野々森奏子の場合
「ピアノマンになる」
特別音楽室。ほぼ毎日、野々森さんのために、僕はここの鍵の申請を出している。
そうすると、当然野々森さんと会話する機会は増える……かと思うじゃないですか。基本、話しかけても無視するんですよこの人。
今日は気分がいいのか、それとも都合がいいのか、野々森さんの方から、話があると言って、椅子に座らされた。
内容はしょうもないが、これは進歩である。
「ごめん。なんて?」
「ピアノマンを弾けるようになりたい」
「まずね、ドレミファソラシドができてないよ」
「私、そういう常識に縛られない女だから」
「それは常識じゃなくて基礎だから」
こうやって話している間も、野々森さんは、ピアノをガンガン弾いている。いつも通りの不協和音。もはや、勉強する気がないとさえ思える。
「珍しく話しかけてくれたと思ったのに」
「ごめん。普段は演奏に集中してるから」
「本当かな?」
たまにお菓子を食べながら、片手間で弾いてる時がある。
それならまだいいが、楽譜じゃなくて、ユーチューブを見ながらやってる時さえあるのだ。
「ピアノマンになるにはどうしたらいい?」
「せめてさ、ピアノマン弾いてる動画とか見たら?」
「演奏に集中できない」
「普段と変わらないよ」
「役立たず」
野々森さんは、吐き捨てるように言った。
「そもそもなんで、ピアノマンなわけ?」
「進路希望調査」
なるほど。
あの四人は解決した(してないけど)ので、てっきり終わった気になっていた。まだこの人がいたな。
「でもさ、あれの提出期限、もう過ぎてるよ?」
「担任も同じこと言ってた」
「そりゃ言うよ」
「みんな同じ事しか言えない。主体性が無い」
ため息をつく野々森さん。
いちいち喋り方が、ちょっと拗らせてて、自分の道を行っている、孤独なピアニストみたいな感じなの、本当に嫌なんだよな。
「まぁ、それはいいや。で、進路希望調査表と、ピアノマンに、どんな関係が?」
「音楽大学を志望してるから、課題で弾く」
「絶対落ちると思うよ」
「ピアノマンを否定するの?」
「野々森さんを否定してるんだけど」
ピアノマンは大好きだ。聴いたことがない人には、ぜひ聴いてもらいたい名曲。
「あれ。じゃあ何で、音楽大学を書いて提出しなかったの?」
「気になる?」
「うん」
「担任が、吹奏楽部の顧問なの。もし私が音楽大学を志望していることがバレたら、スカウトされちゃう」
「あのね、野々森さん。言いたいことが三つあるよ」
「三分音符だ」
「三分音符はないけどね」
そう言って、野々森さんは、嬉しそうに、指をピンと立てた。もう片方の手で、いつの間にかカバンから取り出した、うまい棒を持っている。
ついに、演奏することをやめてしまったらしい。
「まず一つ目。吹奏楽部にピアノ担当はいない」
「は?」
野々森さんは、不機嫌そうに、僕を睨みつけてきた。そして、空いている方の手には、別の味のうまい棒が握られている。
おい、ピアノはどうした。ピアノマンになるんじゃなかったのか。
「二つ目、野々森さんの実力では、スカウトなんてされない」
「それは君じゃなくて、先生が決めること」
「何でそんなに、自信が持てるのかな……」
「今年、おみくじ大吉だったから」
「すごい弱い根拠だった」
野々森さんは、うまい棒を鍵盤の上に置き、カバンから、そのおみくじを取り出した。
嬉しそうに開いて、僕に見せてくる。
あの、そんなことより、鍵盤の上にうまい棒置くの、やめたほうがいいと思うんですけど。
「よかったね」
「君はどうだったの。小吉?凶?」
「何でその二択なのかな」
「二分音符」
「それはあるよ。よかったね」
野々森さんは、ガッツポーズをした。小学校低学年レベルの音楽知識なんだけど……。
「最後の三つ目。野々森さんの担任は、吹奏楽部の顧問じゃないよ?」
「……」
黙り込んでしまう野々森さん。
「でも、音楽室にいた」
「うん。吹奏楽部の顧問と、仲良いからね。話しに来てたんじゃない」
「出てけ」
「そんなに受け入れられない事実でもないでしょ」
野々森さんに隙ができた瞬間に、僕はうまい棒を回収した。さすがにお行儀が悪いので。
野々森さんは、奪われたうまい棒を、恨めしそうに見つめている。
「家で食べようね」
「家でもピアノ弾くの。暇なんてない」
「どうせうまい棒食べながら弾いてるでしょ」
「ポテトチップス」
「余計ダメだよ」
鍵盤が油まみれになってそう。壁に掛けてある音楽関係の偉人の絵が、僕たちを睨んでいるように感じてきた。ごめんなさい本当に。
「そういうわけだから、ちゃんと進路希望調査表、提出しようね」
「……」
浮かない表情の野々森さん。
「どうしたの?」
「音楽大学、一つも知らない」
「何じゃそりゃ」
「調べておいて」
「いや、音楽大学でも、どこに行きたいとかあるじゃん」
「ピアノが弾ければ、どこでもいい」
「いちいちかっこいいセリフに仕立て上げてくるな……」
普段聴いているから、レベルが低いことは知っていたけれど……、まさか、自分の受けようとしてる、音楽大学すら、一つも知らないなんて。驚きというか、絶望すら感じてしまう。
「じゃあもう、普通の大学目指して。そこでピアノ弾いてればいいじゃん」
「こうやって才能は死んでいく」
「もう墓に埋まってるよ」
野々森さんは、反省する様子もなく、僕からうまい棒を取り返そうと、立ち上がった。
「返せ」
「じゃあ、進路希望調査表を書いたら、返してあげるよ」
「一つ欄を埋めるごとに一本?」
「何で僕が三本買わないといけないんだ」
「今日持ってきてない。書けない」
「じゃあ書けたら、うまい棒と交換ね」
「賞味期限が切れる」
「生物じゃないんだから」
僕はカバンに、うまい棒をしまい込んだ。
「そんな雑にしまったら砕ける」
「丁寧に持ち帰るから大丈夫だよ」
「ちゃんとプチプチで梱包して」
「わかったわかった。砕けてたら、買ってあげるから」
「二十円で奢った気にならないで」
野々森さんは、ふんっと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「まぁ、砕けないうちに持ってきてね」
「こうなったのは神畑くんの責任」
「違うね。野々森さんがピアノなんて始めなければ、こうはならなかったよ」
「怒った」
野々森さんは、ノーモーションで、急に僕のお腹を小突いてきた。普通に痛い。僕はお腹を抑えて、うずくまってしまった。
「な、何するの……」
「私をバカにするのは構わない。でも、ピアノをバカにするのは許さない」
「野々森さんをバカにしたんだけど」
「確かに私はピアノバカかもしれない」
納得したように頷く野々森さん。帰った瞬間、このうまい棒は砕いてやろうと思う。
「あと、第一希望とか、第二希望は、は音楽大学でもいいけれど、それ以外は、普通の大学も書こうね」
「必要ない。私は音楽大学へ行く」
「頑固だな……」
「油汚れって呼んで」
「そんな不名誉なあだ名でいいの?」
油汚れは野々森さんではなく、野々森さんの家のピアノだと思うけれど……。
「でもさ、野々森さんがピアノ始めたのって、半年前なんだよね?」
「一説ではそう」
「どの説でもそうだと思うけれど……まぁいいや。で、半年前の野々森さんには、他の目標があったはずだよね?それはなんだったの?」
「トリマー」
「めちゃくちゃ女子じゃん」
野々森さんは、少し顔を赤くした。
誤魔化すようにして、ピアノを弾き始める。不協和音再開。
「じゃあさ、第三希望からは、そういう専門学校を書きなよ」
「神畑くん。ここは進学校」
「音楽大学書いてる時点で、そのレールからは外れていることを、理解したほうがいいよ」
「理解した」
「本当に?」
全くもって、何かを理解した様子には見えないけれど……まぁ、本人がそう言ってるから、良しとしよう。
「さて、そういうわけで、僕は帰るよ。ちゃんと進路希望調査表、書いて持ってくるんだよ?」
「私、箸より重たいものは持てないから、記入できない」
「ピアノの蓋持ち上げてるじゃん」
「勝ったつもり?」
「何でそんな好戦的なのかな……」
僕は、近くにある机の上に、特別音楽室の鍵を置く。
「野々森さん。鍵、ここに置くからね」
「箸より重たいものは」
「もういいよそれ」
「帰っちゃうの?」
「いつもそうしてるでしょ」
申請書を書き、提出し、代わりに鍵を受け取る。特別音楽室の前にいる野々森さんと合流。鍵を渡して、そこでさようなら。これが、普段の流れだ。
中に入ることもあるが、先述の通り、話しかけても無視。
今日はたまたま、こうして話しかけてもらえたが……、そもそも、こんなに長く話すのは、初めてあった時以来である。
それなのに、野々森さんは、捨てられた子猫みたいな顔で、僕を見つめてくるのだった。
一体、どういうつもりなのだろう。
「野々森さん……もしかして、他にも話したいことあったりするの?」
ピクッ、と、野々森さんが反応を見せた。
図星らしい。
「僕でよければ、聞くけれど」
「……」
鍵盤から手を離し、静かに蓋を閉める野々森さん。
ゆっくりと、僕の方へ、体を向けた。
「……今度、のど自慢に出ることになった」
「のど自慢って……あの?」
「そう」
国民なら誰もが知っている、素人がカラオケをし、採点される、あの番組である。
「すごいね。よかったじゃん」
「でも、私は、ピアノだから」
「えっ?」
「伴奏で、出たかったのに……。歌ったら、採用された」
野々森さんには、歌の才能があるらしい。
ピアノに振り分けるべきスキルポイントは、歌唱能力に全振りというわけだ。
「多分だけどさ、音楽大学も、歌なら受かる可能性あるんじゃない?」
「私がやりたいのはピアノ」
「第三希望からは、声楽科とかにしたら?」
「神畑くん」
「はい」
「代わりに、のど自慢出てくれない?」
「やだよ」
野々森さんは、立ち上がり、深々と頭を下げた。
この人が、こんなに下手にでることは珍しい。インスタグラムにアップしたいくらい。フォロワーいないけど。
「本番急に僕が行ったら、スタッフさんびっくりするでしょ」
「私はピアノで出るから」
「それもスタッフさんびっくりしちゃうって」
「全国放送だから、誰かの目に止まって、スカウトされるかも」
「インターネットの人たちの目に止まって、おもちゃにされると思うよ」
自信満々に、いかにもピアノ奏者という女の子が、不協和音を奏でる動画、バズらないわけがない。
「あと、そろそろ頭上げてくれない?」
「わかった。二度上げる」
「キーじゃないよ」
「当日は現地集合ね」
「行かないって」
「大丈夫。私のピアノで、きっと導いてあげるから」
「導かれるの、地獄だよね」
野々森さんは、不機嫌そうに、ため息をついた。
「君は私を孤立から救うんだから、助け合おうよ」
「都合悪くなると、それに頼るのやめてくれないかな」
「じゃあ、代わってくれたら、うまい棒は返さなくていいから」
「依頼料二十円って……」
「ひとくちカルパスもつける」
「なんで十円刻みなの」
カバンから、ひとくちカルパスを取り出し、僕に手渡してくる野々森さん。
そんな、大阪のおばちゃんが、飴を出すみたいな感じで渡されても……。
「とにかく、自分で蒔いた種なんだから、自分でなんとかしようね。そろそろ僕は帰るよ。進路希望調査表、忘れないでね」
「私、寝たら忘れるタイプ」
「だからピアノも成長しないんだね」
「怒った」
「うわっ、逃げよ」
僕は、ひとくちカルパスを大量に手に持った野々森さんに、それを投げつけられながら、追いかけまわされた。
廊下に落ちたひとくちカルパスは、スタッフが美味しくいただきました。ご安心を。
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