下部織姫の場合
「正座」
「はい」
風紀委員室。そこは威厳のある空間。
入れば最後。凍りつくほどの空気に飲み込まれ、全ての罪を白状してしまう。そんな場所。
……ではないことを、僕は知っている。
しかし、こうして、床に正座させられていると、何となくだが、風紀委員室っぽいなと感じてくる。
「まず、謝罪しなさい」
「ごめんなさい」
風紀委員長、下部織姫さんの、厳しい視線が、僕に突き刺さっている。
「あのね、神畑くん。自分が何をしたのか、わかるかしら」
「わかってます」
「そうよね。自分で言ってごらんなさい」
「……下部さんを、バカにしました」
「そうなのよ!」
下部さんは、手に持っていた紙を、机に思いっきり、叩きつけた。
ずいぶん御乱心の様子。
「下部さん。机に罪はないよ」
「わかってるわよ!」
「そんな怒ることないじゃん」
「反省が足りないようね」
「いやまぁ……うん」
今、机に叩きつけた紙は、進路希望調査だ。
経緯を説明しよう。
風紀委員室で、下部さんが進路希望調査を書いていた。横から覗くと、その欄は、しっかりと第五希望まで、全部埋まっていたので……。
『すごいね。全部埋められてるじゃん』
と、うっかり僕は口走ってしまった。
みなさんがご存知かどうかは知らないけれど、下部さんの成績は、地の地のそのまた地。なんなら地中に埋まっている。この国から下部さんの成績を確認するよりも、ブラジルの人が確認する方が、まだ早いんじゃないかというくらいに、酷い成績だ。
そんな下部さんに対してのセリフとして、適切ではなかったことは確かである。
「あのね、神畑くん。人を馬鹿にするのも、いいかげんにしなさいよ」
「悪かったって」
「私の頭がかしら?」
「被害妄想だよ」
ネガティブ枠は、逆鉾さんだけで十分だ。
「いいじゃない。今は確かに、無謀な挑戦かもしれないわ。でも……これから努力を重ねれば、きっと合格できるわよ」
「だといいね」
「だといいわよ!」
「何その怒り方……」
とにかく、怒りが収まらない様子の下部さん。
顔は真っ赤。怒りマークが頭の上に浮かんでいそうなくらいである。
ドタバタと、動きでエネルギーをなんとか消化しようとしているようだが……あんまり激しく動かれると、胸が暴れるので、視線に困るのだった。
「こら。神畑くん。説教されているのだから、私の目をちゃんと見なさい」
「うん……」
僕は、胸から必死で目を逸らし、なんとか下部さんの目を見つめてみる。
「な、何見つめてるのよ!変態!」
「いや、下部さんが見ろって言ったんだよ?」
「完全にオスの目になってたわ。私に何をするつもり?」
「こっちのセリフだよ。正座なんてさせて、どうするつもりなの?」
「べ、別に、SM的プレイに移行するつもりはないわよ」
「誰もそんな心配してない」
自然と、ため息が出てしまった。
「何ため息ついてるのよ。怒られてるのよ?わかる?」
「足が痺れてきたんだけど」
「だったら足を伸ばしなさいよ」
「下部さんが正座させたんじゃん」
「法的な拘束力はないわよ」
「何でそんな難しい表現を……」
「褒めなさい。昨日、公民の教科書を読んだのよ」
自慢げに、鼻を鳴らす下部さん。
しかし、公民とは、中学生で履修する科目である。
「確かに、志望校は、経済とか法律とかの方向だったね」
「そうなのよ。経済を学べば、お金持ちになれそうじゃない?」
その発想がもうバカっぽいが、それを言うとまた怒られそうなので、やめておこう。
「むっ。今、そんなにお金が稼ぎたいなら、その胸を使えばいいだろ。って顔をしたわね」
「どんな顔?」
「言っておくけれど、私、そういうエッチな仕事に興味ないから」
「知ってるよ」
そういう設定ということを。
「ていうか、下部さん、お金持ちになりたかったんだ」
どちらかというと、そういうイメージはなかった。風紀委員長だし、真面目にコツコツみたいなのが好きなタイプかと。
「神畑くん。実はね、私の家は、とっても貧乏なのよ」
「そうなんだ」
「それはもう。貧乏すぎて家が建つくらい貧乏ね」
「なんでわざわざ真逆の表現で例えたの?」
下部さんは、椅子に座った。
僕も、その隣に座る。
「話、聞いてもらえるかしら」
「僕でよければ」
「ありがとう。でも、別に話を聞いてくれたからって、体まで許すわけじゃないからね」
「わかってますよ」
いちいちそういう方向に結びつけるの、本当にやめてほしいんだけどな。
「私の家は本当に貧しくて……例えば、漫画を買ってもらえなかったの」
「それはキツイね」
「だから、田んぼとか、河川敷とか、神社の裏とかに落ちている漫画を読んで、何とか凌いでたのよね」
「それでか」
「それでか?」
「あぁいや。こっちの話」
下部さんが、キョトンとしている。
その入手ポイントで、よく本の種類がバレないと思えるな……。
「だからね?私がお金持ちになれば、家族を楽にできるかなって思ったのよ……」
今のところ、そういう本を拾って読んでいたエピソードしか出てきてないので、同情するのは極めて難しいが、何となく、わかってますよみたいな顔をしておいた。
「まぁ、うん。じゃあ、合格できるように、ちゃんと勉強しないとね」
「法的な拘束力はないわ」
「さっきのエピソードはなんだったの?」
下部さんは、カバンから、進路希望調査表を取り出したかと思うと……、第一希望の欄を、消しゴムで消し始めた。
「ちょっと、下部さん?」
「よく考えたら、大学なんていっていたら、お金がかかるじゃない。そんなの無駄よ」
「いや」
「聞きなさい。神畑くん」
「はい」
「私の第一希望は……これよ」
そう言って、下部さんは、第一希望の欄を、勢いよく埋めていく。
「……パンツ?」
見間違いではないはずだ。
カタカナ3文字。パンツと書かれている。
「神畑くん。どう?」
「どう?って……」
「はっきりしなさいよ」
「やっぱり頭悪いのかなって思ったよ」
「何ですって!」
「下部さんが、はっきりしろって言ったんだよ」
理不尽な怒りを受けてしまった。
下部さんは、頬を膨らませ、僕を可愛らしく睨みつけてくる。
「どうしてパンツ?」
「毎日思うのよ。パンツって、楽そうだなって」
「本当にどうしちゃったの?」
「だって、履いてて思うもの。あぁ今、私のパンツは楽をしてるなって」
「病院行く?」
「私にナース服を着せて、どうするつもりなのよ!」
「……」
下部さんは、割とマジでおかしい人なのかもしれない。
もはや、恐怖だけが、僕の心へ侵攻を開始している。
「私の話をちゃんと聞きなさい。パンツって、理想の職業なのよ」
「もうこの際だから、ツッコまずに聞くことにするよ」
「当たり前よ。何さらっと私の処女を奪おうとしてるわけ?」
「はい、わかりました。もう何もしゃべりません」
チャックがあるなら、僕の口は、しっかりと蓋をされている状態だろう。
何を話しても、この妖怪によって、変態へと仕立て上げられてしまう。
「パンツになれば、自分で歩かなくていい。着替えもしなくていい。それにお金を稼ぐ必要もない。そこには貧富の差なんて存在しないの。理想郷よ。ユートピア」
よく見ると、下部さんの目が、少し虚ろになっているようだった。
……これは、まさか。
「下部さん。もしかして……」
僕は、下部さんのおでこに、手を当ててみる。
……やっぱりそうだ。熱い。
逆鉾さんだけでなく、下部さんも、知恵熱を出してしまうタイプらしい。
「なっ、なっ。何勝手に触ってるのよ!変態!」
「下部さん。保健室に行ったほうがいいよ」
「私をベットに連れ込もうっていう作戦ね?」
「熱があるから」
「確かにあるわよ。胸に秘めたこの熱意」
下部さんは、自分の胸を、トントンと強く叩いた。
しかし、ただ胸が揺れるだけである。
「そうじゃなくて……もう横になってないと、本当に体調崩すよ?」
「パンツになるための努力をしないといけないのよ」
「ほら、またおかしなこと言ってる」
「うるさいわね!犯せばいいじゃない!」
「はい、もうこっち来て」
下部さんの手を引っ張り、立ち上がらせる。
熱で赤くなった顔が、より赤さを増したような気がしたが、気にしないでおこう。
「ほら、そうやって、私の手から攻めて行くつもりなんでしょう?」
「そんな、デカいボスと戦う時みたいなことしないよ」
「次は唇かしらね!」
「早くない?」
階段を降りて、保健室へ到着。
しかし、担当の先生はいないみたいだ。
「先生呼んでくるから、そこで寝てて」
「さん」
「はいストップ」
何か良からぬことを言おうとしたので、慌てて口をふさいだ。
「ま、なっ、ちょっ、神畑くん!」
「なに?」
「やっぱり唇を奪ったじゃない!」
「いや……」
「ファーストキッスよ!私の!」
「はしゃぎすぎると、熱が上がるから、静かにしててね」
僕は下部さんを置いて、保健室の先生を探しに行く。
職員室には、残念ながらいなかった。
しかし、どうやら用事があるらしく、あと三十分ほどで保健室に戻るのでは。という情報を得た。
「下部さん。寝てる?」
保健室に戻った僕は、さっそく声をかけてみる。
「寝てるわよ」
さすがに疲れたのか、ベッドでぐったりとしていた。
「……私、お金持ちになれるのなら、進路希望なんて、どうでもいいのよ」
下部さんは、弱々しい声で、そう言った。
ようやく、まともな話になったな。
……いや、なったのか?
「そんな投げやりじゃなくてさ、やりたいこととかないの?」
「……幸せな家庭を築きたい」
「なにその乙女なやつ」
将来の夢は、お嫁さんってやつだ。
いただいてしまった。
「神畑くん。第一希望は、結婚相談所にするわ」
「下部さんの歳の女の子が行くところじゃないから」
「わかってるわよ。でも、自分の体に価値があるうちに、お金持ちの男性と結婚しないと……」
だいぶ生々しい話になってしまった。
「まぁ、下部さんなら、きっと見つかるよ」
そして、雑な返しをしてしまう僕。
下部さんは、明らかに、何かを感じ取ったような顔をした。
「神畑くん。適当でしょう」
「バレた?」
「私は自分の子供に、漫画を買ってあげられるような母親になりたいわ」
「そうだね」
ちゃんと年齢制限をクリアした作品を買ってあげられるか、心配なところではあるが。
「……神畑くん。お金持ちになる予定はある?」
「僕は残念だけど、ないかな。平凡な将来を思い描いてるから」
「そう。じゃあ、パスね」
「悪かったね」
現金な人だ。
「でも、お金だけじゃ、幸せな家庭は築けないわよね」
「そりゃそうだ」
「神畑くんは、お金以上の幸せを、家庭に提供する自信はある?」
「なんで僕に訊くわけ?」
「……」
下部さんは、無言で、布団に潜り込んでしまった。
「出て行きなさい。ベッドルームに入ったからって、エッチなことをできると思ったら大間違いよ」
「ベッドルームって言わないからさ、ここ」
「……まぁ、せいぜい頑張りなさい。神畑くん」
「何を?」
返事はなかった。
……いや、下部さんの方が、頑張らないといけないことはたくさんあると思うんだけどな。
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