2 老女の願い、名もなき感情

 ニューヨーク——。


 マルティナはタクシーに乗り込むと、ドアを閉めるよりも先に悲鳴を上げた。赤いキャペリンの下でわずかに微笑みを浮かべた目が、彼女を見つめていた。

「久しぶりね、マルティナ」

「驚かさないで」

「あら、警官が座っているほうがよかったかしら?」

 マルティナは深呼吸を一つし、運転手に行き先を告げる。


「今日の収穫は?」

「二つで二万ドル」

 老女はマルティナがコートのポケットから取り出した二つのリングを一瞥すると、「値が付いて二千ドルってところね」と言った。

「上出来だ」

 タクシーが赤信号で停まり、運転手がラジオの音量を上げる。スピーカーの向こうで、マーヴィン・ゲイが「What’s going on」を歌っていた。


「それで?」

「お願いがあるの」と老女が言った。彼女がマルティナに対して何かを頼むのは、初めてのことだった。

「私は今まで数えきれないくらいの宝石を手に入れ、同じだけ手放してきた」

「そして、労力とリスクに見合わない現金を手にする。それが、あなたが私に教えてくれたことだ」

「自分のための宝石が欲しい」

 いつもと変わらないように見える老女の横顔には、しかし、少しだけ寂しさが滲んでいるようだった。

「いくらでも手に入れればいい。あなたにはそれができる」

「私が欲しいのは、普通の宝石じゃない。どこにも売っていない特別な宝石」

「例えば、どんな?」

 老女は黙って一枚の写真を差し出した。深い藍色をした大粒のダイヤが写っていた。


 マルティナは言葉を失った。古いビデオテープが巻き戻るように、音を立てて記憶が逆流する。言葉にできない感情が胸を締めつける。が、それは長くは続かない。名前を持たないこの感情に対処する方法を、マルティナはすでに身につけていた。後に残ったのは、ただの空白だった。悲しみや後悔は今はもうない。

「私のために手に入れてくれない?」

 その言葉にマルティナは我に返った。

「なぜ私に頼む? 自分でやればいい」

「歳を取り過ぎた」と老女はため息とともに言葉を吐き出した。「悲しいことにね」


 タクシーは、先刻マルティナが運転手に告げた場所で停車していた。マーヴィン・ゲイはまだ歌っている。

「待っててくれ」

 運転手と老女のどちらに向けたものか判然としない言葉を、どちらかと言えば独り言のように呟き、マルティナはタクシーを降りた。


 冷たい風がマルティナの頬を撫でる。冬の透き通った日差しの中を歩くマルティナの思考は、過去と未来の狭間を頼りなく揺れていた。

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