第2話「ゆめのなかで」

「瞬く月が覗く先、かつての寝屋で三度生まれるとき…」


石畳の路地裏を公園に向かって歩きながら、わきはさっきアーテルが言ったあの言葉を繰り返し繰り返し呟いていました。しかしどれだけ繰り返してみても、いったいぜんたいなんのことだか、さっぱりわかりませんでした。



やがて公園にたどり着きました。

木々はすっかり秋色に染まり、鮮やかな赤や黄でいっぱいでした。この辺りで一番広いその公園には、ピクニックをする人や木陰で読書を楽しむ人、そんな様子を熱心に描き写している絵描きなど、たくさんの人がいました。

わきはしばらく林の小道を散歩しました。かさかさと、落ち葉の絨毯が鳴らす心地よい音が聞こえます。それから公園を寝どこにしている猫たちとあいさつや情報交換をすませると、いつもの場所へ向かいました。そこは表通りに面した公園の入り口です。


わきはそばにある楓の木をするすると器用に登り、枝を伝って入り口の門柱の上に降りると静かに寝そべりました。石造りの門柱は、お日さまを浴びてほんのり暖かくなっていてとても気持ちいいのです。お日さまは今、わきの頭から尻尾の先までを優しく照らしています。

ここからは、ひっきりなしに行き交う馬車や人々、賑やかな商店の様子がよく見えました。奥の方からこちらに向かって真っ直ぐに表通りが延びてきて公園にぶつかると、丸い公園をぐるりと取り囲むように左右に分かれます。

道が分かれるその角、わきの正面に小さなレストランがありました。そう、あの女の子が昼に働くレストランです。


昼も夜もなく毎日毎日働き続けている女の子を、ときにはそっと離れて、ときには店の中に入ってまでしてわきはいつも見守っていました。

はじめこそ、店に行くたびに帰るように言われたわきでしたが、そのまま大人しく言うことを聞くような猫ではありません。

やがて女の子がその頑固さに根負けしてしまって、渋々、店に来ることを受け入れたのでした。


レストランのオーナーは無愛想で大柄な男ですが、見た目と違ってとてもいい人でした。

彼はわきをすっかり気に入り、わきが店へやってくると、朝に市場で買い付けた新鮮な魚を、ときにはそのまま、ときには焼いて出してくれました。


今、そのレストランでは一人の女の子が給仕に勤しんでいますが、それは飼い主の女の子ではありません。飼い主の女の子はここのところ、たまに出かけて行っては、夜遅くに帰ってくるようになりました。

わきは普段と変わらずなんでもない風を装っていましたが、内心は心配で仕方ありません。


そして今日も、女の子はいませんでした。


(いったい、どこでなにをしているんだ…)


わきはしばらくのあいだ、レストランに出入りする人々の姿をぼんやりと眺めていましたが、ぽかぽか陽気に誘われて、やがて眠ってしまいました。そしてゆっくり、ゆっくりと、夢の中へ意識は沈んでいきました。

すると、夢を見ました。しんしんと雪が降り注ぐ、あの日の夢を。





占い師が奇妙な予言をしてからどれくらい経ったでしょうか。相変わらず雪は降り続き、わきのいた木箱の中にもうっすらと雪が積もっていました。

いい加減体も凍えてきた頃、不意にまた、街灯の明かりを遮るものがありました。



「あら、あなた。素敵な色ね」


そう言って、箱の中身をしゃがみこんで覗き込んでいるのは、まだあどけなさの残る一人の女の子でした。


「秋に咲くコスモスかしら、それとも春に咲く桜かしら。とにかくとっても素敵な色よ」


吐く息が街灯に照らされて、一瞬の後に消えていきます。真冬だというのに、女の子は手袋も帽子もマフラーも無しに、薄手のコート姿で、寒さのせいかしきりに手を揉んでいます。


「かわいそうに…すっかり凍えてるわ…。さあ、いらっしゃい」


女の子はわきを優しく抱え上げると、自分の目線の高さまで持ち上げ、その目をじっと見つめました。


「捨てられたのね、あなたも…。よかったらうちに来る?まだ何にも無いけど、あなた一匹の面倒を見るくらい、なんてことないわ」


そう言って微笑む少女の顔を、わきは不思議な気持ちで見つめ返していました。わきがこれまで出会った人間は誰一人として、優しく声をかけてくれたり、笑いかけるなんてことをしなかったからです。



「なんだい、この気味の悪い色は!これじゃあ売れやしないじゃないか!」


「いっそ毛皮にしちまえばどうだい?もう少し大きく太らせてさ」



わきはお金持ちへ猫を売っている商人の家に生まれました。子猫たちは生まれてすぐに親猫から引き離され、方々へ売られてしまいます。

毛並みや顔立ちの良い子猫は特に高値で売られていきますが、そうでない子猫たちの扱いといえばひどいものでした。


先ほどの商人たちの会話を聞き、わきを不憫に思った使用人の一人に救い出されていなければ、わきは今頃、晩餐会に出かける貴婦人の手提げバッグかマフラーにでもなっていたことでしょう。



「おいら、変な色だけど…いいの…?」


「どうしたの?にゃあにゃあ言って。お腹空いた?」


「毛皮とか…カバンになんてしない…?」


「それとも寒いのかしら。あらあら、鼻水が出ているわ」


「寒いし…お腹も減った…」


「よしよし」



女の子はわきをそっと抱き寄せて、コートの裾で鼻を拭ってくれました。わきは女の子の顔を見上げながら、体以上に心がじんわりあったまってくるのを感じました。それはまるで、生まれ変わったかのような気持ちでした。

こちらを見ながら笑いかける女の子。その後ろには、街灯のチカチカした明かりがまるでお月さまみたいにこちらを覗いて…。





《がばっ!》


急に飛び起きたので、わきは危うく門柱の上から転げ落ちそうになりました。辺りはすっかり暗くなっています。心臓は今や早鐘をうっていて、そのドキドキはしばらくの間続きました。脳裏には今も、先ほどまでの光景が焼き付いています。



(あの場所だ…)



息が整うのを待たずに門柱から飛び降りたかと思うと、わきは突然走り出しました。驚く人々の足元をすり抜けて、ぐんぐん速度を上げていきます。



そのまま十分ほど走ったでしょうか。ある場所へたどり着きました。公園を挟んで、家とは反対に行ったところにある、あの酒場の近くの通りです。たまに女の子をお迎えに行ったときにちらっと横目で見る程度で、この場所へはずっとやってくることはありませんでした。


先ほど夢で見ていた場所。わきが占い師と女の子と初めて出会った場所。そして、捨て猫だったわきが女の子に拾ってもらった場所です。あの日と同じように、暗い路地には街灯の薄明かりだけがちらちらと瞬いていて、石畳を淡く照らしていました。



(場所…たぶんここだ…)



深呼吸してから、わきは街灯に近づいてその明かりを見上げました。粗末な電球のせいでしょうか。それともずっと電球が交換されていないのでしょうか。この街灯はいつでもチカチカしていました。丸くて淡く黄色味がかった光は、見ようによってはお月さまに見えました。



「瞬く月…覗く先は…」


わきはそう呟いて後ろを振り返ります。もちろん、あのときの木箱はとっくに無くなっていました。


「かつての寝屋…多分、箱なのかな…」


辺りをキョロキョロ見渡します。


「……あった…」


ちょうどあのとき、わきが入れられていたものとそっくりな箱が目に入りました。


(なにかおかしい…揃い過ぎてる…)


先へ先へと向かう考えとは裏腹に、わきは戸惑いを隠せませんでした。それも当然でしょう。今日初めて聞いた『不思議な世界』、そこへ行く方法が、自分の過去の出来事とあまりに一致しているからです。



不審に思いながらも、わきは木箱を記憶と同じところへ持ってくることにしました。足を踏ん張り、体重を乗せて、『うんしょ、うんしょ』と少しずつ動かします。

そして、ようやく作業は終わりました。


すっかり疲れたわきは、まだ少しモヤモヤしながらも木箱の中で休憩をとることにしました。



(いくら何でも考え過ぎかもしれない。たまたま、当てはまるものがあっただけで…第一、こんなに都合よくいくのも変だ)



箱の中には麻の袋が入れられていました。居心地は決してよくありませんでしたが、ひとまず考えをまとめるためにも、ゆっくり腰を落ち着ける必要があります。



(アーテルのやつ、からかったんじゃないだろうな…。でも、おいらの生い立ちなんて、話したことはなかったはずだし…)



そのとき、《コツン…コツン…》と足音が聞こえてきました。わきは考えることに夢中で、誰かが近づいて来ていることに気づきません。



(そもそも『願い事が叶う場所』なんてそんな簡単に行けるはずもないし…よくよく考えれば、そんな虫のいい話なんてあると思う方がおかしいんだ)



さっきまでの勢いが嘘のように、わきは気持ちがしぼんでいくのを感じました。


『もしかすると』『うまくいけば』そう思ったのに…。



わきは諦めて家に帰ることにしました。今が何時だかわかりませんが、夜がすっかり更けているのは確かです。今頃、女の子も心配しているかもしれない。そう思って、木箱の縁に足を掛けました。


そのときです。



「あー!やっと見つけた!」


女の子の声です。わきが声をした方を見ると、女の子が小走りで近づいて来るところでした。


「もう!家に帰ればあなたがいないから、あちこち探し回ったのよ?」


いつかと同じように、女の子が箱の前へしゃがみこみました。わきは少し胸騒ぎがしました。


「最後の最後にもしかしたらってね。私の勘も捨てたものじゃないわ」


女の子はそう言って、わきを箱からすくい上げると優しく抱きしめました。あの日こうしてもらったとき、凍えた心がじんわり熱を持ち、生まれ変わったような気持ちになったことをわきは思い出しました。胸騒ぎはどんどん大きくなっていきます。



(三度生まれる…)


「さあ、帰るわよ…って、どうしたの?私の顔に何か付いてる?」



わきは女の子の頭の少し上を見つめていました。わきが先ほど、全ての条件が揃ったと確信したその瞬間に、それは現れました。


まるで空中にぽっかり空いた落とし穴のようなそれは、淡い光を放ちながらぐるぐると渦を巻いています。そしてそのぐるぐるが早くなるにつれ、わきは体を引っ張られるような力を感じました。



「わ!わわっ…」


それはどんどん強さを増していきます。


「どうしたの?わき。どこか具合が悪いの?」


女の子が心配そうに顔を覗き込みます。いつもと変わらない、心優しい女の子。その顔を見て、わきは決意を固めました。


(今度はおいらが…)


わきは渦を《きっ》と睨みつけてから、女の子の顔、その目を真っ直ぐに見て言いました。



「大丈夫。心配いらないよ」


「わき?どうしたのよ」


「ごはん、ちゃんと食べなよ?あと、酔っ払ってソファで寝ないこと」


「ほら、帰りましょう?」


「……今まで…ありがとう」


「わきってば」


「じゃあ……行ってくる!」



わきはそう言うと、女の子の腕をすり抜けて、その肩から勢いよく渦へ飛び込みました。


それはあっという間の出来事でした。もし誰かがそばで見ていたなら、空中へ飛び出した猫が、一瞬で消えてしまったように見えたことでしょう。



それは、女の子にとっても同じでした。


「え…?わき…どういうこと…」



「わき!!!」

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