下部織姫の場合

放課後、僕は、風紀委員室に呼び出されている。


悪いことをしたわけじゃない。風紀委員長に、来てくれと言われたのだ。

理由は聞いていない。しかし、しかめっ面をしながら、僕を睨みつけている下部さんは、やや不機嫌そうである。


僕は、何かしてしまったのだろうか。


「あの、下部さん。何の用?」

「神畑くん」

「はい」

「とりあえず、座りなさい」


促されるまま、僕は、下部さんの対面に座った。


「テスト、お疲れ様」

「あぁ、うん」

「結果は、どうだったかしら」

「そこそこって感じかな」

「……そう、そこそこね」


そう言いながら、下部さんは、紙を数枚、机の上に置いた。

よく見るとそれは、テスト用紙である。


「えっと……」


行われた、全教科分のテスト用紙。

そして、全ての用紙に、この世のものとは思えない点数がついていた。


「これは、酷いね」

「私、体には自信があるのよ」

「えっ?」

「頭を使わないでも、できる仕事があるってこと」

「どうしたの?下部さん」

「もういいの。諦めたわ。私は所詮、体で稼ぐことしかできない女なのよ」


下部さんは、深々とため息をついた。

この人、風紀委員長でよかったんですよね?


「あのさ、まぁそれはいいとして、どうしてわざわざ僕を呼び出したの?」

「そうね。別に、神畑くんの想像するような、エッチなことは、何もないわよ」

「一切想像してないよ」


むしろそれを想像しているのは、下部さんの方だろう。


「……勉強を、教えてほしいの」


なんだ、そんなことか。

いきなり呼び出されたから、もっとヘビーな要求をされるかと思った。


「僕でよかったら、ぜひ」

「本当?私、神畑くんの要求に、全部答えられるか、わからないわよ?」

「何一つ要求するつもりはないから安心して」

「少子化が進むわけよね」

「何が言いたいの?」


とりあえず、僕は、下部さんのテスト用紙を、全て確認してみる。

壊滅的であることは間違いない。ほとんど記号問題しか埋まってないし、そこも実力で解いたのかは、怪しいところだ。


「どうかしら、神畑くん」

「うん。いやまぁ、酷いけどね」

「何とかして、全教科平均は割らないくらいにしたいわね」

「まぁ、そのくらいなら、範囲絞ってやれば、なんとかなるんじゃない?」


下部さんの表情が、途端に明るくなる。


「先生と呼ばせてもらうわ」

「やめて」

「男先生」

「女教師みたいに言わないでよ」

「じゃあ先生、早速やりましょう」

「えっ、今日から?」

「そりゃあそうよ。寝たらモチベーションなんて下がるもの」

「そうか……」

「もちろん、一人で寝るわよ私は」

「誰も追求してないでしょそこ……」


と、いうわけで、どうやら僕は、今から先生をやるらしい。

下部さんは、数学の参考書を取り出した。


「そもそも私、何がわからないのかすら、わからないのよ」

「まぁ、ありがちだよね」


ちょっとずつ、探っていくことにしよう。


「えっと、数学でいうと……、確率とかはわかる?」

「わかるわよ。信じていれば願いは百パーセント叶うってやつよね」

「ずいぶん前向きな捉え方をしてるね」


逆鉾さんなら、逆を言っただろう。なんなら、そもそも何一つ信じようとしない子だけど。


「じゃあ、二次関数とかは?」

「無理ね」

「……」

「そもそも私、算数が苦手なのよ」

「……なるほど」

「何よその顔は」


相変わらず不機嫌そうな顔で、僕を睨みつけてくる下部さん。


「四則演算は?」

「し……なに?わからないわ」

「四則演算だよ。足し算とか掛け算とかのこと」

「あっ、それならわかるわよ」


自信満々の下部さん。しかしこれは、知っていて当然の知識である。


「四則演算ね。覚えたわ。四字熟語よね?」

「違います」

「なんでよ」

「それだと、風紀委員も、生徒会長も、四字熟語になっちゃうよ」

「えっ、違うのかしら」


数学が苦手、算数が苦手。

そんなレベルの問題では、ない気がしてきた。

こんな人が、学校の風紀を取り締まっているというのだから、恐ろしい話である。


「どうやってこの高校受かったの?一応進学校なんだけど」

「特別推薦よ。中学校三年生の時、道を歩いていたら、理事長に、うちの学校へ来ないかって誘われたの」

「アイドルのスカウトじゃないんだから」


理事長は、一体下部さんの何を見て、合格にしたのだろうか……。

結局、案の定孤立してるわけだし。


「ア、アイドルのスカウト?違うわよ。そんないかがわしいものと同じにしないで」

「何を言ってるの?」


急に頬を赤くして、慌て出す下部さん。

どこにスイッチがあるのか、相変わらずわからない人だ。


「だって、アイドルのスカウトって、アイドルになれるって嘘を吹き込んで、最終的には……その……え、エッチなDVDに、出演させるのよね?」

「ニュースに影響されすぎだよ」

「神畑くん。どういうこと?私、この学校を卒業したら、エッチなDVDに出なければいけないの?」

「そんなわけないでしょ」

「どうせ出るなら、主役がいいわ」

「そういう問題?」


微妙なところで、向上心を見せてくる下部さんだった。

……そもそも、エッチなDVDに、主役とかあるのかな。


「まぁしかし、あんまり勉強が得意じゃないなら、この学校のテストは、相当厳しいだろうね」

「えぇ。でも一年生の時、保健のテストは満点だったわ」

「うん……」

「二年生は、保健の授業ないのよね……」


肩を落とす下部さん。

……まぁ、授業を真面目に聞いているという点では、褒められるだろう。

誰とは言わないが、授業を聞かない女の子を、二人くらい知っているので。


「下部さん。勉強するにしても、多分中学の範囲から、やり直さないといけないと思うよ」

「そうね……。まだ次のテストまで時間があるもの。この際、基礎からしっかり積み上げるべきだわ」


なかなか物分かりのいい人だ。

普段から、これだけ柔軟だといいんだけれど。


「じゃあ、明日早速、中学生の時使っていた教科書を持ってくるわ」

「えっ」

「えっ?」

「いや、中学生の範囲も、僕が教えるの?」


下部さんは、キョトンとしている。

何当たり前のこと言ってんだこいつ。みたいな顔だ。


「だって、そういう話でしょう?」

「さすがにそれは、自分でやってよ」

「そんな、自分一人でだなんて、オ……いえ、なんでもないわ」

「今、とんでもないこと言おうとしなかった?」

「よくわからないわね。とにかく神畑くん。私一人じゃ、勉強なんてできないわよ。助けてくれないかしら」


……まぁ、乗りかかった船だし、助けてあげるか。

仲良くなるための、コミュニケーションの一環と捉えれば、悪くない話なのかもしれないし。


「でも、私にエッチなことするのは無しよ?例え、勉強を教えている途中、距離が近くなって、うっかりお互いの肌が触れ合ってしまい、微妙な空気が生まれたとしても」


それはむしろ、距離感を測るメーターがぶち壊れている下部さんに、気をつけてもらいたいくらいである。


「わかってるよ」

「わかればいいのよ」


なぜか誇らしげな、下部さんだった。


「あの、まぁ英語と数学は壊滅的だから、一年生からやり直すとして……理科と社会は、覚えるだけだし、いきなり高校の範囲からやっちゃおう」

「な、段階を踏まずにいきなり?そんなの、路上でエッチするようなものじゃない」

「全然違うと思う」


下部さんの残念な例えはさておき、点数を取るだけなら、理科と社会は、間違いなく次の範囲を先取りする方が早い。

なんせ、目標は平均点なのだ。


「社会の教科書は持ってる?」

「持ってるわ」


下部さんは、カバンから日本史の教科書を出した。


「僕のやり方でよければ、今教えるけれど」

「俺色に染めてやるってやつね。相変わらずエッチだわ」

「いちいちそういうの挟まないと、気が済まないの?」

「今、挟むのところで、私の胸を見たわね!?」

「……」


勉強どころではない。


「えっと、で、いいかな」

「いいわよ。覚悟はできてるわ」

「別にそんなに構えなくていいから。えっとね、ノートはある?」

「ふふん。愚問ね、神畑くん」


そう言うと、下部さんは、自分の頭を、コツンコツンと叩いた。


「私のノートは、ここよ」

「よくそんなこと言えたよね」


ノート取ってないのか……。

そりゃあ、点が取れるわけもない。


「次からは、ちゃんと紙のノートに、黒板の内容を写してね」

「どんどん神畑くん色に染められていくわ……」

「常識だよ」


とりあえず、今回は、僕のノートで代用する。


「こんな風に、人物の名前とか、建物の名前とかを、オレンジ色のペンで書くでしょ?そうすると、赤い下敷きを被せたら、消えるから、これで楽に暗記できる」

「おっ、おぉ……」


下部さんは、驚いている様子だった。


「なるほど、だからみんな、赤い下敷きを持って、ノートに被せていたのね。私はてっきり、飛び出るグラビアか何かを見ているのだとばかり思っていたわ」

「赤だけでは飛び出ないけどね」


そもそもそれ以前の問題ではあるけれど。


「ありがとう神畑くん。早速、次の授業からやってみるわ」

「うん。平均点なら、ノートだけで取れると思うから、頑張ってね」

「問題は、英数国よね……」

「えっと、まぁ英語と数学は仕方ないとして、なんで国語もできないの?」


僕は、下部さんの回答が書かれた、国語のテスト用紙を確認してみる。


「……下部さん、これ、真面目に回答した?」

「したわよ?」


そうは思えない解答の数々だった。


「えっと、大問二の、(四)。この時のたかしくんの気持ちを答えなさい。だけど……。お姉さんと、一緒にお風呂に入りたい。ってなってる」

「だって、中学一年生の男の子なのよ?当たり前じゃない」


模範解答としては、引っ越ししてしまう近所のお姉さんに、想いを伝えられない、たかしくんのもどかしさを書きあらわしていればいいわけだが……。

あまりに酷すぎる。


「それから、(五)。この物語における、たかしくんの成長を答えなさい。の回答……これはもう、わざとだよね?」

「何がよ。真面目に答えたわ?」

「たかしくんは、小学六年生から、中学一年生になるタイミングで、体毛が生え始めた………。これが真面目な回答?」

「何よ。神畑くんは、成長が遅かったのかしら」

「そういう話じゃないんだけど」


もう、隠す気ないよね?この人。自分が変態妄想お化けってこと。


「先生にも訊いたわよ。なんでこれじゃダメなのかって」

「先生は、なんて?」

「今の神畑くんと、同じ顔をしていたわ」

「だろうね」


困り果てた、というか、困惑の表情。

僕はこうして、言いたいことを言えるが、先生はそうはいかないだろう。かわいそうに。


「あのね、下部さん。国語の問題に、主観を入れたらダメだよ」

「そうなの?」

「だって、そんなことしたら、答えが無限大に生まれちゃうでしょ」

「それが言語ってもんじゃない」

「もう少しいい点数を取ってから、そういうこと言おうね」


下部さんは、悔しそうな顔をした。


「わかったわよ。次はしっかり頑張るわ」

「うん。じゃあこれで、一応全教科、方向性が見えたね」

「ちょっと待ちなさい。理科は?」

「理科は……まぁ、気合でなんとかしよう」

「そうね。信じていれば、願いは百パーセント叶うもの」


自信を持ってくれたみたいで良かった。

残念ながら、信じたところで、点数は上がらないけれど。


「じゃあ、そういうわけで、今日は帰るね」

「えぇ。明日から、みっちり鍛えられてあげるわ」


鍛える側みたいな意気込みの、下部さんだった。

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