THE CHASER ③

 巨大な柱に巻き付くようにして設置された螺旋階段を昇り、最上部のドアからその内部へと踏み入れる。凍えるような内部空間には地上へと繋がる鉄骨製の別の螺旋階段があり、それらを踏み鳴らす音を巨大な井戸の様な円筒状の内部空間に反響させながら私たちは無言で昇って行った。当然会話は無く、かと言ってお互いが衝突するような危うい場面も無かった。ただ、ミソサザイを先行させ、最後尾に私が続き、そしてその間をクロウタドリが遮るという順番からは、両者の間に漂う、明らかに只ならぬ物々しい雰囲気を感じさせた。

 昇り切った先にある点検用の作業通路や更に数十段の階段を通り抜け、地上へ。躍り出たのは、試験解放区のほぼ中央に整備された広大なタイル敷きの広場プラザの一角だった。美観地区に指定されている試験解放区内には、雑然とした街並みは少なく、このような異国情緒めいた統一感のある街区が拡がっている。

「……で、ケジメを付けるってどういうことなのさ」

 見ると、ミソサザイとクロウタドリは十メートルほど間隔を空けて対峙していた。漂う緊張感。一触即発の雰囲気の中、ビルの間を吹き過ぎる寒風だけが音を立てていた。建造物の背後に広がる冬の晴れ空と高く棚引く巻雲が嫌に眩しく感じる。

「言葉通りだ。俺とお前らの一連の追跡劇に、蹴りを付ける」

「うーん、それってさ、君が僕たちを付け狙うのを止めればいいだけなんじゃないの?」

 クロウタドリは言いつつ、手慰みに自分の前髪を弄る。……こんな雰囲気の中、よくもまあ悠長に。

「残念だがそれは出来ない」焦茶の少女はそう返す。「俺は自分の目的を果たさせてもらう」

「ふうん。そう」

 そう言った彼女は、ミソサザイから目を離さずに徐に後退りし、やがて私と横並びになった。そして、どういう訳か私の腰に片腕を回した。


「それじゃ、こっちにも考えがある」


 刹那、感じる凄まじい風圧。気付いた時には、自分の身体は

「ちょっ……!」

「舌、噛まないようにね」

 言うが早いか彼女は私を腹の下に抱え込み、疾風迅雷の速さで水平飛行を始めた。直ぐ近くの角を曲がるや否や、相手の目を避ける為か低空飛行へと移行する。そのまま碁盤の目状や放射状に整備された、パリやバルセロナなど西洋の街路や建築様式をモチーフにした中層の石造り建築風建物の連なりを飛び過ぎ去っていくが、目下一メートルも無いところを地面が流れていくので、そんな景色に目を向ける余裕など無かった。

「あおちゃん」

 上から聞こえた声に、正面からの風圧に何とか耐えながら、私は応答する。

「今から君を中心市街地の何処かに降ろす」

「えっ……でも、そんなことしたら」

「大丈夫。今あの子は血眼になって僕らを探しているはずだ。しかも僕と戦うことを腹に決めてね。だから君を攫うことよりも僕との交戦を選ぶはず」

 間も無くして、彼女は減速し商業ビルの間に敷かれた隘路へと入り込んだ。そこで私を降ろすと、光の差す表通りへと歩いてゆく。

「30分後くらいに駅前で待ち合わせしよう。デッキの上にはラッキービーストがいる。それが地図代わりに使えるはずだ」

 彼女はこちらに円形ディスプレイを放り投げた。いつの間にか両端にベルトも括り付けてあって、腕に巻けるようになっていた。

 クロウタドリは別れ際に軽く後ろ手を振ると、表通りの方へと消えていく。それを見送ってから、周囲を警戒しつつ、私はディスプレイを頼りに駅前の方へと歩き出すのだった。



***



「や。お待たせしたね」


 試験解放区の商業エリア、その中でも最も繁華であった通り沿いに立ち並ぶガラスファサードのビルの屋上で下を見遣っていた俺の背後から、そんな声が飛んでくる。

「――優等生は隠したか。まあ賢しい判断だ」

 当然と言えば当然か。プラズムも持たないアニマルガールの力など、人間の少女のそれに等しい。足手纏いにしかならない。

 俺は身を翻すと、羽織っていたウィンドブレーカーを脱ぎ捨ててそこらへ打ちやる。両の拳を握り締めると、互い違いに体の正面で組み、奴を見据えたまま臨戦態勢を取った。

「おいおい、いきなり血の気が多いなぁ。先ずは交渉から入るのが筋だろ」

「交渉ね。そんなもの、本当に必要か?」

 怒りで理性を失っているわけではない。寧ろその逆――至って冷静に俺はことを睥睨していた。形はどうあれ、そして遅かれ早かれ――結局のところはコイツと向き合わなければならなかった。それならば、単純に障壁は早いうちに取り除いておくのが良い。

「あんたたちはパーク・セントラルに向かいたい。俺は優等生がそこへ行きつく前に身柄を拘束し、セキュリティの温いこちら側から中央管理センターの地下へと向かいたい。目的が相反している。折り合える部分は一つも無いと思うがね」

「勝手に結論付けるなよ。どうして穏健な道を模索しないんだい? 仲良くしようとは言わないけどさ、戦わなくたってお互いの目的を達することが出来るかもしれないだろ」

 クロウタドリは指を立てる。

「一つ、当てがあるんだ。なんでももう一人の”博士”がパーク・セントラルの研究所にいるらしくってね。交渉次第では君が行きたがっている地下貯蔵庫への道も開けるかもしれない」

 俺は眉根を寄せた。そして訊く。

「……交渉したとして、その博士が応じてくれる確度はどのくらいある」

「そうだなぁ……今のところ五分五分ってところかしら。単純にその子が持ってる権限だけを考えれば地下貯蔵庫へアクセスできる可能性は八割以上あるけれど、いかんせんけもの見知りらしくてね。そもそも会ってくれるか、話をしてくれるかってところで成功確率は少し落ちてしまう」

 その言葉を聞いて、俺は鼻で笑った。両の拳を握り直す。

「なら無しだ。確度が低過ぎる。話にならん」

「うーん、そっか……あ、じゃああおちゃんに僕も同伴するのはどうよ? 別に生体認証を通過するだけなら僕が傍にいたっていいだろう?」

「それも無しだ。あんたはきな臭過ぎる」


 コイツはとにかく得体が知れない。俺が優等生を追跡すると決めたあの夜、割り込むようにして奴の懐に潜り込み、”死に場所探し”とかいうふざけた旅を始めやがった。どういう訳か、その容姿も、瞳も、によく似ているのが何よりも不気味だった。


「……じゃあ、本当にここで戦うつもりなんだね」

「ああ。万難は排さなければならないからな」

 至極残念そうに溜息を吐いて首を振って見せる奴に、俺は戦闘態勢を整える。そして軽く身を強張らせた。

 クソ。何だってこんなに身体が震える。恐いのか――奴が。

 コイツは明らかなイレギュラーだ。連絡橋での戦いも、アンインでの戦いも、その立ち回りと膂力は傍目で見ても保安調査隊員やセルリアンハンターのそれを軽く上回っていた。ヒトもアニマルガールも、いつだって未知に慄かされる。俺は今、未知の生命体とされたセルリアン以上の怪奇と、対面しているような気がしてならなかった。

「――ま、君が良いならいっか! 実は僕もさ、こういう機会、ちょっぴり待ち侘びていたんだよね」

 そこで上げられた顔は、何故か喜色満面であった。その様変わりにぞくりとする。

から聞いたことあったんだよ。異変前はフレンズ達がこうして、遊びの一環として格闘ごっこをやっていたんだってね」

 奴は同じ様に拳を作り上げ、前方へと構える。しかし、見る限り、それは格闘初心者のそれでは無かった。脚は過度に開き過ぎることはなく、肩幅程度に抑えており、その上で重心が軽く落とされている。脇は適度に締められ、胸はしっかりと正面を向いていた。そして何より、体躯の揺らぎが一切無い。緊張と緩和が見事に調和している、間然するところのない戦闘態勢ファイティング・スタンス


「ラッキービーストを活用したサンドスターの共鳴障壁を作ってからやるのが本式なんだろうけど、ま、仕方ないよな」


 俺は歯噛みする。コイツ、まさか、これからの戦いを、戦いとも思って――。


「それじゃあやろうか――



***



 荒涼とした廃墟都市の中で、二羽が向かい合っている。


 俺に差し向けられる黄金の輪を湛えた双眸。射竦められそうになって、両脚に力を込めた。

 最も注視すべきは奴の初動――例の縮地染みた高速移動だ。奴は先の戦闘でかならずこれを用い、相手の機先を制していた。

 ならばこちらから動くか? ……いや、それは悪手だろう。

 あの構えを崩すのは難しい。仮に力量が同等だったとして、懐にすら入り込めず姿勢を崩され、カウンターを喰らうのが関の山だ。であれば、その逆をやればいい。向こうの初動を聢と確認し、その上で対策を講じるのだ。上身を狙ってきたのなら無防備な中段を狙うか、腕を肘鉄で折った上で拳を下顎に潜り込ませて喰らわせる。下を崩しに掛かってきたらそれを躱した上で浮いた前脚を払えばいい。手数はちゃんとある。問題は最初の一撃を目で追えるか――そこに掛かっているのだ。

 俺は軽く重心を下げ、鳩尾の少し上、心臓の周辺へ意識を集中した。心臓血管系のその中枢、その周囲から全身へと巡るへと力を込めるイメージ。そうして間も無く訪れる、視界が一瞬閃く感覚。間を置かずして全身、特にプラズム部周辺と脚部に力が漲ってくるのが分かった。


 ――”野生解放”。それは遍くアニマルガール達が有する虎の子。


 アニマルガールの大部分を構成するのはヒトと同じく水分と蛋白質、それに脂質だが、それらが集まりヒトの形を成しているのは体内を循環するサンドスターがあるからだ。そして、体内に賦存するその総量のうち、実際に利用されているのはたったの四割。一度構成された人体部の維持に必要なサンドスターは獲得された恒常性により比較的少量で済み、大半は体外に発現した解剖学的に”ヒト”ではないプラズム部の形成へと回される。

 しかし、有事にはリミッターが外れ、その総量が全身へと分散される形でフル活用される。これは言わば火事場の馬鹿力、闘争-逃走反応Fight - or - Flight Responseであり、そのアニマルガールが持つ潜在能力を最大限に引き出すことができるために、俗に”野生解放”と呼び習わされていた。


 俺は湧き上がる力を感じながら、依然として奴のことを見つめていた。

 野生解放下では元動物由来の力が増大するだけでなく、五感や全身の骨格筋なども底上げされる。長くは持たないが、奴の動きを捉えるのにはうってつけだった。

 ――さあ、来い。

 身体の底で鳴り響く拍動の音。自分の呼吸の音。定期的に繰り返される瞬き。

 全てが打ち震える。

 来るか……いやまだか、まだ来ないのか。いっそのこと、やはりこちらから――。


 奴が視界から消えた。


「っ……!!」

 刹那、脇を開き、索敵。眼が躍った。

 そして左下に身を屈め、今にもこちらの懐へ飛び掛からんとするクロウタドリの姿。――捉えた。

 重心を素早く動かし、左肘と左膝を掻き合わせる形で防御。そのまま奴の中段へ左脚を打ち込み姿勢を崩す。胴体ががら空き。背後に流れるように倒れ込み、躰道の”変”の要領で右脚を回してその華奢な横っ腹を捉えた。


 上手く入った――筈なのに、全く手応えが無い。


「やるね」


 俺は目視で自分の脚の在り処を確認する。それは確かに奴の体側面に入り込んでいた。入り込んでいたのに、その顔からは何の痛痒も感じられない。――凄まじく、硬い? まるで石か何かにぶち当たったかのような――。


 クロウタドリは俺の右脚を掻い込み、ぐいと押し込む。組み伏せられるのを防ぐ為に身体を捩って相手を逆に引き寄せると、右拳でその肩甲骨に打撃を加えて振り払った。体勢を整えると、間髪容れずに距離を詰め、起き上がった奴の下顎を狙ってストレート。が、機敏にそれを掌側面で受け止め、顎に添える形で備えていたもう片方の腕で捩じるように打ち払い、そのまま身体をぶつける勢いで腕を巻き取りショルダーロックをお見舞いされる。


 この特徴的な攻勢――か!!


 続けざまに膝蹴りを喰らう寸前、上体を持ち上げ躱し、上がった膝ごと抱え上げて奴を地べたに臥す。怪我は負わせたくはなかったが四の五の言っている場面じゃない、このまま脚を――。

 が、僅かの逡巡の間を見逃さず奴は空いた脚を膝を抱え込んだ俺の首元に巻きつけ、そのまま真横へと押し倒す。クソ、身体の柔らかい奴め。幸いロックが甘かったこともあり、両腿の間をなんとか抜け出すと、身を持ち上げてバックステップを踏み、一度距離を置いた。


「やるじゃないか。強いよ、君」

 言いつつ起き上がるクロウタドリは、全く息を切らしていない。

「……はあっ……ざけんじゃねぇぞ……」

 息を整えて俺は再び構えを取る。コイツ、ただ力任せなわけじゃなく、対人格闘術にもこなれていやがる。その点についてはアドバンテージを取れると考えていたが、どうやら読みが甘かったようだ。

 やはり正攻法では敵わない。ならば手練手管を尽くすまで。


「そういやお前の旅のお仲間、優等生のことはいいのか」

 俺は構えを解かず訊く。

「今頃べそでもかいてたりしてな――『優しいクロウタドリに会いたいわ~』って」

 奴は眉一つ動かさない。まあ想定通り。ならこちらでどうか。

「そういや……女学園にいた頃、お前に姿がよく似たフレンズが居た。優等生と違って成績は頗る悪かったが、クラスのムードメーカーって感じで、いつも周りから好かれていてさ。名は……何と言ったかな」

 そこで奴の口の端が僅かに下がるのを俺は見逃さなかった。やはりこれがこいつの――。逆にこちらが僅かに口許を綻ばせると、言葉を続ける。

「……あぁ、思い出した、! あいつは良い奴だった。いつでも快活明朗で、周りに気配りを欠かさないフレンズだったよ。クラスの鼻摘み者だった俺にさえ声を掛けてくれた。対等に接してくれた。優等生ととりわけ仲良かったことにさえ、妬みも嫉みも湧いて来やしなかった。それが、お似合いだと思っていたから」

 そこで歯噛みする。ぎりり、と歯の擦れる嫌な音。

「それなのに、当の本人は覚えていないときている。覚えてないのに、”きっと”大切な奴なんだとさ。噴飯ものだろ? 笑えるよな。……いや、そんなもの通り越して、堪らなく腹が立つよ」

 クロウタドリの顔からはあの気色の悪い微笑は消えていた。それでいい。

「生き残った奴はみんな違ってみんな糞だ。優等生と同じ様に、辛い記憶に真っ向から向き合わず、別の何かで塗り固め、代替物を探して満足していやがる。或いは過去と未来の全てから逃避するために自らの身をセルリアンに投じた奴だってうんといた。全くふざけていやがる。俺はそんな連中とは違う。片時だって、クロツグミやのような、かけがえのない存在の喪失から目を逸らしたことは無い」

 そこで構えを緩やかに解き、左手首に巻いていた装置ギズモに一瞥をくれてから、独り言つ。


「――


 片脚を抜き、体軸をビルの外へと傾けたのちにその勢いを活かしてコンクリートを蹴り上げた。そのまま展開した両翼を羽搏かせてフェンスを乗り越えると、眼下にはたちまちビルに挟まれた並木道が拡がる。目を後ろに流してクロウタドリがこちらを追跡してくる様子を確認してから、俺は中心駅の方へ転進する。

 ――住所は適当だ。位置情報を掴んでいるように話したのは虚勢ブラフに過ぎない。だが駅前にいることは見当が付いていた。ペデストリアンデッキ上に取り残されたラッキービーストの本体、その発信信号に従ってその場所へと向かい、そこでクロウタドリと合流することは大方予想が付くからだ。そしてディスプレイを優等生に託しているとするなら、俺の発言の真偽は確かめられない。俺が独語していた話の文脈から言って、奴は目標を優等生に変更したと考えているだろう。だが真意は違う。道中で上手く不意を衝き、奴を戦闘不能にしてやるのだ。


 並木道を折れ、狭隘な飲み屋街へ。袖看板が多く、少しでも間違えれば致命傷を負ってしまう。隘路を抜けてオフィス街へと躍り出たところで、駅の方面へと曲がる振りをして大きな袖看板の裏に身を隠した。奴が出てきたところで体当たりをかます。

 が、裏をかかれたのはこちらだった。直上から襲う衝撃。チッ――そう上手くはいかねぇか……!

 奴は落下する俺の身体をホールドし、地面に接触するか否かというところで虹の鱗粉を巻き上げて体勢を持ち上げ、一転急上昇を始めた。都市計画に沿って高さが一様に揃えられた中層ビル群から一際高く伸びる、四方が緑で覆われた双塔ツイン・タワーが近付いてくる。あれこそが、この超巨大動物園・ジャパリパークの運営元が入居していた超高層ビルスカイスクレイパー。全面が木組みで覆われていて、それらと内側のガラスの間に逐一植栽がある。経年で成長した植栽により垂直にそそり立つジャングルそのものと化しているが、20年経った今でも未だに目立った綻びも無く屹立しているその威容に驚かされた。奴は俺の身体を抱えたまま東棟の木鋼の格子を潜り抜け、劣化したガラスを破砕してビルの内部へと飛び込んだ。その際に緩んだ腕を掻い潜り、俺の身体は建物内部の広大なアトリウムへと投げ出された。空中で体勢を立て直し、アトリウムの壁面を構築する木鋼柱と梁の格子空間へと着地する。


「ここを第二の戦場にしようってのかい」

 身を起こしつつ俺は言う。

「お誂え向きだろ?」

 対岸の梁に着地した奴が返答する。暫しの間視線を交錯させたのち、俺たちはほぼ同時にアトリウムの床面へと降り立った。お互いに構え、臨戦態勢に移る。

 虚勢ブラフは見破られた。だが先の屋上とは違ってここは入り組んでいて、残留物も多い。搦手を弄することも出来る。――勝算は、まだある。


 今度の間は長く持たなかった。継続していた野生解放の恩恵により脚力が強化されていた俺は、クロウタドリよろしく縮地を用いて一瞬で間合いを詰める。中段に一突き。容易くガードされた。そこで俺は奴のローファーの爪先を踏み付ける。痛みで軽く身を引いたところに渾身の肘鉄を打ち込んだ。よろめいた奴は近場にあったプラ製のテーブルへと片手を付く。

 ――占めた。

 俺は追撃に入ろうとする素振りで意識を誘導した後、満を持して。クロウタドリの体躯が揺らぎ、めきめき、という音と共にプラテーブルごと背後に倒れ込む。頭を打ったのか直ぐに体勢を立て直せない奴の上体へ今度こそ追撃に入った。この機を逃すな。

 が、胸倉に掴みかかって捉えたのは奴のにやつき。こいつ、端から誘い込んで――。

 刹那視界が閉塞された。プラテーブルの中央に刺さっていたらしいパラソルを展開したのだ。慌ててそれを取っ払った時、奴の拳は既に不可避な位置にまで達していた。

 喰らう三度の連撃。――重いッ!! 乾いた喘ぎを吐きつつ俺は背後へと蹈鞴たたらを踏んでしまう。そして何とか上げた顔で奴の両眼を見遣り、絶句した。


 光彩の下部が発光していない――コイツ、……?


「アドバイスあげよっか」

 残心の姿勢を保っていたクロウタドリは身を楽にして人差し指を立てた。

「……手前の講釈なんざ聞きたかねぇ」

「遠慮するなよ」

 奴は不敵な笑みを絶やさずに言葉を継ぐ。

「こういった対アニマルガール格闘時において相手と実力伯仲イーヴンの場合、野生解放ってのは戦略的価値を持たないんだ。誰だってその気になれば使える以上、両者が野生解放したところで元の戦力差は埋まらないからね。言ってしまえば、あれは力のリミッター解放が使えないセルリアン相手に自分の力を底上げしたいときにその真価を発揮すると言える」

 目の前の黒い鳥は突き立てた人差し指をこちらに向ける。

「君も僕も素体は小鳥だ。ある程度の体格差があったとはいえ、ポテンシャルはそう変わらない。アニマルガールの膂力は元動物に大きく依存するから、君と僕の力は端から同等だと言えるだろう。そういった時、どうすれば相手の実力を踰越アウトパフォーム出来ると思う?」

 俺は奴から目を離さずに考えた。実際、言っていることは肯綮に中っている。だが事実、奴は本来拮抗する筈の膂力で、俺を明白に上回っていた――野生解放もせずに。

「……それは、俺が今ここで習得できることなのか?」

 静かに訊ねた。

「残念ながら無理だね。これは一朝一夕でものに出来るもんじゃない」

「チッ、じゃあこの問答はなんだ!」

「おいおい、それくらい察してくれよな」

 クロウタドリはこれまでの軽佻浮薄な喋り方とは一転して、地に響くような低音の、極めて粗雑な口調で返す。


「――


 須臾の静寂。そして沸き上がる、怒髪天を衝く瞋恚。


「ざ――っけんじゃねぇッ!!」

 激昂して奴に飛び掛かろうとしたのも束の間、知らないうちに俺の身体は宙へと投げ飛ばされていた。次いで横腹に襲ってくる鈍痛。――殴られたのか、今の一瞬で? 混乱の中、棟内へと差し込む日光に奴のシルエットが落とされた。何とか体勢を立て直し、向き合おうとする。

 が、次の瞬間には懐に入り込まれていた。再び肩をがっしりとホールドされた上で鳩尾にまともに膝蹴りを喰らう。本気のそれではない。だが、一瞬意識を遠のかせるのには十分過ぎるショック。何とか耐えてその場に踏ん張るが、気付いた時には額中に脂汗が玉のように浮かんでいるのが分かった。

「頑張るねぇ」

 肩越しに掛かる奴の声が神経を酷く逆撫でる。渾身の力でホールドを解いたが、それでバランスが崩れたのがいけなかった。隙を見逃さずクロウタドリは胴体への連撃へと移った。拳が身体を捉える直前でなんとか両腕をクロスさせて身を屈め防御の姿勢をとったが、一発一発が鉛玉のように鈍重なやつの打撃に圧倒される。それぞれのインパクトの強さに加えて、この敏捷性アジリティ……一体何がどうなっていやがる。

 拳のラッシュに耐え忍ぶ中、視界の端に移る赤い円筒。――これしかない。

 身を捩ると同時に体当たりを喰らわせ少しの隙が生まれた。俺はそれの元へと駆け寄り、力を振り絞って近くの柱へと放つ。緩やかな放物線を描いて飛んで行った赤の塊――消火器は、柱へとぶつかるや否や、劣化により外装が裂け炸裂した。

 アトリウムの下層は白い粉塵でたちまち満たされた。あとは直感だ。直前の奴の居場所を頼りに驀進し、掌底を力任せに叩き込む。運良くそれは奴の胸元を捉えたが、張り詰めた筋肉に衝撃を緩和される。野生解放による骨格筋の増強は誰にでも起こることだが、これほどまでに硬化することは無いはずだった。唖然とする俺の方を、煙幕に浮かぶ黄金の二つの輪が睨め付けた。ここに入ってきた時と同じ様に奴は俺の身体を捕縛しようとするが、間一髪でそれを避け、反対にこちらが向こうの身体を抑え込み、そのまま外の方へ突進する。

 方向は合っていた。二重になっていたガラスカーテンが破砕され、細かい粒状になった破片が両者に降り注ぐ。繁茂していた蔦やら草やらが絡みついたまま、俺たちは特徴的なビルのファサード擦れ擦れを自由落下していく。上から奴の両肩をがっしりと掴んでいるのは俺、下に組み敷かれたまま仰向けに落下していくのはクロウタドリ。不気味に湛えられた微笑の上では、強風で暴れる艶のある黒色の前髪が、妖しく光る二つの光円を断続的に遮っていた。


 ──なんなんだ。


 一体なんなんだよ────お前はッ!!


 ビルの中腹を通過したところで、奴は漆黒の両翼を展開する。させるか――そう思って両手を伸ばし翼を鷲掴みにするが、暖かな羽弁を感じたのも束の間、。理解が出来ず硬直した俺に掴みかかったクロウタドリは、身を翻して上下関係を逆転させた。呆けた顔でそれを見遣ったまま、俺はビルの谷間へと落ちていった。



***



 ビルの麓に整備されたタイル敷きの広場で、両者は向き合っていた。

 膝が笑っている。身体のあちこちが痛む。圧倒的な力量差で戦意が殺がれただけではない――まるで狐に化かされたかのような嫌な虚脱感が全身を支配していた。おまけに、野生解放が解かれたことによって襲ってくる極度の疲労感──文字通り満身創痍だ。

「……てめぇ……ふざけてんじゃねぇぞ……」

 俺は構えを維持できず両手を膝に付き、忌々しく吐き捨てた。

「……どうして? 俺が弱いから、舐め腐ってんのか……?」

 数度こちらが圧したこともあったが、最後の圧倒的な立ち回りを見る限り、最初から奴の掌の上で転がされていたというのが真実だろう。絶対的な強者――それに負けたことでは無く、この戦いが端から「ちからくらべ」というフレンズ間でのごっこ遊びに落とし込まれ、まともに相手されていなかった事実に堪らなく屈辱と劣等感を植え付けられていた。

「言っておくけど、僕はそれなりに平和主義者パシフィストなんだ。この戦いだって君がどうしてもって言うから付き合ってあげただけで、最初からこてんぱんにぶちのめすつもりなんて無かったよ」

 ――ああ、そうかよ。この道化の化け物が。俺は路上に唾を吐く。血が混ざっていた。

「で、どうする? 立つのもやっとみたいだし、おんぶして連れてってあげようか」

「……冗談」

 最後の力を振り絞って胸を張った。コイツの背に載せられるなんて反吐が出る。だが、そうしないとまともに動けないのは事実だった。


「最後くらい、本気マジで来てくれよ」


 俺は軋む身体で笑った。せめて記憶が飛んだ方が、マシってもんだろ。


「上等」


 奴は構える。一陣の冬の微風が吹き過ぎて、それが心地良かった。黒鳥は忽然と姿を消して、俺の記憶もそこですっぱり途切れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る