神畑杏美の場合
「兄貴、結婚しよう」
「まず服を着ろ」
風呂上がり、バスタオル一枚で登場した杏美。いくら血の繋がった兄妹とはいえ、恥じらいくらいもってほしい。
杏美は僕の忠告を無視して、ソファーへ座り込むと、その隣を、ポンポンと叩いた。座れということなのだろう。僕はおとなしく、それに従った。
「婚姻届はもうもらってきたんだ」
「意味ないぞ」
「イメトレだよイメトレ。ちゃんと記入の練習しとかないと、本番で失敗するからな」
「別に一回きりってことじゃないぞアレは」
「何だそれ。兄貴、私と離婚するつもりなのかよ」
「そういう意味じゃないし、そもそもお前とは結婚しないって」
杏美は頬を膨らませて、僕に抗議の意を示してくる。
「そろそろ理由を聞かせてもらおうか。なぜ突然求婚を?」
「進路希望調査表だよ。あたしは大学なんて行かないのに……。だから、兄貴と結婚するってことにしとけば、もう催促されないだろ?」
「別の問題が発生するけどな」
職員会議が行われるレベルだろう。
「あたしは働きたくないんだ。だから、結婚して、さっさと専業主婦になりたい」
「そんな理由で結婚するなよ……」
「専業主婦になれば、引きこもれるからな」
「絶対そんなこと言っちゃダメだろ。怖い団体から叩かれるぞ」
杏美の代わりに、僕が謝っておこう。ごめんなさい。この子、ちょっと天然なんです。許してあげてください。
僕が姿も知らない機関に、心の中で謝罪しているというのに、杏美はあくびをした。
「眠いな……。兄貴、膝枕してくれ」
「あんまりそれ、男が女にやらないだろ」
「文句ばっかり言ってると、モンクファイターになっちゃうんだぞ」
「何の例えだよそれは」
おそらく杏美がやってるゲームのキャラクターだろうけれど、残念ながら僕にそっち方面の知識はない。
「杏美。お前は勉強ができるんだから、大学を目指すべきだ」
「嫌だ。センター試験と、本試験で、二回も外出しないといけないんだぞ」
「どんだけ引きこもり精神が根付いてるんだお前は」
「あぁあと、神社に合格願いもしに行かないといけないから、三回だな」
「変なところで律儀だな」
今時は、ネットで賽銭を投げられるサービスもあるらしいけどな。
そんなことで、ご利益があると思っている人の気が知れない。正直。
「結婚したところで、婚姻届の提出、結婚式、新婚旅行、ほら。三回も外出しないといけないぞ」
「全部兄貴と一緒なら、別に苦じゃないぞ?」
「うっ」
真面目な顔で、目を見つめながら、そんなセリフを言われてしまうと、さすがの僕も、ダメージを受ける。
この妹、可愛すぎないか?
いかんいかん。騙されるな。僕よ。
「とにかく、今の段階でもいいから、志望大学を決めておけよ」
「だいたい、大学の名前なんて、五つも知らないぞあたしは」
「調べろ。得意のインターネットで」
「嫌だよ。履歴に残したくない」
「エロサイト見るわけじゃないんだから」
「兄貴、この調査表を、よく見てくれ」
そう言いながら、杏美は……身につけているバスタオルに手を突っ込み、胸元から、一枚の紙を取り出した。
「峰不二子かお前は」
ツッコミを入れつつも、杏美から進路希望調査表を受け取る。
よく見ろと言われても、僕は結構、この紙を見ている方だと思うんだけどな。不本意ながら。
「ここだよここ」
そう言って、杏美が指差したのは、希望を書く欄の、さらに下。提出期限の他に、注意書きがしてある。
「大きい声で、書いてあることを読んでみてくれ。兄貴」
「この進路希望調査表の内容を元に、後日個人面談を行います」
「声が小さいぞ!もっとお尻から声を出すんだ!」
「お腹だろ」
お尻から声って、おならじゃないかそれは。
「いや、知ってるよ。そりゃあ当たり前だろ。これを元に個人面談をやるなんて」
そうでなければ、何のために希望を取っているのか、意味がわからない。街角アンケートじゃないんだから。
しかし、杏美は、そういうことを言いたんじゃないんだとばかりに、僕に迫ってきた。
もう一度言っておくが、杏美はバスタオル一枚の状態である。
「杏美、落ち着け。僕が悪かった」
「むむむむ」
「不出来な僕のために、もう少しわかりやすい説明をしてくれ」
「兄貴は不出来なんかじゃないぞ!それはあたしがよく知ってる」
「それはどうも」
「今のは別に、兄貴と不出来で韻を踏んだわけじゃないぞ」
「誰もそこは疑ってないから安心しろ」
とりあえず、杏美から距離を取る。
いくら妹とはいえ、この距離は危険だ。ラッキースケベ(笑)が起こりかねない。
「まさか、個人面談に行きたくないとか?」
「それは当たり前だ。とりあえず置いておこうぜ」
「当たり前じゃないけどな」
「つまり、ちゃんとした希望を書かないと、いろいろ質問されて、ボロが出るって言いたいんだよ。あたしは」
「なるほどな」
「だから、聞かれても適当言える大学を探さないといけない」
「そうじゃないだろ?」
ダークサイドに落ちた一休さんみたいに、負の意味で頭の回転を見せる杏美。
兄として心配だ。
「こういうことでもないと、自分の進路を見つめ直す機会って、ないんだぞ」
「わかってるよ。進学校だし、その辺厳しいのも知ってるけどさ……。でも、考えたくない!うわーー!考えたくないぞ!兄貴大変だ!めっちゃ面倒になってきた!」
「落ち着け」
急にソファーの上で暴れ出した杏美。バスタオルが危ういことになり始めたので、僕は杏美から目を逸らした。
「服を着よう。杏美。嫌な予感しかしない」
「略してイヨカンだな」
「バカなこと言ってなくていいから。もう僕が服を取りに行くぞ」
「そ、それはさすがに無しだろ兄貴。無しよりのリンゴだ」
「何を言ってるんだ?」
杏美は急いで立ち上がり、脱衣所へと消えていく。
少しして、ジャージ姿になって、戻ってきた。
某スポーツ用品メーカーのジャージ。我が妹ながら、めちゃくちゃ似合ってるし、容姿としては、活発な運動部の女の子!といった感じだが、残念ながら引きこもりである。
「だいたい、大学に行ったって、人生が安泰とは限らないじゃないか。買った馬券が外れて借金背負うかもしれないし」
杏美は、冷蔵庫に向かうと、オレンジジュースを持って、ソファーに帰ってきた。
相変わらず、その距離は近いが、まぁこれで、ラッキースケベ(笑)もないし、許すとしよう。
「いや、それは己で制御できるだろ」
「兄貴は馬の魅力を知らないから、そんなことが言えるんだぞ」
「おっさんみたいなこと言うなよ」
今は進路の話だ。修正しよう。
「せめて、文系か理系だけでも決めておかないと。二年生からは、別れるわけだし」
「どっちの方が出席日数が少ないんだ?」
「どっちも週五に決まってるだろ」
「えー。じゃあパスだな。他を当たってくれ」
「お前の話をしてるんだぞ」
のんきにオレンジジュースを飲む杏美。全く危機感が無いなこいつは。
少しビビらせてやることにしよう。
「杏美、もしお前がこのまま、引きこもりを続けるようなら……。僕は、ここを出て、一人暮らしを始めるかもしれないぞ」
「ゔぇっ!」
「うわっ」
杏美が、飲んでいたオレンジジュースを、派手に吹き出した。僕の服が、一気にオレンジ色に染まっていく。
「な、なんて事言い出すんだよ兄貴。あたしを見捨てるのか?」
「そりゃあそうだろ。いつまでも面倒見てられないし……。僕にだって、やりたいことがあるからな」
「ちゃんと兄貴がエッチなことしてる時は、察して、話しかけないようにしてるだろ!」
「そういう話じゃないんだよ」
杏美は、早くも泣きそうな顔になっている。
というか、泣いていた。
いや、泣かせるつもりはなかったんだけどな……。
「……そうだよな。兄貴は、あたしのことなんて、嫌いだもんな。わかってるよ。こんな引きこもりの妹、迷惑だもんな」
「そこまでは言ってないけど……。僕は、お前が進路希望調査表さえ埋めてくれればいいんだけどな」
「えっ、そんなことでいいのか?」
「そんなことって」
あれだけぐちぐち言っておいて、いざとなると、そんなに腰が軽くなるものなのか……。
杏美は、早速ソファーから立ち上がり、しばらくして、ボールペンを持って、戻ってきた。
僕の方は、オレンジジュースが染み付いたジャージを脱いでいる。よかった。下の服には浸透してない。
「兄貴、あたしがぶっかけといて悪いけどさ……。その服は、クリーニングに出すから、別のカゴに入れておいてくれ」
「あぁうん」
「それか、奇抜な模様が気に入ったなら、部屋に飾ってくれてもいいぞ」
「そんなおしゃれ世紀末みたいな趣味はない」
脱衣所に向かい、何も入ってない方のカゴに、ジャージを入れた。
リビングに帰ってくると、杏美が、椅子に座り、進路希望調査表と向き合っている。
「……そうは言っても、思いつかない」
「調べろよ。色々と」
「ちなみに、兄貴はどこの大学書いたんだ?」
「近所の大学だよ」
「じゃああたしも」
「ダメだ」
「何でだよ!」
身を乗り出して、僕に向かってくる杏美。
「いや、行きたくもない大学の名前書いたら、お前が言ったように、追求された時、何も答えられないだろ?」
「行きたくないかどうかはわからないだろ。そもそも兄貴がいるならそれでいい」
「僕が卒業したらどうするつもりだよ」
「留年してくれ」
「嫌だよ」
「そうだ!留学はどうだ?自然に一学年遅らせられるんじゃないか?」
「僕は国内の歴史が学びたいんだけど……」
「ぐぬぬ」
杏美は唇を噛み締めて、静かに椅子へ腰掛けた。ボールペンは、もはやペン回しの道具となっている。
「ゲームが好きなら、そういう系の道に行けそうな大学にしたらどうだ?」
「……うーん」
「違うのか?」
「作りたいとは思わないんだよ」
「そういうものか」
「兄貴だって、普段生徒会長とか、風紀委員長とかと仲良くしてるけど、なりたいと思わないだろ?」
「それはちょっと違うんだよ」
あの二人は、もはやその役割を成していないので。
「なりたいものとか、ないのか?」
「けっこ」
「専業主婦以外で」
「くー……」
杏美は、腕を組んで、考えを絞りそうとしている。
やがて、何かを閃いたらしく、ペンを走らせ始めた。
「できた!兄貴!」
第一希望から、第五希望まで書ける、調査表。
その欄を、一つずつ使って……か、ぐ、や、ひ、め。と書かれていた。
「よーし!これで兄貴流出事件は解決したな!」
「してないぞおい」
「見ろよ兄貴!完璧だろ?」
「諦め方が雑すぎるだろ」
初期の方でかますボケだ、これは。
いやボケをかます大会ではないけども。
「だいたいかぐや姫って……」
「引きこもりだぞ!」
「嬉しそうに言うな」
「引きこもりのレジェンドだな。最終進化系だ」
「ポケモンかよ」
「月の石で進化するんだ」
「ポケモンじゃん」
杏美は、達成しましたと言わんばかりに、大きく伸びをして、席を立ち上がった。
「ごめん兄貴、時間切れだ。もうクエストに行かないと」
「何だその冒険者みたいなセリフは」
「そこは、ポケモンかよ!だろ」
「ポケモンに無い概念を言うからだよ」
まぁ、こいつの場合、テストの成績のおかげで、提出物すら、猶予があるので、多分出さずに終わってしまうんだろうな……。
個人面談、どう乗り切るつもりなんだろう。
「あっ、そうだ兄貴」
部屋に入ろうとしていた杏美が、足を止めた。
「なに?」
「あたし今実は、ノーブラノーパンなんだよ。気がついたか?」
「……」
「うそだよ!」
「お前!」
杏美は、逃げるようにして、部屋に入って行った。
兄をからかうのも、いい加減にしてほしい。
お茶を飲もうと、冷蔵庫に向かう途中、先ほど杏美が座っていたところに、一枚の紙が落ちているのに気がついた。
その紙を、拾い上げる。多分、僕が脱衣所に行ってる間に、何か書いていたのだろう。
『兄貴、いつも真面目に向き合ってくれて、ありがとう』
……いや、何だこの、取って付けたかのような残し書きは。
こんなもので、僕が許すとでも思っているのだろうか。
……許します。
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