Ch.5 : Bleeding your life dry, Before breathing your last.
At the very first glance, I...
身体に兆した違和感で目が覚める。霞んだ視界には、風に揺れる木立と、その奥に広がる澄んだ青空が映っている。木々のさざめきに応じて、柔らかな木洩れ日が僕の顔を撫でていた。羽毛を揺らす、温くて心地良い微風。気持ちが良くて、再び寝入ってしまいそうになるところで、頭を振った。――どれだけの間、気絶していたんだ? こんな分かりやすいところで昏倒していたのによくカラス共に喰われなかったな――そう考えつつ身を捩り羽搏こうとしたところで、気付く。
翼が無い。
動かそうとした両翼は、別な羽毛に包まれて、先が五股に分かれた薄橙の腕に変わっていた。
それだけじゃない。眼前に突出していた筈の嘴も無い。頭を下げると、ふわふわとした羽毛は何処にも見当たらず、代わりに大きな胴体と、そこから伸びるやたらと長い鳥趾だけがそこにあった。この外見、見覚えがある――。
棒切れに変わった翼を支えに、身を起こす。ぐるりを見渡してみて、下草が生い茂った疎林の中に佇む自分を見出した。ここは……何処だ? 何故こんな場所に至ったのかと記憶を辿ってみるが、眼下に広がっていた大洋が最後に覚えている光景で、そこから記憶は完全に飛んでいた。渡りの最中に群れを抜け出した昨夜――僕はとにかく遠くに行きたかったのだ。だから決まりきった航路を抜け出し、試しに東進を続けてみた。洋上に発達した雲が痛いほどの雨を降らせた。撥水出来る羽弁を以ってすら、飛行に支障を来すほどの大雨。それをなんとか切り抜けようと、必死に羽搏き、それで――。
まさか、死んだのか。それでここに? いや、死後の世界にしては、現世と比べて些か変わり映えしなさすぎる。意外とそんなものなのだろうか。……いや、自分の姿が変わってしまっているのだから十分現実離れしていると言えるか。
僕は背後にあった大木の幹を支えにして立ち上がった。脚を動かすのは前世――別にまだ死んだと決まっちゃいないが――の要領で何とかなった。ただ堪らなく違和感を覚えるのはこの両翼、否、両腕。可動域も構造も大して変わってはいないのだが、羽根が付いていない上に、身体に比して小さすぎる。ただ、飛翔能力の代わりに器用に動かせる五指が付いてきた。木の実を啄むのに便利そうだな。巣の補修にも役立ちそうか。……駄目だ、いい加減こちらの
それから身体のあちこちを検めて、ようやく新たな自分の全容を掴むことが出来た。最初に思っていた通り、この身体は陸で見覚えのあるあの大型二足歩行動物のそれであった。ただ少し異なるのが、元の身体の名残があること。依然として尾羽は臀部の上から生えていたし、なんなら両の翼は頭側面へと移っていた。だが動かし方はさっぱり分からない。仕方がないので、僕は授かった長い両脚を駆使して林の中を闊歩し始めた。
少し歩いては、樹へと寄り掛かって休むことの繰り返し。二足で歩くことはお手の物だったが、今と前の身体とでは重心が違い過ぎた。おまけに、異様に高い視座──確かに地に足を付いて立っているのに、視界は飛んでいる時のそれである。したがって、定常的な気持ち悪さを抱えつつ、僕は前へと歩き続けていた。
そうして暫くの間おぼつかない足取りで歩行訓練を繰り返していた僕だったが、ある時ようやくコツを掴んだ。恐らくきっかけは、身体の構造の違いをしっかりと認識したことだろう。かつての身体では骨盤の上に並行するようにして脊椎があり、かつそこから立ち上がるようにして頸椎、頭部が続いていたが、この身体では脚部、骨盤、脊椎、頸椎、頭部が全て垂直一直線に並んでいるのだ。そして、脚部の関節の動きが真逆。これらを意識して歩いてみると、呆気ないほど上手くいった。
一、二、一、二。右、左、右、左。
段々と愉快になってきた僕は、件の大型二足歩行動物がやっていた様々な動きを試してみる。先ずは疾走。記憶を頼りに身を屈め、片膝を付いて両腕を地面につける。呼吸を整えてから、腰を浮かして、地を蹴り上げた。バランスを崩さないように気をつけつつ、踏み出す足と反対側の腕を振る。──なるほど、奇妙な走り方だと思っていたが、これだと素早い動きの中でも平衡が取れる。
数度林の中を往復してから、息を切らしつつ立ち止まった。一息ついてから、次は跳躍。かつては歩行に連続的な跳躍を混ぜて軽やかに動き回っていたが、この身体は重量が違いすぎるせいか、機敏に繰り返すことは出来なかった。……うん、これは無しだな。
日が大分傾くくらいまで運動を続けていた僕は、終いには疲労で
休息を取り終えた僕は、立ち上がって再び林の中を歩き始めた。身体の動かし方は大方把握したが、問題は頭の両側に移動したこれ──翼の動かし方だ。歩きながらかつての翼であった両腕でそれらを掴んで引っ張ってみる。構造は変わっていないみたいだ。ただ、頭の横に付いた何かを動かす、という経験は当然ながら無いため、今は飾り以外の役割を持たなかった。……まぁ、歩き方を覚えた時のように、いずれ分かる時が来るだろう。それより──僕は腹を抑える──さっきから飢餓感に近い空腹を感じていた。つい新たな身体を動かす楽しさに夢中になってしまったが、使った体力を補給できる餌探しについて全く考えていなかったな。今は採餌を優先しよう。
改めて周囲の様子を確認した僕は、元暮らしていた場所と植生が大して変わっていないことに気付いた。尤も以前は大型二足歩行動物が作り上げた都市空間で採餌をすることが大半だったが、彼らのおこぼれを貰わずとも餌にありつく為の知識くらいは備えている。植生が同じであれば、多分同じ食べ物も手に入ることだろう。僕は目を光らせつつ、林の奥へと歩みを進めていく。食い出のある虫がいれば文句は無いが、この大きな身体で腰を屈めて探すのは骨が折れる。覚えのある木の実あたりが実ってくれていればいいのだが……。
間も無くして、霞んだ青紫の果実を実らせる低木の群生地を見つけた。これは確か──
蓝莓の低木が群れるその先。数本の太い幹にその触手様の腕を張り巡らせ、こちらを見下ろしている、異形の存在。腕部の基である本体の中央には血走った巨大な単眼があり、それが僕の両眼を釘付けにしていた。
――何だ、あれは?
生物……なのか? 少なくとも今まで一度も目にしたことのない存在だった。形態は植物に透明な巣を張っているあの虫に似ている。だが、大きさは規格外だ。本体だけで今の僕の体長を優に超えている。
僕は後退りしつつ様子を伺う。威嚇をしてくる様子は無い。敵意は無いのか? とは言え、観察しているだけ、ということはないだろう。まさか、この群生地はこいつの縄張りだったとか? ……クソ、あのギョロ目だけからじゃ向こうの意図を汲み取ることなんかできるわけがない。
羽毛に貯めていた実を一掴みし、それ以外は地に転がした。勿体無いが、四の五の言っている状況じゃない。奴を睨め付けながら、背後へとゆっくり歩き始める。向こうが動く様子は無かった。段々と遠ざかっていく巨眼。そうして、やがてそれは、低木の中へと姿を消していった。
占めた。奴の視界からも僕は消えたはず。その機を逃さず、背後を振り返り、全速力で走り始める。直前に体の動かし方を把握していて正解だったな。出来るだけ身を屈め、低木を障壁として使いながら湾曲した道を疾走する。ぬかるんだ場所や木の根が張り出した場所は跳躍で躱す。我ながら巧いぞ。間も無くして視界が開けた。再び眼前に広がる疎林。念の為最も近場にある樹に走り寄る。ここに身を隠し、一旦様子を伺おう。
ダンッ――身を突如襲う衝撃。
バランスを崩した僕は、濡れた下草の上を転がっていく。何とか受け身を取ることは出来たが、向かっていた樹に背中を強かに打ちつけてしまう。
「ぐぅっ……!」
痛みに顔を歪めた。状況を確認しようと、何とか目を開ける。自分を突き飛ばしたものの正体を探ろうと瞳を動かして、戦慄した。
木々に跨るようにして伸ばされた青紫の腕。それらを辿った先にあるのは、こちらを睥睨する悍ましい単眼。気付いた時には既に直上にあって、樹の麓で蹲る僕へと影を落としていた。そうして、気付く。そのうち一つの腕部が未だに中空で揺らめいていて、その先端の鰐口様の開裂部から血が滴っていることに。
刹那襲う激痛。そこで初めて左の上腕部が抉られていることを知った。蒼く茂る下草に洩れ出しているのは、鮮やかな赤。……血――血だ……!! 患部を片手で抑えるが傷が深くそれは止まることを知らない。鼻を衝く鉄の臭気。
――高を括っていた。
ここは死後の楽園で、もう死に怯えることはないんだと。新たに得たこの身体で、自分が夢見ていたように自由に生きることが出来るんじゃないかと。
そんなことは無かった。ここは変わらず食物連鎖が支配する現世で、変わらず死が直ぐ傍に控えている。あくせくただ生きるために食物を探し回り、それ以外の娯楽や快楽は全て脇に置かれてしまう苦痛、息苦しさ。それが嫌で群れを抜け出したのに――結局は、何にも変わらなかったのだ。
漂っていた腕部が風を切って飛んでくる。頭部が貫かれる寸前でそれを躱した僕は、痛みを堪えながら走り出す。背後から木立を揺らしながら迫る
僕は空を仰いだ。目覚めた時と同じ長閑な光景が目に映る。
これで終わりか。呆気なかったな。生きるのに必要なことしかしない仲間達を見下して特別だと思っていた自分も、結局のところは大自然の歯車に過ぎなかったという訳だ。ここでこいつに喰われて、糞にでもなって、最後は餌にしてきた虫共に分解される。……そんな循環に、何の意味がある? 死ぬまでに見出せると思っていたけれど、終ぞそうはならなかった。僕は目を瞑って、最期の時を待つ。せめて、一瞬のうちにやってくれよな――。
「……ちょぉーーっと待ったぁッ!!」
矢庭に差し挟まれる甲高い声。僕が目を開けた瞬間、自分の身体を取り込もうとしていた例の青紫の塊は横からすっ飛んできた黒い何かに横っ面を殴られ、派手に吹き飛ばされる。妙な声を上げて飛んで行ったそれは、少し離れた所に立っていた大樹の幹にその身を激しく打ち付けた。結構なダメージを喰らったらしく、奴は木立から引き剥がされた腕部をうねうねと動かしつつもなかなか動き出せないでいた。
「あなた、大丈夫?!」
目の前に立つ黒白の羽毛を纏った存在は振り返りざまにそう声を掛けてくる。差し向けられる発光した両眼に対して、目をしばたたかせるばかりの僕。いや、見ればわかるが全く大丈夫ではない……。――というか、何故言葉が分かる? 目の前の光景と聴こえた音の情報量が多すぎてただ続け様に目をぱちくりさせている僕に痺れを切らしたのか、無理矢理手を握って身を起させる彼女。あっという間に背中に僕を背負い込むと、奴が倒れ込んだ樹とは反対方向に走り始める。凄まじい速さだ、翼を羽搏かせて飛んでいるのとそう変わらない速度。これなら奴を振り切ることだって――。
が、そうはさせないと言わんばかりに、木立と地を震わせながら追跡を再開した怪物が迫ってくる。素早く動く獲物をしっかりと捕捉する為か、巨大な眼の周囲に幾つかの眼球が追加され、立体視が可能な複眼となっていた。うぐ、気持ち悪……。
「…………む……」
「……むっ?」
僕が出した声に彼女が反応する。頭に浮かんだ言葉……これをそのまま鳴けばいいのか? かつての身体と発声の仕方が違い過ぎて何が何だか分からないが……ええい、ままよ。
「……む、無理だ」
「え、何がっ?」
痛む傷口に顔を歪めながら、僕は続ける。
「逃げ切れるわけがない、勝てないよ」朦朧とする意識の中続ける。「僕のことはいいから。君は逃げるんだ」
その言葉を聞くや否や、彼女は少しムッとしたように返す。
「そんな少年漫画の絶体絶命のヒーローみたいなこと言って……出来るわけないじゃないっ! いいからこのまま連れてくからね!」
ショウネンマンガ? 意味が分からず眉を寄せる僕に、それにね、と彼女は自信たっぷりに言葉を継いだ。
「ちゃんと作戦があるのよ! 見ててね――」
そこで、彼女は突然立ち止まった。は、何して――。反射的に後ろを振り返る僕。相変わらず背後からは奴が疾風迅雷の速度で追ってきている。不味い、このままじゃ二人とも捕食されて終わりだ。そう思いあたふたしている僕と対照的に彼女は至って冷静に、徐に振り返ると、その場に仁王立ちになり奴を待ち構えた。
「こういうタイプのセルリアンにはね、これが覿面なんだ!」
彼女の言葉から間を置かず、最も近場の木の幹を把持した青紫の塊。再び目前に迫った脅威に、僕は思わず目を閉じる。
が、襲うはずの衝撃はいつまで経っても来ず、代わりに、ばきばき、というけたたましい物音と、青臭い臭気を孕んだ一陣の強風が僕らを襲った。何事だ――そう思って瞼を開いた僕の眼前に映ったのは、折れて崩落した枝葉の重なりと、それに合わせて落下したであろう巨大な捕獲網。これに巻き込まれたセルリアンと呼称された怪物は、地に叩きつけられて動きを封じられていた。
彼女は僕を優しく地面に降ろすと、颯爽と駆け出し、次の瞬間には凄まじい跳躍により宙空を舞っていた。
「おっ、石みっけ!」
その瞬間、発光する両脚。彼女はそれらで奴の本体上部を痛烈に踏みつけると、そいつは悍ましい声を上げた。続けて真上から加えられる連撃。彼女の間髪容れない容赦無い攻撃に悶絶の奇声を上げつつも暫し抵抗していたセルリアンだったが、トドメとばかりに渾身の力を込めて放たれた一発を喰らった直後、僅かな間を置いて、砂塵と草木を撒き散らして爆散した。
***
目の前で繰り広げられた光景に呆気に取られる僕。爆散したセルリアンは虹の煌めきと化し、やがて初めから何も無かったかのように消滅してしまった。そんな僕の目の前に着地する彼女。その身体には傷一つなく、ただ凛と佇む姿だけがそこにあった。
彼女はこちらを振り向くと、満面の笑顔を浮かべて地べたに情けなくへたり込んでいる僕に手を差し伸べた。
「大丈夫? ほら!」
それを呆けた顔で見上げる自分。その手を、取ることはできなかった。
「……どうしたの?」
不思議そうにこちらを覗き込む端正な顔。僕は思わず目を逸らしてしまう。気不味かったのもそうだが、それ以上に……。
「……どうして」躊躇いつつも言葉を継ぐ。「どうして、助けてくれたの」
僕は一度、生きることを諦めた。
群れから飛び出し、辿り着いた場所でも、まともに生きることすら出来なかった。いつも生きることに必死な周りを冷笑して、見下してきた。そのくせ、いざ自分が命の危機に瀕すると、怯え、狼狽し、死の恐怖に打ちのめされた。
そんな情けない存在を、彼女は命を賭して救ってくれたのだ。もしかしたら、彼女も僕と一緒に死んでいたかもしれない。そんなリスクを冒してまで、誰かを救おうとする気持ち──それが、僕には分からなかった。
不意を突かれたように、え、と目を丸くする彼女。それから顎に手を当てて暫し考えた後、何かを思い付いたのか思い出したのか、ぽん、と手を打つ。
「あなた、何だか、昔の友達によく似てて」
「……友達?」
何だそりゃ。友達に似ていたから命を賭けようと思えるのか? 眉根を寄せる僕に、彼女は慌てたように言葉を足して取り繕う。
「あ、えっと、それだけじゃなくてね。……あなた、すっごく辛そうだったから」
その言葉に首を傾げる僕。
「……そういう子、わたし、放っておけないんだ。そんな辛くて悲しい気持ちのまま死んじゃうのは、違うと思うの」
彼女の表情が微かに曇る。だからね、と続けた。
「そんな子を助けて、”大丈夫”にするのがわたしの使命なの。お節介かもしれないけどね」
彼女は泳がせていた僕の手を無理矢理に握ってみせた。その驚くほどの膂力に引かれて立ち上がってしまう。
「わたし、クロツグミ! よろしくねっ! あなたの名前は?」
僕は返答に窮する。自分の名前。無いわけでは無かったが、この身体ではもう発音が出来なかった。
「あの……」
「ん?」
「その……名前、まだ分からなくて……」
彼女はハッとして口を開けると、そっかそっか、と僕の頭を撫でた。
「生まれたばっかりのフレンズだったんだね。だから飛んで逃げなかったんだ」
「フレンズ?」
「そ、フレンズ。わたしたちはみんな、フレンズ!」
そして、矢庭に僕の身体を抱き締める彼女。その柔らかくて暖かな身体を全身に感じて、僕の頬はたちまち熱くなった。彼女は改めて僕の顔を見つめて、心底嬉しそうに言った。
「ようこそ、ジャパリパークへ!」
微笑みかける彼女に、僕もぎこちないながら、ボロボロの身体で笑みを返す。
その時──いや、きっと初めてその姿を目にした時から──僕は彼女、クロツグミちゃんに、恋をした。
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