神畑杏実の場合

「ただいま〜」

「おかえり兄貴。ご飯にする?お風呂でご飯にする?それとも……あたしの部屋で、ご飯にする?」

「リビングで食べよう」

「チッ」


元気よく、ご自慢のポニーテールを、ユサユサと揺らしながら、杏実は台所へ戻って行った。


神畑杏実、一年生。

僕の実の妹だ。

そして、見事に兄と同じく、孤立している。

……まぁ、孤立というか、不登校なんですよね。


「兄貴、ご飯できてるから、早く座って食べようぜ」


リビングに向かうと、杏実が、ご飯をよそって持ってきてくれた。

そうか、もうそんな時間か。

アレな女の子たち三人とお話ししていたら、結構時間を食っていたらしい。


「うん。手洗いうがいしてくるよ」

「あたしもしようかな」

「杏実はずっと家にいただろ……」

「いや、リビング出たし?」

「リビングは外のうちに入らないぞ」


まぁ、うがいは置いといて、手洗いするのは良いことだろう。

僕より先に、洗面所に向かい、手を洗う杏実。

泡だらけの手のまま、急に僕をじーっと見つめてきた。


「なに?」

「兄貴、なんか臭わないか?」

「いや、臭わないけど」

「女の匂いがする」


泡を流した後、手も拭かずに、杏実が近寄ってきた。

そして、躊躇うことなく、僕に抱きついてくる。


「杏実、おい」

「うわ……完全に女の匂いだぞこれ。兄貴、やってんな」

「お前のびちょびちょの手が、僕の服を濡らしたぞ」

「じゃあ、服脱いで。やっぱりお風呂でご飯にする?」

「その選択肢だけはあり得ないからな」


杏実を引き剥がして、今度は僕が、手を洗い、うがいをする。


「兄貴、あたしという女がいながら、どうして浮気なんかしたんだ?」

「あのな、杏実。この際だから話しておこう。僕は今、理事長からの命令で、孤立している女の子を、孤立から救おうとしてる。その対象として、杏実も指名されているんだ」

「ごめん兄貴。途中から聞いてなかった」


杏実は、早足で、リビングへ行ってしまった。

この妹、危機管理能力は高い。


「さ、食べよ食べよ」

「杏実」

「兄貴、今日は兄貴の好物のハンバーグだぞ」

「それはありがとう」

「あたしがケチャップで、絵を描いてあげるからな」

「いや、それはいいよ」

「マヨネーズがよかったか?」

「寿司屋のやつじゃん」


許可を出す前に、杏実は、僕のハンバーグへ、ケチャップで何かを書き始めた。

可愛いキャラクターの絵だ。

……食べづらくなっちゃった。


「いただきまーす」

「いただきます」


早速、ハンバーグを一口。

うん。美味しい。やっぱり、杏実の手料理は最高だな。

……これがあるから、僕としても、あんまり強く、引きこもりを追求できない。

できれば、僕からではなく、何とかして、杏実の方から、学校に来てもらえるようになってもらいたいのだが……まぁ、現状は厳しい。


「兄貴、美味しいか?」

「あぁうん。美味しいよ」

「実は、隠し味で、オレンジを入れてみたんだ」

「なるほど、確かに、少し酸味があるなと思ったんだ」

「へへっ。あたしと兄貴の間に、隠し事は無しだからな」

「隠し味は別に言わなくてもいいんだぞ」


誠実な子に育ってくれて、兄としても誇り高い。

……いや、引きこもってるんだった。この子。


「これだけ料理ができたら、調理部とか入れば、即戦力なのにな」

「いや、あたしは兄貴のためにしか、料理しないぞ」

「何それ可愛い」

「か、可愛いってそんな。兄貴……」


杏実は頬を赤くして、目を逸らした。

これだけ容姿が良くて、仕草も可愛くて、料理だってできる。

きっと、いいお嫁さんになるだろうな。

家から出られさえすれば。


「杏実、別に毎日通えとは言わないからさ、少しずつ学校に来てみないか?」

「兄貴と同じクラスだったらいいぞ」

「それは無理な話だな」

「兄貴があたしのクラスに来ればいいだろ?」

「余計無理だろ……」


妹のクラスで、一緒に授業を受ける兄。

どう考えても変態だ。


「だいたい、あたしはちゃんと、試験は個別で受けてるぞ。成績も良いんだ」

「それは知ってるよ。でも、学生ってそれだけしゃないじゃん?」

「まぁ、確かに、兄貴と一緒に登校するイベントとかがないのは、ちょっと痛いな」

「一旦僕のことは忘れてくれ」

「い、嫌だ。一瞬でも忘れるもんか」


僕のことを、大切に思ってくれているのは、ありがたい話だけれど……、いつまでも、兄離れできていない現状は、心配でもある。

引きこもり云々の前に、それもどうにかしたい。


「あたしは、別に孤立なんかしてないだろ?こうやって、兄貴と一緒に暮らしてるじゃないか」

「それ、僕がいない間は孤立してるって、認めてるようなもんだぞ」

「何言ってんだ。あたしには、ネットの友達がたくさんいるぞ」

「それはちょっと違うだろ」

「違くない。ネットの友達だって友達だ。あたしが困った時は、いつでも相談に乗ってくれる」

「悩みとかあるのか?」

「新しい敵が追加された時、弱点を教えてもらったり、新マップでの動きだったり、なんでも教えてくれるんだ」


誇らしげに言う杏実。

典型的な、引きこもりのスタイルだった。


「杏実、現実の友達が欲しいと思わないのか?」

「思わない」

「即答だな」

「言っちゃ悪いけどさ、現実でゲームの話とか、アニメの話すると、みんな引くんだよ。杏実ちゃん、そんなキャラじゃないと思ってた〜とか言って」

「それはまぁ、そうかもな」


杏実は、髪の毛をオレンジ色に染めている。

そして、この口調だ。

元気はつらつ女子といった印象だろう。


「ゲーム好きそうなやつに話しかけると、避けられるんだよ。何でなんだ」

「……」


そりゃあ、髪の毛染めた、元気はつらつ女子が、いきなり話しかけて来たら、驚くだろう。

特に、ゲームが好きな男子のコミュニティには、存在しないタイプの女の子だし。


「その点、ネットの友達はいいよ。そのゲームの話しかしなくていいからな」

「言い分はわかるけどさ……。やっぱり、普通の女の子っぽい趣味とかも、持ってほしいなぁなんて、兄としては思ってしまうんだよ」

「……兄貴は、今のあたし、嫌いか?」


泣きそうな顔で、僕を見つめてくる杏実。


「そんなことはないけど……」

「けど?」

「やっぱり、引きこもりを肯定するのは難しいな」

「じゃあわかった。兄貴がノートパソコンを持ってって、それをあたしのクラスの、あたしの席に置いてくれれば、ビデオ通話で、出席扱いになるだろ?」

「結局引きこもりじゃん……」


それ、講演会とかに、交通トラブルで間に合わなかった講師とかがやるやつだろ。


「じゃあ、とりあえず、いきなり登校はハードルが高いだろうから……、外出だけでもしよう」

「庭で運動してるぞ」

「だから、庭とかリビングは敷地内だ。外出じゃない」

「なんだって?なら、金持ちになって、この世界の全てを、うちの敷地内にしてやる」

「野望を持つのはいいことだ」


引きこもっている間は、到底不可能な話だろうけれど。

そもそも、杏実がいつから引きこもっているのか、僕は確かな記憶がない。

なんとなく休みがちだな〜。って時期もあったし、気がついたらこうなっていた。

何か原因があるのは確かだが、あまり確信に触れる質問をすると、心を傷つける可能性がある。


「兄貴、なにあたしのこと見つめてるんだ?」

「あっ、ごめん」

「そんなにあたし、可愛いのか?」

「うんまぁ。贔屓じゃなしに、かなり可愛いと思うよ」

「そ、そっか!えへへ」


……この笑顔を、家に留めておくのは、あまりに惜しい。

杏実には、もっと幸せになってもらいたい。

友達をたくさん作って、クラスの人気者になる。そんなことが、できるはずなのだ。

僕とは違って、杏実には、自分の素材を活かす能力がある。


「杏実、今度こっそり、アイドルのオーディションに、お前の写真を送っておこうと思うんだよ」

「ア、アイドル?いきなりなにを言いだすんだよ」

「隠し事はなしだからな。別に、本当になれとは言ってない。お前という女の子が、ちゃんと世間で評価されるってことを、知ってもらいたいんだよ」

「現実のアイドルとか、ありえないぞ、兄貴。めちゃくちゃ大変なんだ。それならあたしは、ネットアイドルやるよ」

「結局引きこもりのままじゃないか」


まぁ、この危機管理能力の高い妹が、自ら進んで、ネットに顔を挙げるなんてことはないだろうが。


「ちなみにあたしランクのゲーマーは、数える程しかいないから、配信なんかやると、めちゃくちゃ儲かるんだよ。やらないけど」

「お金持ちになりたいんじゃなかったのか?」

「兄貴と二人で暮らせれば、どこだっていいよ、あたしは。へへっ」


なにこの妹。めちゃくちゃ可愛い。

なんでも許してしまいそうになるし、実際許しているから、ここまで引きこもりのままきてしまったわけだが。

理事長から言われたということもあるけれど、そろそろ僕の方が、しっかりしないといけない。


「僕だって、杏実のことは、妹として、大切に思ってるよ。だからこそ、学校には通ってほしいなと思う。学生でしかできないことってあるからな」

「そうか?留年し続ければいいだろ」

「メンタルが保たないと思うぞ」


20歳を超えた高校生だなんて、厳しいものがある。


「とにかくあたしは、外に出ないぞ。いくら兄貴の頼みとはいえ、無理だ。どうしてもって言うなら、あたしを納得させられる理由を持ってきてくれ」

「納得させられる理由か……」

「……それか、昔みたいに、あたしと一緒の布団で寝てくれたら、考えないでもない」

「一気に条件が変わったな」


さすがに、杏実が中学校二年生くらいになってからは、僕から断りを入れている、添い寝だが、そういう条件なら、再度検討してもいいかもしれない。

僕にとってデメリットがあるわけではないが、妹の兄離れをせき止めてしまうのは危険なのである。なので、現状休止中ではあるが。


「……まぁ、週に一回くらいなら、いいよ」

「本当か!?やったー!」


ガッツポーズをして、元気よくはしゃぐ杏実。

大丈夫か、高校一年生。お前はもう、結婚すらできる年齢なんだぞ。


「じゃあ、あたしも、一週間に一回は学校に行くよ」

「いい心がけだな」

「その代わり、条件がある。行きも帰りも兄貴と一緒だ」

「そのくらいならいいよ」

「兄貴に先約がある場合でも、あたしは着いて行くぞ」

「うん」


まぁ、誰かと一緒に帰ることなんてないし、それは問題ないだろう。

……何度も言うが、僕だって孤立しているわけで。


「さ、食べよ食べよ。兄貴のために、愛情をたくさん込めて作ったんだから」

「ありがとう」

「あっ、そうか。愛情も隠し味だな!ごめん兄貴!忘れてたよ!」


にししっ。と、笑顔ではにかむ杏実。

本当に、可愛い妹だ。

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