神畑杏美の場合
「兄貴、一生のお願いだ」
「嫌だ」
「兄貴〜!」
杏美が、抱きついてくる。
休日の朝から、騒がしい子だ。
「こないだも、一生のお願いを聞いてやったばっかりだぞ」
「生まれ変わったんだよ、あたし」
「そういう問題じゃない」
「頼むよ兄貴〜」
そう言いながら、グリグリと、頭を僕に押し付けてくる。
犬か、お前は。
「兄貴しか、頼れる人がいないんだ」
「それはお前が引きこもってるからだろ?」
「その通りだ」
「何潔く認めてるんだよ」
とりあえず、杏美を引き剥がし、ソファーへ座わらせる。
「話だけでも聞いてくれよ」
「聞くだけだからな」
「実は、駅前のショップで、店舗限定のフィギュアが販売されているんだ。それが欲しい」
「……」
要するに、パシリというわけだ。
基本的に、杏実のお願いは、こういうものが多い。趣味的にも、店舗限定とか、そういう壁にぶち当たることが多いのだ。
しかしこれは、杏実の引きこもりを解消し、孤立から救い出すチャンスかもしれない。そう捉えよう。
「杏美、今日は何を言われても、僕は聞かないぞ」
「どうしたんだよ兄貴。嫌なことでもあったのか?」
「違う。あのな杏美。欲しいものは、自分で手に入れなきゃダメなんだぞ」
「そんなこと、学校で習ってないぞ」
「学校に行ってないからだ」
そもそも、学校で習うことではないけれども。
「もちろん、タダでとは言わないぞ」
「おっ、じゃあ、何をしてくれるっていうんだ?」
「フィギュアのお金は出す」
「当たり前だろ」
タダでとは言わないって、そういうことかよ。文字通りじゃないか。
「そ、そうか。悪かったな。兄貴も思春期だしな」
急に頬を赤くして、もじもじしだす杏美。
「おい、僕が一体、どんな要求をすると思ってるんだ?」
「そんなこと、あたしの口から言わせるのかよ」
「……もういいよ。とにかく僕は、買いに行ってやらないからな」
「じゃあ、ゲームしよう。ゲームであたしが勝ったら、買いに行ってくれ」
「僕が勝ったら?」
「手に入れたフィギュアは、兄貴のものだ」
「いらないんだけど」
残念ながら、僕にフィギュア収集の趣味はない。今思えば、杏美と、バッチリ合う趣味って、一つもないな。
……もし、僕がフィギュア好きだったら、自分の分を買いに行くついでに、みたいな感じで、より一層杏美の引きこもりに、拍車をかけていたかもしれない。
「じゃあ、わかった。兄貴は、あたしの引きこもりをどうにかしたいんだよな」
「その通りだ」
「あたしが負けたら、来週は毎日学校に行ってやるよ」
「おっ、ようやくいい条件が出てきたな」
「もちろん土日も含めてな」
「そこまではしなくていいぞ」
ともあれ、これなら、十分お互いに勝負するメリットがあるな。
……ただでさえ、理事長に、グチグチと文句を言われているので、こういう実績は大事にしたい。
「で、どんなゲームなんだ?」
「愛してるゲームだよ」
「……杏美、お前、引きこもりなのに、どうしてそのゲームを?」
「兄貴、さすがに引きこもりをバカにしすぎじゃないか?」
杏美に、軽く睨まれる。
「ネット構ってりゃ、嫌でも入ってくるんだよ。そういう情報」
「それもそうか……。まぁ、そこはいいとして、兄妹であのゲームをやるのか?」
「ふふん。あたしは絶対の自信があるんだ。兄貴は照れ屋だからな」
「お前も十分照れ屋だと思うけどな」
ただ、躊躇いなく抱きついてきたり、一緒の布団で寝たいとか言い出すあたり、そこらへんの免疫は、僕よりもあるのかもしれない。
「それじゃあ、兄貴。隣に座ってくれ」
杏美が、自分の隣を、ポンポンと叩く。僕はそこへ座った。
すぐさま、杏美は、手を握ってくる。
「へへっ。兄貴は、触られると弱いんだよな」
「卑怯じゃないか?」
確かに僕は、例えそれが妹であろうと、女の人に触れられるのは、あまり得意ではない。
「もちろん、この手を離しても、兄貴の負けだぞ?」
「……」
「じゃ、じゃあ。早速やろう。先行は兄貴からでいいぞ」
「お、おう」
杏美が、まっすぐに僕の目を見つめてくる。
ルールなので、仕方がない。僕も、視線を逸らさぬよう、その勝負に乗っかった。
……これ、先行の方が嫌だな。
ゲームとはいえ、記念すべき、1回目の愛してるを、言わなければいけないのだから。
意識を集中して、できるだけ雑念を除去していく。
よし。落ち着いてきた。今なら大丈夫だ。
「……愛してる」
「ずいぶん時間がかかったな」
杏美は、ノーダメージらしい。多少頬は赤いが、完全に照れているという様子でもない。
「そもそもな、兄貴。これ、相手に言われるときに、緊張するもんなんだぞ。言うときにまで緊張してたら、保たないからな」
「なるほど」
完全に不利だな、これ。
「愛してるぞ、兄貴」
杏美のターンは、すぐに終了した。
ここで、このゲームについて、わかったことがある。
僕は、普段から、杏美に、愛してるだのなんだのは、言われ慣れているので、そこに関しては、ダメージが少ない。
対する杏美は、僕から言われても、照れより、普段そういうことを言わないという方向での、嬉しさが勝っているような感じが見受けられる。
そして、前述の通り、杏美は、愛していると言い慣れているわけで。
攻守隙がない。という結論に至った。
つまりこれは、僕が、愛してるというセリフを、どれだけ吐けるかという勝負になっている。
なるほど、確かに、そりゃあめちゃくちゃ不利だ。
「どうした?兄貴の番だぞ?」
杏美は、余裕たっぷりの表情で、まっすぐに、僕を見つめている。
こいつ、気づいてて、この勝負を挑んできたな?
「……愛してる」
「おっ、苦しそうだな兄貴。もう楽になっちまえよ」
「警察かお前は」
「愛してる」
「……愛してる」
「愛してる」
レシーブが早すぎる。
このままだと、間違いなく押し切られてしまうだろう。何とかしなければ……。
何か、杏美に、弱点はなかっただろうか。
「おいおい兄貴、ギブアップか?」
杏美は、ニコニコとしながら、相変わらず、一ミリたりとも、視線を僕の目から離そうとしない。
杏美の弱点、杏美の弱点……。
……思い出した。一つだけあったぞ。
「杏美」
「どうした?兄貴」
「……愛してるよ、キョウカ」
「!?」
杏美の顔が、一瞬で真っ赤になる。
杏美の弱点、それは、恋愛漫画だ。
男子っぽい趣味を持つ杏美が、唯一手にした、女の子向けの趣味。恋愛漫画。
そして、キョウカというのは、杏美が一番好きな作品の、ヒロインの女の子だ。
「どうした?キョウカ」
「キョ、キョウカって呼ぶな。うわうわ。急に恥ずかしくなってきた。なんだこれ」
見る見るうちに、杏美が動揺し始める。作戦成功だ。
……ただ、これは、僕の方も、かなり恥ずかしい。なぜなら、恋愛漫画の、主人公をやっているわけなのだから。
諸刃の剣と言える。肉を切らせて骨を断つ。これでようやく、五分の戦いに持ち込めた。
「あ、あ、愛してるぞ。タケヒコ」
そういえば、主人公の名前は、そんな感じだったな。
……別に、杏美が合わせる必要は、ないんだけども。
「あぁ、ダメだ。あの作品のキョウカの気持ちになってきたぞ、あたしは」
「そこまで影響があるとは思わなかった」
冷めないうちに、次の手を打とう。
「キョウカ、愛してる。世界で誰より、君のことが大切だ」
「〜〜〜っ!」
杏美は、身体中を震え上がらせて、ついに、クッションで、顔を覆い隠してしまった。
やった。僕の勝ちだ。
何か大切なものを失った気がするが、勝てばいいのだ。
「杏美、僕の勝ちだな」
「ず、ずるいぞ兄貴!色々!」
「そうか?」
「まず、キャラになりきるなんて反則だ!それに、愛してる以外の言葉を言うのも反則!イエローカード二枚で、退場!」
杏美は、相変わらず顔をクッションで隠しながら、僕の胸を、強く叩いてくる。
「負け惜しみはよくないぞ。僕は圧倒的不利な状況から、勝利したんだからな」
「下克上ってやつだな」
「ちょっと違うと思うぞ」
「はぁ……」
ようやく、クッションを置いた杏美。
その顔は、真っ赤だった。
「もう、どうしてくれるんだよ兄貴。あたしをこんな風にして」
「やめろその言い方」
「あたしが浅はかだったよ。兄貴のこと大好きなのに、こんなゲームやるべきじゃなかった」
「お前が負けた原因は、僕じゃないけどな」
明らかに、例の漫画の主人公のおかげである。
「あーあ。来週一週間、学校かぁ」
「約束だからな。ちゃんと守れよ」
「わかってるよ。あたしは生まれてから、約束を破ったことは、一度もない」
自信満々に言い切る杏美。しかし、この妹は、一生のお願いを、もう何十回と発動している。全く信用ならないセリフだった。
「やだなぁ学校。急に休みにならないかな」
「ならないぞ」
「ネットの友達に、休みにする方法を訊いてみようかな」
「絶対やめてくれ」
爆破予告とか、そういった類のアドバイスをしてきそうだから。
「でも、兄貴は毎日、一緒に登校して、下校してくれるんだよな?」
「まぁ、そうなるな」
「お昼ご飯も一緒か?」
「仕方ない」
「まぁ……だったらいいか」
どうやら、納得してくれた様子である。
「さて、じゃあ。フィギュアは自分で買いに行くんだよな?」
「……それなんだけどさ、兄貴」
「ん?」
杏美は、先ほどのゲームの時のように、またしても、まっすぐ僕の目を、見つめてきた。
「な、なんだよ」
「一緒に、来てくれないか?」
「えっ、なんで」
「だって、休日に、せっかく外に出るんだ。どうせなら……兄貴と一緒がいいなって」
「……」
どうやら僕は、この妹を、またしても甘やかしてしまうことになるらしい。
そんな平和な、とある休日のお話でした。めでたしめでたし。
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