両親が死に、妹と二人になった。仲は悪くなかった。だが、マルティナは別れを選んだ。ある日突然舞い込んだ大金は、姉妹の人生を狂わせた。それでもマルティナは思う。必要なのは、金だ。


 少し先にタクシーが停まっていた。それは違和感を与えるに十分な光景だった。この辺りにはタクシーに乗ることができる人間などいない。もちろん、降りる人間もいない。人々はこの一画を通り過ぎるためにタクシーに乗るのだ。

 しかし、次の瞬間タクシーのドアがゆっくりと開き、ヒールの高い靴と、赤いキャペリンハットが覗く。黒のロングコートを着た黒人女性が、タクシーから降りる。間違いなく、周囲の風景から最も遠いところにいるべき種類の人間だった。空車になったタクシーが走り去り、通りにはその女性とマルティナと乾いた風だけが残った。女性はゆっくりと歩みを進め、マルティナの前で足を止めた。


 女性は思ったよりも高齢だった。キャペリンの下からは、白髪が覗いている。茶色のサングラスの奥の目が、優しく微笑んだ。

「あなたと私は、似た者同士かもしれないわね」

 マルティナはそれには答えず、代わりにビール瓶を煽った。

「金と自由が欲しくはない?」

 マルティナの心は乱れた。自分の思いを、自分の過去を、初めてあった目の前の老女に見透かされた気がしたのだ。

「だとしたら、どうする?」

 老女の目が一段と優しさを増す。

「あなたが必要なものを、私は持っているかもしれない」


 それは、マルティナが世界の底で未来を見た瞬間だった。たとえそれが、希望だけに満ちたものでないとしても。

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