I wish this radiance will last forever ①

 薄暗くなった林の中を歩いていく僕。その手は彼女――クロツグミちゃんに引かれていた。

「……あの」

「ん、なに?」

 振り返る彼女を見て熱が差す頬。バレないように僕は顔を少し背けた。

「別に手は繋がなくてもいいんじゃないかなって……」

 彼女の手の柔らかさ、暖かさ。それを意識するたびに、鼓動が速くなった。距離が近いせいで、それが彼女に聞こえていそうで不安だった。というか、僕の手、汗やばくないか?

「この辺り、まだセルリアンが多いんだ。次に襲われた時に一緒に直ぐ逃げられた方がいいでしょ?」

「それは……そうかもしれないけど」

 そう言って手を握り直す彼女は、こちらに華のような笑顔を浮かべた。勘弁してくれ――。


 暫くして、僕たちは林の外へ出る。日は既に山の稜線の直ぐ傍まで傾いていて、そこから放たれる眩しい光が雲の棚引く空を鮮やかな朱色に染め上げていた。至った場所は平原で、時折吹く温い風が草本の海を靡かせる様や、その騒めき、そして青臭さに花々のツンとした香気が交じり合った風が運ぶ郁郁とした薫りに、胸がすくような思いがする。平原は遥か遠くまで続いていて、霞んで見える遠山のうち、一際高く聳えている一峰の頂部には虹色の方形が積み重なっていた。

 その奇観を目にしたところで、すっかり頭から飛んでいた疑問の一つを思い出した。ここは一体、何処なのか。死後の世界で無いとするならば、元いた陸地から海を挟んだ先にある実在の場所なのだろう。

「さっき、じゃぱ……なんとかって言ってたよね」

「じゃぱ? ……ああ、ジャパリパークのこと?」

「ああ、それ。それがここの名前なの?」

「うん、ここはジャパリパーク。って言っても色々あって、今いる場所はキョウシュウ地方って言うんだけどね」

 ジャパリパークに、キョウシュウ地方。どれも耳慣れないものだった。そもそも、今話している言葉は、かつて陸にいた頃あの大型二足歩行動物らが話していたそれとは全く異なっている。……そう言えば、知能が著しく発達した彼らは世界各地に散らばっていて、そこかしこで様々な言葉を用いて交流を行っていると、群れの老から教わったことがあったな。とすると、ここは別の言語が支配する彼らの土地ということになるのか?

「もう一つ聞きたいんだけど」

 僕は続けて訊ねた。

「ここには、あの大きな二足歩行動物はいないのかい」

「二足、歩行……?」

「見たことないの? 二足で立ってこう歩いている……ああ、というか、今の僕たちの姿とよく似た動物でさ」

 そこまで言ったところで、彼女は矢庭に立ち止まった。突然のことで僕は止まりきれず彼女のふんわりとした髪に思いっきり顔を埋めてしまった。たちまち香る甘い匂いに、胸が疼く。

「……知ってるの?」

「え?」

 振り向いた彼女の両の瞳は、丸く大きく見開かれていた。


「知ってるのっ?! のことッ」


 刹那僕の両腕ががっしりと掴まれた。途端に思い出す上腕部の裂傷。たまらず僕は顔を顰めた。

「痛っ……!」

「え、あっ、ごっ、ごめんっ! 怪我してたんだったね── 一旦、ちゃんと手当てしよっか」


 彼女は直ぐに僕の腕からその手を離すと、代わりに片手を優しく取り、近くに生えていた灌木の木陰へと誘った。促されるまま根元に腰掛けた僕に、彼女は患部を見せるように言う。片腕を覆っていた黒い羽毛に手を掛けた僕は、少し躊躇った。──これ、剥いで大丈夫なのか……? いや、よく考えてみればさっきの蓝莓集めの時だって羽毛を身体から剥がすことは出来たわけだし、大丈夫か。それに、今の身体は多分、この目に見えている外表イコール表皮というわけでは無いのだろう。

 少し緊張しつつも端の方へ手を掛け、ゆっくりと手前へと捲り上げていく。患部の近くに達した時、傷口に触れたためか鋭い痛みが走り抜けた。

「……っ」

「大丈夫? 痛いなら無理しなくていいよ」

「……大丈夫、あとちょっとだから」

 そう言って一思いに捲り上げようとした僕だが、さっきよりも強い痛みが迫り上げてきたので反射的に身体をびくつかせてしまう。

「ダメダメ、無理矢理やるとまた血出てきちゃうよ」

 彼女は直ぐそばにしゃがみ込むと、片手を僕の上腕部へと伸ばす。その手は淡く発光していた。これは、あの怪物を倒した時と同じ──。その先端は鋭く伸びており、僕の毛皮を患部の直ぐ近くから引き裂いた。間も無く露わになる、ぱっくりと口を開いた生々しい裂傷。傷の程度を確認した彼女は、もう片腕の手首を暫しじっと見つめたのち、それを出し抜けに──

「えっ、ちょ、ちょっ」

 その手首から滴り始める血を見て慌てふためく僕。それを意に介さず、彼女は僕の患部にそれを翳した。

「動かないでね」

 彼女が拳を握り締めると、滲んだ血が傷口に滴り始めた。どういうわけかその血液も、手先と同様に淡く発光しており、滴るごとに虹色の煌めきが洩れ出しては宙に霧消していく。

「これくらいの傷なら普通はフレンズの治癒力でなんとかなるんだけど、あなたは生まれたばっかりだからね、わたしのサンドスターを代わりに分けてあげる」

「サンドスター……?」

「わたしたちを生み出した不思議な物質のこと。フレンズのお母さんみたいなものだよ」

 輸血染みた行為を終わらせた彼女は、自身が下げてショルダーバッグから長く白い布のようなものを取り出し、それを僕の患部へと巻き付けていった。上腕部が強く圧迫される。自らの光る鉤爪で布を切り裂くと、片面が粘着質の小さな紙切れでその端を留めた。

「これでよし! ちょっときついかもしれないけど、血が完全に止まるまで我慢してね。サンドスターを多めに入れたから拒絶反応は起こらないと思う。あと、破れた袖は明日になれば戻ってるから」

「……ありがとう」

 礼を述べる僕を、彼女はじっと見つめた。こちらに差し向けられる、漆黒の双眸。黄金の輪に囲まれたそれらは不思議な引力で以って僕の眼を釘付けにさせた。

「な、なに」

「さっきの話の続きなんだけど」彼女はその眼差しを逸らさずに続ける。「あなた、ヒトのこと知っているの?」

「ヒト?」

「言ってたでしょ、フレンズに似た、二足歩行の動物って」

 あぁなんだ、そのことか。ヒト――ここの言語圏では彼らのことをそう呼んでいるらしい。ただ、僕は頭を捻った。なぜ彼女はそんなに彼らに固執するんだ?

「知ってると思うよ、君が言うヒトと全く同種の動物かは分からないけど……」

「本当に? でも、あなた、生まれたばかりのフレンズなんでしょ。ならどうして……」

「どうしても何も、近くで暮らしていたからね。彼らから餌付けされたことさえあった」

「……じゃあ」彼女は目を大きく見開いた。「パークの外からやってきたってこと?」

 少し考えてから、僕は軽く頷いた。知らない青紫の化物に、聴き慣れない言葉。それに、この謎めいた身体。これらはみな、自分が外部からやってきた存在であることの証左だった。

 クロツグミちゃんは不意に立ち上がると、出会った時と同じように僕の方へと手を差し伸べる。それを握って僕が立ち上がってから、彼女は少し神妙な顔つきでこう告げた。


「わたしの家に案内するよ。──あなたに聞きたいことがいっぱいあるから」



***



 道中、クロツグミちゃんはここについての様々なことを教えてくれた。

 ここは離島──と言ってもかなり大きいそうだが──で、『ジャパリパーク』とはそこにヒトが作り上げた施設の名前であるらしかった。そしてキョウシュウ地方とはそのジャパリパークを構成する島の一つであり、僕らはその中を歩いている。

「そのジャパリパークとやらを作ったのはヒトなんだろ。彼らはもうここにはいないのかい」

 僕の問い掛けに表情を曇らせる彼女。軽く俯きがちになって言葉を返した。

「……ずっと前にね、大きな災害があったの。あそこに見える火山が噴火を起こして、撒き散らされたセルリウムっていう有害な物質や、それによって生まれた大量のセルリアンによって沢山のフレンズの命が奪われた」

 彼女は不意に横へ指を向けた。釣られて首を回すと、木立の間から、遥か遠くの方に日没後の残光で染まった空を映して鈍く煌めく海と、その先にある水平線を見下ろすことが出来た。再び林の中に入り込んでいたため分からなかったが、いつの間にか結構な高さまで登ってきたらしい。

「そうして、この島の周りを覆っていたサンドスターの膜が濃くなり始めたの。そのせいで島の外と連絡が取れなくなってしまうばかりか、セルリアンの数も増える一方で、パークの再開は絶望的だと判断したヒトは、この島を去っていった」

 でも、と彼女は少し表情を明るくして続ける。

「あなたの話を聞いて安心したよ。……まだヒトは島の外で生きているんだね」

 その言葉に、僕は微かに眉根を寄せた。

「安心って……。ヒトは君たちを危険が残るここに置き去りにしたんだろ。恨み言の一つでもあるもんじゃないのかい」

 彼女はすぐさまかぶりを振った。

「ううん、そんなことしないよ。ヒトの撤退は仕方がないことだったし、それにみんなはわたしたちが異変の後も暮らしていけるよう、沢山のものを残していってくれたから」

 それに、と言葉を継ぐ彼女。


「異変の前までわたしたちはヒトに頼り過ぎていたからね。これからは自分たちの力でちゃんと生きていかないといけないってことなんだと思う。――そして、いつかまたヒトと巡り合った時に、ちゃんと胸を張れるようにしておかなくちゃならないんだ」


 そこで彼女は足を止めた。こちらを振り向いて、さっきまでとは打って変わって晴れやかな笑顔で言う。

「着いたよ! ここがわたしの自慢のお家ですっ!」

 すっかり暗くなった林の中を僕はきょろきょろと見回した。住処らしきものは全く見当たらず首を傾げていたところ、彼女は、これこれ、とを指差す。見上げてみると、そこにあったのは大樹に寄り添うようにして設けられた巨大な木箱。それは街に並んでいたヒトのをそのまま樹上に持ち上げたような外観をしていた。巣から地上までは昇降に用いるであろう、細木の幹を組み合わせて作られた長い段付きの器具が立てかけられていて、クロツグミちゃんはそれを軽やかに昇っていくと、巣の中へと姿を消した。間も無くして暖色の柔らかな光が戸口から洩れ出し、そこから顔を覗かせた彼女がこちらに手招きをする。僕は手に入れたばかりの新たな四肢を慎重に動かして、それをゆっくりと昇っていった。

 

 中は存外に広かった。

 足元には木を切り出して作った板が敷かれていて、上には丸太屋根が掛かっている。巣の中央には何らかの繊維を編み込んで拵えた敷物があって、その上には四つ足の大きな台が。ぐるりを見渡してみれば、壁を覆うように背高の物置が設えられていて、各段にはヒトがあらゆる場所で熱心に目を走らせていた二つ折りの分厚い紙の束が並べられてあった。クロツグミちゃんはその内から一つを抜き取ると、四つ足の台の上にそれを拡げた。綴られた紙を一枚ずつ捲っていくところを覗き込む僕。紙には様々な図柄を中心に、虫が這った跡のような細かい何かが大量に載っていた。

「それ、何なの」

「これはね、”図鑑”。写真と文字を使って色々な知識が綴られているものなのよ。先ずはあなたが何のフレンズなのか知っておかないとね」

 彼女は次々と紙を捲っていく。載っている図の中には見覚えのある動物も数多くあった。彼らはみな翼を有していて、恐らく僕らの近縁種が纏められているのだろう。暫くして紙を繰る手を止めた彼女は、振り返って僕の爪先から頭までを眺めまわした。

「……出会った時から思ってたんだけど」彼女は口元に手を当てて呟く。「わたしたちって何だか似てるよねぇ」

 図鑑とやらを取り上げた彼女は、その見開きを僕に見せてきた。そこに載っていたのは、白い腹を除いて全身が黒色の羽毛で包まれた翼を有する動物。腹の色こそ異なっているが、それ以外は――嘴や目の周りを覆う輪の色と言い、身体の大きさと言い――かつての自分の姿と酷似していた。

「これがわたしの元の姿。くりくりのお目目とお腹の黒い点々がとってもかわいいでしょ!」

「え……あ、うん、そうだね」

「ちょっと、絶対に思ってないでしょぉ!」

 これ見よがしに頬を膨らませてみせるクロツグミちゃん。だが切り替えが早いのか、まあいいや、と直ぐにもう一度視線を図鑑の方に戻すと、次の紙を開いて見せてきた。

「だからね、わたしによく似たこの子が、あなたなんじゃないかって思って」

 そこで視界に飛び込んできた黒色の動物に、僕は刹那硬直した。先程のクロツグミの姿から、腹部の白を差し引いただけの存在。それは、記憶にある群れの仲間達の姿と、寸毫も違うことは無かった。

「……ごめん、もしかして違ったかな?」

 不安そうにはにかみ笑いで訊ねる彼女。

「――いや」僕は首を振って、言った。「これは、間違いなく僕だ」

 そうして徐に言葉を継いだ。

「名前を教えてくれないか」

 僕の言葉を受けた彼女は一度図鑑を閉じると、それを膝の上に置き、やがてゆっくりと口を開いた。


「あなたは、クロウタドリちゃん」


「クロウタドリ……」

 新たな名を前に立ち尽くしている僕の目の前で矢庭に立ち上がった彼女は、再び僕の身体を優しく包み込んできた。

「ちょっ……」

「わたしね」

 クロウタドリちゃんは耳元で囁くように言う。それがこそばゆくて身体を捩りたい思いがしたが、そうすれば彼女の柔らかい身体を更に感じてしまいそうで、僕は身動きが封じられてしまった。

「最初にあなたを見た時から、他人って気がしなかったの。やっぱりそうだった。――同じツグミ科の子に会ったのって初めて」

 そこで上げられた顔を見て、僕はぎょっとした。彼女の目の端には水滴が浮かんでいたからだ。それは衝撃で零れ落ち、染め上げられた頬に薄い条を作る。

「大丈夫? ごみでも入った?」

「……ううん、なんだか嬉しくて――」

 両頬の涙を拭い取った彼女は、僕の両手を取る。

「改めて、これからよろしくね、

「うたちゃん?」

「うん。クロウタドリちゃん、じゃちょっぴり長いでしょ? だからうたちゃん。駄目かな?」

「……いや」


 そこで、口元が綻んでしまいそうになってぐっと堪えた。

 クロウタドリという見ず知らずの誰かが付けた種族全体の名前より、目の前の彼女が付けてくれたその名前こそが、僕にとっては堪らなく嬉しいものだったから。


「こちらこそよろしく、

「えーっ、それじゃあツグミのフレンズと一緒になっちゃうじゃない!」

「別にいいじゃんか、ツグミのフレンズに出会ったら別な呼び方を考えればいいんだからさ」

「むぐぐ……まあいっか……いやでもなぁ……」


 不満そうに口を尖らせる彼女がなんだか面白くて――そして、どうしようもなく愛おしくて――僕はついに破顔してしまった。

 新しい身体に、新しい世界。何もかもが知らないことばかりだけれど、それでもかつての世界では感じることの出来なかった得も言われぬ多幸感を僕は感じていた。彼女と一緒なら、きっとこの先もずっと幸せに生きてゆける。そうすれば、いつか自分が生きている意味だって――。


 この時は、そう信じていた。

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