7 二つの宝石、二人の宝石商
寒さが幾分和らいだように感じられる三月上旬の昼下がりだった。喫茶店のテラス席に遼のほかに客の姿はなかった。空にぽっかりと浮かんだ雲を、二羽の鳥があっさりと追い抜いていく。口に含んだ氷が、かこんと音を立てた。
絵里奈からブルーダイヤ強奪の話を持ち掛けられたその夜、遼は早速インターネットで情報収集を試みた。遼たちが頻繁に盗みを行っていたころは、必ず事前にターゲットについてできる限りの情報を収集した。「アウディ」というのがラテン語で「聞く」という意味だということを知ったところで、もちろんA4を盗むチャンスが増すわけではなかったが、何も情報がないのと有益とは言えなくともよく知っているのとでは、やはり心持ちが変わってくる。それに、絵里奈がどうかは知らないが、狙う前によく調べることは相手に対する最低限の礼儀だと遼は考えていた。美学とも言えるかもしれない。
しかしながら、今回ブルーダイヤに関して遼が見つけたのは、日本公開を伝えるいくつかのニュースや個人のブログのみだった。殊、その出処や由来に関しては、新聞記事にもあったように何一つ手掛かりがない。唯一の目新しい情報は、その価値が何億とも何十億とも言われるということだった。
次いで、所有者であるジョン・ジュエル氏も検索に掛ける。その世界では著名な人物らしく、思った以上に多くヒットした。一番上に表示されたオフィシャル・ページをクリックすると、ほとんどヌードに近い恰好をした外国人女性のモデルが登場した。
画像は白黒のため髪や肌の色はわからないが、ラテン系の女性のようだ。ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を模したような立ち姿で、左手は自分の髪の毛を掴む代わりに、ネックレスの束を鷲掴みにしている。どうやらその部分だけカラー写真らしく、一段と煌びやかさが際立っている。この写真を見た時、遼はおやっと思った。モデルの女性をどこかで見たことがある気がしたのだ。少しの間記憶を辿ったが、思い出そうとすればするほど、正解から遠ざかっていく感覚があった。
――John Jewel, a man loved by jewels
女性の頭上にアルファベットが並ぶ。まるで冗談のような名前だが、彼のプロフィールを読むところによるとどうやら本名らしい。アメリカ・カリフォルニア州出身で現在六十歳。三十歳で自身の会社を設立して以来、様々な名立たる宝石を手に入れ、そのうちのいくつかにカッティングを施してきたことが書かれている。
――四十七歳の時に、世界最大級のブルーダイヤ「ジュエル」を入手。米国各地で展覧会を開催
「ジュエル」というのはもちろん「宝石」という意味ではなく、ジュエルがその宝石に自身の名前を冠したということだろう。彼がどのようにして「ジュエル」を入手したかの記述はやはりなかった。あえて明かさないことで「謎の宝石」としての神秘性を増長させる狙いかもしれない。が、それは逆にその入手経路に神秘性がないことを露呈しているのではないかとふと思う。あるいは表沙汰には出来ないような方法で入手したということか。億単位の価値がある宝石だ。あながち穿ち過ぎでもないかもしれない。
ジュエルのホームページを閉じようとして、ある一文が気になった。
――二十六歳の時に故ハリー・ウィンストンと出会い、これをきっかけに現在の道を歩むことを決意する
ハリー・ウィンストン。貴金属の類に疎い遼でも、そういうブランドがあることくらいは知っていた。ということは、彼はその創設者ということか。ハリー・ウィンストンで検索をし、出てきたページのある部分に目が留まる。そこに、「ホープ」の文字があった。
新聞記事には、「ホープ」はアメリカのスミソニアン博物館に所蔵されているとあったが、それを寄贈したのがハリー・ウィンストンその人だった。寄贈前にわずかに再カットを施し、米国各地を巡回する展覧会を行ったとの記述もある。とすれば、ジュエルの一般公開も、師であるウィンストンに倣ったものかもしれない。
「ヘイ」という声に顔を上げると、絵里奈がいた。
「退屈そうね」
「おかげさまで、平和な毎日を送ってる」
「それで、決意は決まった?」
そう言いながら、遼の向かいの席に腰を掛け、煙草に火をつける。
「そうだな……」と遼は言葉を濁す。ブルーダイヤ強奪の誘いについては、一旦回答を保留していた。「答える前に、一つ聞かせてくれ」
「何?」
「どうしてこの宝石にこだわる? なぜこの宝石だ?」
遼は同じ質問を先だってもしていたが、絵里奈は答えなかった。今も、その目はどこか遠くを見つめている。少しの間の後、絵里奈は答えた。
「別にこだわってるわけじゃないわ。偶には大物を狙ってみたくなっただけ。あなただって泥棒の端くれなら、わかるでしょ?」
「泥棒じゃない。元、泥棒だ」
「元泥棒の端くれなら、わかるでしょ?」
遼はじっと絵里奈の顔を見つめた。煙草の先をぼんやりと見つめる表情に、普段と違うところはなかった。
単なる好奇心なら断るつもりだった。が、そう答えた絵里奈の言葉は、本心がそうではないことを物語っているように遼には思えた。遼は決心を固めた。
「わかった。やるよ」
「そう来ると思ったわ」
絵里奈が、にやりと不敵な笑みを浮かべ、右手を差し出す。握手を求めたであろうその手を、遼は叩いた。絵里奈の笑みが一層不敵さを増す。
「で、わかったの?」
「わかったって、何が?」
「どうせ、ターゲットについて調べたんでしょう?」
「俺が調べる情報を少しでも当てにしてるなら、『どうせ』って言わないでほしい」
遼は鞄から何枚かの紙を取り出し、絵里奈に渡した。
「君が持ってきた新聞記事にも書いてあったことなんだけど、『ジュエル』に関する情報はほとんどない。だから代わりに『ホープ』について調べた」
「『ホープ』って、スミソニアンにあるやつでしょう? 何の関係があるの?」
「関係はないよ。いや、全くないってわけでもないんだけど、直接の関係はない」
絵里奈は、わからないというように眉間にしわを寄せた。
「ちょっとばかし複雑なんだ。読んでくれ」
絵里奈は少しだけ首をかしげると、鼻先に持ってきた文章を読み始めた。
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