I wish this radiance will last forever ②
「おはよぉ~……ってうわ、何これっ!」
寝巻に身を包んだツグミちゃんは寝台から身を起こしてこちらを見るや否や、そんな驚きの声を上げた。
「おはよう。どうしたの?」
「いや、どうしたも何も、この沢山の本だよ! 本棚すっからかんじゃない!」
そこで合点がいった僕は、改めて周囲を見渡した。周りには大量の本が平積みにされて置かれており、僕はそれらに囲まれて椅子に座り、机上に拡げた二冊を読んでいた。
「ああ、ごめん、汚しちゃったね。今すぐ片付けるよ」
「ううん、怒ってるわけじゃなくて。ちょっとびっくりしちゃっただけ」
彼女は足を寝台の下に降ろすと、本の山を避けながらこちらへと歩み寄ってきた。そうして机の上にある二冊を覗き込む。
「図鑑と……国語辞典?」
「そうだね。ちょっと難しい言葉が多いから逐一これを参照しながら読み進めていたところ」
「え、もしかして、もう文字が読めるの?」
「うん、まあ。昨日君が寝た後でここの言語――日本語だっけか、その内、ひらがなとカタカナ、それに簡単な漢字くらいは粗方覚えておいたんだ。もちろん、まだ読めない漢字や意味が分からない言葉は沢山あるけどね」
この言語学習というものは、なかなかどうして面白いものだった。フレンズになった時から一般的な語彙は身に付いていたようだったが、それでも動物――そう言えば僕らは特に”鳥類”と呼ばれているらしい――だった頃に存在しなかった概念はわざわざ長ったらしく説明をする必要があり、それをむず痒く思っていた。ただ、この語彙が綴られた辞典や写真が載った図鑑を組み合わせることで僕はそれぞれを表す適切な言葉を手にすることに成功したのだ。例えば、今座っているものは”椅子”だし、本を載せているものは”机”、といったふうに。これでもうわざわざ、「四つ足の上に載った天板の一辺に背を凭せ掛けるための木枠が付いた器具」だの「四つ足の上に一枚の板が張り付けられた、専ら物を載せるために供されるもの」だの言わなくて良いわけだ。
こうして足りない語彙の補填に加えて脳内に元々あった語彙と文字の紐付けが大方完了した後は、知識の吸収にかかった。まずは最初から気になっていた地理情報の獲得。本棚にあった地図帳を拝借して、僕はかつて自分が暮らしていた地域を探した。索引から「ジャパリパーク」が位置する諸島を見つけ出し、そこから縮尺を小さくしてゆく。間も無く諸島の1000キロ北に大きな列島を見つけ出した。これは日本国というらしく、名前から察するに恐らく今使用している言語の宗主国なのだろう。そして次に、僕の眼は西側へと向いた。群れから離れたあの時、僕は只管に東進を続けた。則ち、その軌跡を辿っていけば故郷に辿り着くはずだった。そして直ぐにぶち当たったのは巨大な陸地。巨視的に見れば島のようだが、地学的には”大陸”と呼称するらしい。その大陸東縁に位置する大国が、中華人民共和国――ここが、僕の故郷に違いなかった。群れから離反したのは南方から北方への渡りの真っ最中。冬に滞在していた島はこの
そうして次は、フレンズの生体の解明に取り掛かった。本棚には生物図鑑が多くあり、その内の一つはフレンズことアニマルガールについても仔細に取り上げていた。
『……年に小笠原諸島にて拡大中であった西之島のアオツラカツオドリコロニーにおいて、環境省の陸域生態系実地踏査班により初めてその存在が確認された……』
『「亜人・異人」的存在であるとする向きもあるが、伝承上の存在と異なり解剖学的には現生人類の女性と全く同一の生体構造を有しており、また動物由来の耳・尾・翼等も人間体と一体不可分なものではないことが判明していることからも、分類学上はあくまでヒト(ホモ・サピエンス・サピエンス)と同一の霊長目真猿類亜目ヒト類上科ヒト科ヒト属に位置づけられている。なお、同種の登場により約五万年前にホモ・ネアンデルターレンシスやデニソワ人が絶滅して以来初めてヒト属に現生人類以外の種が属することとなった』
『成長によって形態が変化することは無く、一種のネオテニーであると考えられている。一方で、そもそも誕生時からヒトの第二次性徴を備える性的に完全に成熟した個体が数多くあることからも、進化生物学的見地から幼体・成体の概念が無い新生物であるとの学説が提唱されている』
『生殖器は存在するが、有性生殖が成功した事例が存在せず、また単為生殖を行うこともないため、外見に反して実質的には無性であるとの見方が……』
『……個体増殖は後述するサンドスターへの曝露によって行われる。このため、アニマルガールとは放射線曝露に伴う遺伝子突然変異類似の現象によって生じた各動物の一形態に過ぎず、単一の生物種とは言えないとする有力見解も存在する。ただし、突然変異にしては形態の統一性があること、遺伝子損傷が確認された個体は僅かであり放射線由来の突然変異が発生したことを有意に示す証拠が無いこと、またサンドスター自体が極めて不定形でありその化学的・物理的性質が解明されていないことからも、この点の解明については将来的な研究の蓄積が待たれる……』
そうして次はサンドスターについての書物を紐解き、次はパークの編年史、さらに各図鑑類。知的探求心に任せて貪るように各書物の頁を繰っていった。宛ら本の虫の如く文字を食んでいたところ――気付けば朝になっていたという訳だ。
「……ってことは徹夜したってこと?!」
僕の一晩分の読書遍歴を聞き終わった彼女はそう叫んだ。
「ついね」
「ついねじゃないでしょっ!」
ツグミちゃんは出し抜けに僕の腕をひっ掴むと椅子から無理矢理立たせ、そのままさっきまで自分が横になっていたベッドに座らせた。
「睡眠は大事なのよ。取り敢えず今から最低でも五時間は寝ること!」
「いや、別に眠くないし……」
「問答無用っ」
そう言って掛け布団を被せてくる彼女。仕方がないので僕はそのまま横になった。シーツと布団には、まだ彼女の体温と――残り香が。それを感じつつ、途端に微睡みが襲ってくる。そして、十分と経たないうちに、僕の視界は闇に包まれた。
***
暫くして瞼を上げた僕。頭まで被っていた毛布を剥ぎ、霞んだ目で天井を見上げた。どれくらい眠っていたのだろうか。首を捩ると、横倒しになった景色の中で、椅子に座ったツグミちゃんが読書をしている様子が見えた。卓上の傍にはマグカップが置かれていて、そこからは仄かに湯気が立ち昇っている。その光景に、僕の眼は釘付けにされてしまった。別に何ということもない、平凡な眺め――けれども、胸が締め付けられるような、喉の奥が詰まるような、名状し難い何かが心の中を満たしていた。壊したくなくて、その瞬間がずっと続いてほしくて、動けないでいた僕だが、彼女がふとこちらを見たことで、時間は動き出してしまった。
「あ、おはよ~。ぐっすりさんだったね」
仕方がないので、僕は寝台から脚を下ろして腰を上げる。覚醒直後の微かな倦怠感を引き摺りつつ歩き出した僕は、そこで部屋がすっかり片付いていることに気が付いた。
「ごめん」
「え、何が?」
「本だよ。片付けてくれたんでしょ」
「あ――こっちこそごめんね、残しておこうかと思ったんだけど足の踏み場もないくらいだったから……」
「いや、全然」
彼女の正面の椅子を引いたところで、手を止めた。机を軽く回り込んで別の椅子へと座り込む。
「何読んでるの?」
彼女の手元に目を向けつつ訊く。本は本でも、僕が読んでいた図鑑類よりも遥かに小ぶりなものだった。
「これ? これは小説」
彼女は読んでいた頁に栞を挟んでから、小説と呼ばれた本を一度閉じてこちらに表紙を見せてきた。僕は声に出してその題名を読み上げる。
「『ねこになった少年』……誰かの伝記みたいなもの?」
「ううん、架空のお話だよ。小説っていうのは、現実にはない物語を書き留めた本のことなの」
僕は彼女に手渡された本を眺めた。最初の数頁をぺらぺらと捲ってみて、驚いた。綴られている文章の調子が図鑑や辞典と全く違う。まるで誰かが語っている内容を文字に起こしたような――こんなことも出来るのか。
「すごいでしょ」
目を丸くしている僕にツグミちゃんが言う。
「わたしも初めて読んだときはびっくりしたなぁ。文字なのに、人物や景色が目の前に浮かんでくるような、そんな感覚がするんだよね」
「確かに……まるで誰かの目を通して別の世界を見ているような」
「そう、その通りなの! 小説の魅力的なところはそこで、誰かの人生を疑似体験できるのよ! 実際に、有名な小説家のヒトが『小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議』って言っててね――」
そこから怒涛のように語りだすツグミちゃん。僕はその予想以上の熱に気圧されて、苦笑いを浮かべた。
「……小説、好きなんだね」
「え? あ、ま、まぁね」
僕の言葉を受けて、彼女は気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「最初は全然読まなかったんだけど、昔の親友に勧められてね。『あなたも少しは活字を読んだ方がいいわよ』って。わたし頭悪くて、活字とか苦手だったから躊躇ってたんだけど、いざ読み始めたらハマっちゃって。異変の後も、暇な時さえあればずっと読書しててさ」
「ふうん。その親友って、昨日も話していたのと同じ子なのかい」
「あれ、もう話してたっけ?」
「うん。僕が昔の友達によく似てた、って。なんて子なの?」
そこで、不意に彼女の表情に陰が差した。饒舌だった先程と違ってすっかり沈黙してしまう彼女。――そこで、昨日彼女が帰り道で話していたことを思い出した。異変という大災害が起こったのち、多くのフレンズが命を落としてしまったのだと。もしかして……そういうことなのか。
「……ごめん、僕、軽はずみなことを」
「あっ、ううん、気にしないで」
顔を上げて慌てて手を振ってみせる彼女。
「むしろ、わたしも話したいんだ、その子のこと。……でも、話したくても、話せなくて」
それを聞いた僕は首を傾げた。どういうことだ? 彼女は少しの間口籠る様子を見せてから、徐に語を継いだ。
「……思い出せないの」
「え?」
「思い出せないの、その子のことが」
「でも、さっき親友って」
ツグミちゃんは再び俯いた。
「そう、親友――多分、一番仲が良かった子。読書が大好きで、凄く頭が良いけどそのせいで色んなことに悩んでいて、クールだけど根はとっても優しくて――その子の言葉や、性格、雰囲気まで覚えているのに、声も顔も名前も思い出せない……。異変でその子がどうなってしまったのかも、分からない。もしかしたらまだパークの何処かで生きているのかもしれないけど、女学園の皆は殆どいなくなっちゃったし、やっぱり……」
彼女の眉間に深い皺が刻まれる。目の端が微かに滲んでいる。僕は動揺した。また自分のせいで、彼女のことを泣かせてしまう――しかも今度は、良くない意味で。どうするべきか、何と声を掛けるべきか悩んでどぎまぎしていた情けない僕の目の前で彼女は思いっきり洟をすすり上げて、零れかけた涙を袖で拭った。
「……なんて、こんなことで泣いてちゃ仕方ないよね」
ツグミちゃんはそう言って、無理矢理笑顔を作ってみせる。彼女が不意に卓上に置いていた両手を矢庭に握ったので、心臓が跳ねた。
「今はとにかく、うたちゃんの役に立ちたいの」
彼女の言葉を受けて、僕はその顔を見つめ返した。
「僕の役に?」
「そう。最初に話したでしょ、不安や辛さを感じているフレンズを大丈夫にするのがわたしの使命だって」
「使命って、どうして」
続けざまに訊ねる僕に、彼女は答える。
「その子とね、初めて出会った時、約束したんだ。今となってはその約束の内容ももう思い出せないんだけど──でも、その約束をきっかけに抱いた夢は覚えてる」
一度閉じてから、再び開かれる両の瞼。その双眸を象る金の輪が閃いた。
「――わたしは、沢山の輝きに満ちたパークを見てみたいんだ」
輝き。僕の知る語彙においては、物理的な発光しか意味していないが――けれど、彼女の話す文脈からは、何か別の意味合いがあるように感ぜられた。
「異変で殆どのフレンズがいなくなっちゃって、パークの輝きは薄れちゃった。でも、わたしはもう一度ヒトとフレンズが幸せに暮らしていた頃の輝きに満ちたジャパリパークが見てみたいの。そんな夢を叶えるためには、ただボーっと突っ立ってちゃいられない。だから、わたしは自分に”フレンズ助け”の使命を課したんだ。より沢山のフレンズが幸せになれば、より沢山の輝きがみんなによって生み出されるようになる……そう願って」
そうしてツグミちゃんは、再び僕の手を握り直す。
「今のうたちゃんはね、心が迷子になっちゃってると思うんだ。もちろんフレンズになる前から抱えていた悩みもあると思うけれど、新しい身体や世界に戸惑って、どうしていいか分からないんだと思う。だから、わたしがあなたを迷路から連れ出して、新しい命を存分に楽しめるようにしてあげたい」
僕は握られた手を見下ろした。
迷子か。思い返せば、僕は群れに居た頃から仲間たちが考えないような様々なことで一々悩んでいた。皆がそうするようにただ生存に関わる物事だけに頓着していればよかったのに、わざわざ生きる意味だとか価値だとか、そういうことばかり考えて、そんな自分と周囲との乖離に苦しんできたのだ。
「……僕は」
卓上を見つめたまま僕は徐に言葉を継ぐ。
「僕は、自分のことが知りたい。どうして生まれてきたのか、どうして生きているのか――そして、どうして死んでゆくのか――それをこの身体でちゃんと知って、自分のことを好きになって、胸を張って生きてみたいんだ」
ツグミちゃんはこちらに柔らかな笑顔を返してみせた。
「できるよ、うたちゃんなら」
「……そうだといいけど。ただ、何から始めていいかわからないんだ。本を一通り読んでみたけれど手掛かりが見つからなくて」
「そりゃそうだよ、自分探しをする上で一番大切なものが抜けてるんだから」
小首を傾げる僕を見て、彼女は続ける。
「自分が何者かを知る上で重要なのは、他人を知ること! 自分が知っている自分自身と、他の子から見た自分。その二つを擦り合わせていくことで、ようやく自分がどういう存在か分かるようになるんだから」
というわけで、と彼女は出し抜けに立ち上がると、胸の前で両手を、ぱん、と打ち鳴らした。
「これからお出掛けしよっか。うたちゃんは本が好きみたいだから、目的地は図書館で。その途中でフレンズと会ったら、自己紹介も兼ねてお話ししてみよう!」
「え、今から?」
外に浮かぶ太陽は、既に西側へと傾きかけていた。
「思い立ったが吉日って言うでしょ! それに、今はお日様が長い時期だから大丈夫大丈夫!」
手を引かれて立ち上がった僕は、ツグミちゃんに背を押されて無理矢理戸口へと歩かされていく。出会った時から僕を振り回す彼女に少し呆れつつも、幕を開けた未知の日々に僕の心は踊るようだった。
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