わきとおひるねのくに

@opty61

第1話「わきとおひるねのくに」

街の中心から少し離れた場所にあるレンガ造りの建物が立ち並ぶ通りから、狭い路地を抜けて更に奥へ行ったところに、赤いレンガでできた五階建てのひときわ古びたアパートがありました。


正面に備え付けられた黒い非常階段は、ところどころペンキがはがれていてあちこちに茶色い錆が見えます。そのアパートは今にも倒れてしまいそう…いえ、ほんとうにちょっぴり傾いていましたが、おんぼろにもかかわらず部屋はいつも満室でした。

そこに住んでいるのは、売れない画家や駆け出しのコック、年老いた靴職人や、夜にならないと姿を見せない占い師などさまざまです。年齢も仕事も肌の色も、てんでバラバラな住人たちですが、たった一つだけ彼らには共通点がありました。


それは、みんなそれぞれが「夢を追いかけている」ことでした。


画家はいつか売れることを。コックはいずれ自分のレストランを。靴職人は死ぬまでに最高の一足を。占い師は……(しーっ…)ああ、これはどうやら秘密のようです。


そんなアパートの三階。階段を上がって、埃っぽい水色のじゅうたんが敷かれた廊下を一番奥まで進んだ突き当たりの部屋。ここにも一人の夢見る女の子が、一匹の猫と一緒に暮らしていました。


女の子は昼は小さなレストランでウェイトレスをしながら、夜は酒場で歌を歌っていました。

酒場にやってくる客といえば、近所の工場で働く男たちやヤクザものがほとんどで、店の中はいつもワイワイガヤガヤうるさくて、エール酒が入ったままのジョッキが歌っている彼女の耳を掠めたことも、一度や二度ではありません。


それでも女の子は、下品なヤジを飛ばすお客や、歌なんて聞いてられるかとポーカーやケンカばかりしているお客には目もくれず、歌手としていつか有名になる日を夢見て毎日を懸命に生きていました。



前置きが長くなりましたが、残念ながらこのお話の主人公はこちらの女の子ではありません。暢気な主人公は、先ほどからごろごろ喉を鳴らしています。



ある十一月の日曜日の昼下がり。

晴れた空には雲一つ見当たらず、開け放った窓からは柔らかで暖かな日差しが部屋の中に降り注いでいます。その窓からは非常階段の手すり越しに、アパートの前にある空き地が見えました。

あの女の子が窓辺に置いた揺り椅子に腰掛けています。そして、ブランケットを掛けた膝の上には、まるでバンザイをするかのような格好で一匹の猫が仰向けに寝転んでいました。



「ふわぁ〜あ…」



たった今、大きなあくびをしたこの猫こそがこのお話の主人公です。


彼の名前は「わき」


なんでも、いつもこうしてバンザイをするように眠る姿から、その名前が付けられたそうです。

桜の花びらような淡いピンク色の毛並みに、淹れたてのコーヒーのような濃いブラウンのしましまがありました。



「どうしたの?わき。あんなに寝たのにまだ眠いの?」


「んなぁー…」


「ほら起きてねぼすけさん。今日はこれから大事な約束があるの。遅れるといけないから降りてちょうだい」


「……」


「もう…困った子ね。さあ…どいてちょうだいな」



そう言って女の子は、よいしょと床へわきを降ろすと、支度のために別の部屋へと行ってしまいました。

わきはしばらく、さっきまでのバンザイのまま床の上でぼーっと天井を見つめていましたが、いよいよあきらめたのか、ゴロンと寝返りをうつともったいぶりながら立ち上がって、また一つ、大きなあくびをしながら伸びをしました。

ぐぐぐっと前足を突き出して背中を伸ばしていると、《チリンチリン》と外から鈴の音が聞こえてきました。どうやら上の階に住むあの占い師の飼い猫が、外の非常階段を下りてきたようです。


少しして、窓の外の通路に一匹の黒猫が現れました。赤みがかった黒の毛並みに、今日の空のように真っ青なブルーの首輪をしています。そこに付けられた少し小ぶりな鈴が、先程の音の正体のようです。


「こんにちは、わき。調子はどう?」


いつものように涼しげな声でそう言うと、黒猫はその場にそっと腰を落としました。


「アーテルか……調子も何も、いつもの通り、ご覧の通りさ」


わきは面白くなさそうにそう言うと、窓辺に飛び乗りアーテルの隣へ並びました。そして部屋の中をちらっと振り返り小さくため息をつくと、しっぽを振りながら下り階段へ向かって歩き出しました。その後ろをアーテルが追いかけます。



「あら、おでかけ?珍しいわね」


「まあね」


「どこに行くの?」


「さあね」


「『さあね』だなんて、冷たいこと。せっかくいいことを教えてあげようと思ったのに」


「へー」



話しながら二匹の猫は階段を下りていきます。一段一段下りながら、わきはアーテルにたずねました。



「いいことって?」


「あら、やっぱり気になるんだ。教えてほしい?」


アーテルはおかしそうにクスクス笑っています。


「別に。話を持ちかけたのはそっちだろ」


わきは考えを見透かされて、面白くありません。


「あら、怒らないでよ。ちょっと、からかっただけじゃない」



そうこうしているうちに二匹は非常階段を下り終えました。階段は二階で途切れているため、今度は踊り場から真下へ飛び降りました。

地面にふわりと着地した二匹は、そのまま表通りに向かって石畳の路地を歩き始めます。



「いいことっていうのはね、不思議な世界の話」


「不思議な世界?」


わきは訝しげに聞き返しました。


「そう、不思議な世界。うちのご主人様に聞いた話なんだけど…」



アーテルが言うには、あの占い師は動物の言葉が理解できるとのことで、時々アーテルに昼間の街の様子をたずねては代わりに不思議な話を聞かせてくれるらしいのですが、最近よくその『不思議な世界の話』をするのだそうです。



「その世界は『おひるねのくに』っていって、夢のまた夢の向こうにあるらしいの。そこはいつでも春のようなお天気で、森やその中を流れる小川、広い草原にお花畑なんかがあるまさに楽園だそうよ」


アーテルは続けます。


「小高い丘にある木の周りには雲のようなふわっふわのベッドがいくつもあってね。木漏れ日を浴びながら飽きるほどお昼寝できるんだって。お昼寝に飽きたらぶらぶら散歩して、夜にはまた眠るの。お腹が空くこともないから食べ物の心配もいらないらしいわ」


アーテルはそう言うと、その夢のような世界を想像してかうっとり夢見心地になりました。



そんなアーテルとは違って、わきはそれほど興味が湧かないようです。


「ふうん」


「あら、興味なさそうね。私たち猫からすれば、とっても素敵な場所だと思わない?お昼寝し放題よ?」


「昼寝くらいなら、今のままでもじゅうぶんさ」


「ふうん」



表通りに近づくにつれ、喧騒も大きくなってきました。

表通りは馬車がすれ違うには充分な程の広さで、アパートと同じレンガ造りの建物が並んでいます。その多くは商店ですが、商店以外にも露天で簡単な料理を出す屋台や、玉乗りをしながら器用にお手玉をする大道芸人、お手製のアクセサリーを並べて売っているものもいました。

あの占い師、アーテルの飼い主も、夜な夜などこかの路地裏で、通りがかった誰かをつかまえては、水晶玉越しにその人の運命だか何だかをじいっと見つめていました。


わきは人通りを避けるため、表通りから一つ手前の路地を曲がりました。そこを真っ直ぐ行けばやがて公園にたどり着きます。アーテルは不意をつかれながらも、わきに追いつくように少しだけ小走りしました。そしてまた、横に並んで歩きながら話を続けました。



「それでね、『いいこと』っていうのは、実はここからなのよ」


「へえ」


すっかり興味をなくしたわきは、前方から目をそらさずに適当に相槌をうちました。そんなことはお構いなしに、アーテルはその『いいこと』について説明を始めます。


「その『おひるねのくに』にはね、おとぎ話とかに出てくる…なんだっけ、そう!『ユニコーン』がいるらしいんだけど、なんでも、どんなことでもたった一つ『願いを叶えてくれる』らしいの。もちろん、タダってわけじゃないらしくて、何かをあげる?交換だっけ?なんだったかしら…ご主人様の話は難しいから………あれ?わき?」



アーテルが横を見ると、並んで歩いていたはずのわきがいません。後ろを振り返るとそこにはまん丸な目でアーテルを見つめるわきがいました。


「ど、どうしたの?」


「なんでも…?願いごとを…?」


「え、ええ」


「本当にそう言ったのか…?!」


「う、うん」



わきは今度は地面の一点を見つめて動かなくなりました。アーテルはわきの様子を心配げに見つめています。

そのとき、わきの頭の中にはさまざまな思いが駆け巡っていました。わきは知っていたのです。アーテルの飼い主であるあの占い師は、適当なことを言って日銭を稼ぐような他の占い師と違って、本当に力のある占い師だということを。だから、今聞いた話が、ただのおとぎ話ではないかもしれないことを。




「面白いね。『七色の末の子』かい…」



わきは、初めて占い師と出会った日のことを思い出していました。雪の降る夜に、街灯の薄明かりの下に捨てられたあの日のことです。



わきはその珍しい毛色が気味悪いと、生まれて数日で捨てられました。

その日は冬の真っ只中で、朝から降っていた雨が日が暮れる頃には雪に変わって、しんしんと静かに降り続いていました。


その日の夜、人通りが少なくなった頃、人目を気にするようにしながら一人の人影がにゃあにゃあと鳴き続ける子猫を入れた木箱を街灯の下に置き、逃げるようにしてその場を去って行きました。


しばらく鳴いていたわきでしたが、やがてそれにも飽きてしまって、木箱の中をくるくるまわりながらあちこちをくんくんと嗅いでいました。すると、街灯の明かりをすっと何かが遮ります。見上げると、誰かがこちらを覗き込んでいました。



「ワインの一本でも入っているのかと覗いてみれば、これはこれは…」


「面白いね。『七色の末の子』かい」



光の加減で顔はよく見えませんでしたが、わきは何を言ってるんだろうと顔のあたりを不思議そうに見つめていました。



「本当に面白い。何がって、あんたらを待つ宿命のことさ」


「あんたはいつか大きな選択を迫られるよ。あんたのすべてを捧げるか、あんたがすべてを捧げるか…」


「いずれわかるさ…。もう少しすれば、ある女の子があんたを拾うよ。幸か不幸か、どちらにとってもね」


「良い旅を『七色の末の子』よ。いつか来たるその日まで、いつか至るその機まで…」



そう言うと、その人物はどこかへ行ってしまいました。それからしばらくしていよいよ身体も凍えてきた頃に、あの人物の言った通り一人の女の子に拾ってもらったのです。それが、飼い主の女の子との出会いでもありました。

そしてそれからもう少しして、女の子が住む部屋の真上に、いつかの予言をした人物、あの占い師が住んでいることを知ったのです。




わきは考えていました。あの占い師の飼い猫であるアーテルがした『おひるねのくに』の話。願い事と大きな選択。

もしかすると……。



「どうやったら…」


「え?なあに?」


「どうやったらそこにいける…その『おひるねのくに』とやらに」


「な、何よ…怖い顔して」


「いいから」


「わかったわよ。えっと、確か…お月様がナントカカントカで……えっとー…」


「早く」


わきはたまらず急かします。


「わかってるってば!えっとねー…『瞬く月が覗く先、かつての寝屋で三度生まれる時』よ。そうそう、そうだったわ。さすがは私よね」


「それだけ?」


もっと具体的な情報を期待していたのでしょう。わきはがっかりした様子です。


「ええ…それだけだけど……」


わきの思いのほか落胆した様子に、アーテルは申し訳なさそうに言いました。


「まあ、普段からはっきりとものを言わない人だから…」


「ああ、そうだな」


「そんなに気を落とさないで」


「ああ…」


わきは今や座り込んで考え事を始めてしまいました。


「あ!」


急にアーテルが声を上げるので、わきはびっくりしました。そして思わず立ち上がります。


「何かわかったのか!」


「いや、そういうわけじゃないんだけど…ご主人様に場所をもっと詳しく教えてもらおうと思って」


「なんだ」


わきはまた座り込みました。


「なんだとは何よ。名案じゃない?」



自慢げに言うアーテルと違って、わきはそうは思えませんでした。占い師という人種が、こちらが質問したことに対してまともに答えるとは思えなかったのです。


「まあいいさ。自分でも探してみるよ。気長にね」


わきは『気長に』を強調しながら言いました。


「あらなによ。せっかくいいことを教えてあげたのに」


「そうだな。悪かったよ」


わきは少しイライラした調子で言いました。そんなちっとも悪びれることのないわきの態度に、アーテルは機嫌を損ねました。


「いいわ。もし詳しい場所がわかっても、すぐには教えてあげないんだから!」


アーテルはそう言って、どこかへ行ってしまいました。


「あ、おい!」


わきは、追いかけて謝るべきか。それとも今はそっとしておくべきか。少し迷いはしましたが、結局は最初の予定通り、公園へ向かうことにしてその場を離れました。

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