Another show girl off the stage ⑤

「……で、これは何の服なのよ」

 かつて隊に所属していたアニマルガールらの寝室として用いられていた部屋に連れてこられた私は、彼女に上下セットの衣服を渡された。

「それは探検隊の制服。アニマルガール向けのフリーサイズだから背の高いあなたでも着れると思うわ」

 着替えたらさっきの部屋まで戻ってきてちょうだい、と言い残して、彼女は寝室から出て行ってしまう。一人残された私は、目の前のベッドに置かれた衣装一式を見下ろしつつ、深い溜息を吐いた。どうしてこんなことに……しかしながら、この拠点にやってくることに決めたのも、彼女の創作意欲を復活させたのも私自身なので、今回ばかりは自業自得ということになる。ならばもう腹を括るしかないか。それに、保安調査隊や知性を手に入れたというセルリアン――セーバルのことをよく知っている彼女から、もしかすると記憶を取り戻すためのきっかけを手に入れられるかもしれない。私はそう考えて、取り敢えずこの機会をなんとか前向きに捉え直そうとする。

 改めてベッドに並べられた衣服を見下ろす。トップは両肩に肩章を模した装飾が付いた厚手のエポーレットシャツで、ボトムは裾広がりのショートパンツ。それとは別に、胸元に着用するパークのロゴがあしらわれた大き目のループタイと、腰に付ける明るい橙のカラビナポーチが置かれていた。私は上着とスカートを脱ぐと、それらを順番に着ていく。近くに備え付けられていた姿見で全身を確認してから、私はマーゲイの私室へと戻った。


「お、あおちゃんもそれ着たんだ」

 部屋のドアを開けるや否や、中で衣装の確認をされていたらしいクロウタドリがこちらを見遣って言った。

「え、あなたも出演するの?」

 私は眉根を寄せつつ訊く。

「そんな嫌そうな顔するなよ。僕としてはあおちゃんの演技を見物しているだけでも良かったんだけどさ、マーゲイちゃんに僕みたいな美少女にうってつけな役があるって言われたからね」

「そこまでは言ってないけどね?」

 口許に手を当ててしたり顔を浮かべるクロウタドリにすかさずマーゲイがツッコミを入れる。彼女も私と同じ保安調査隊の制服を着用していたが、加えて、先端から根元にかけて朱から白へのグラデーションがかかった羽根が付いたサファリハットを被っていた。

「それで、私たちはどういうキャスティングなのよ」

 私は満足げにこちらを眺める彼女に聞く。

「そう言えばまだ言ってなかったわね。あなたは探検隊の隊員役で、クロウタドリは隊長役よ」彼女は私たちをそれぞれ指差しつつ告げる。「隊長と隊員のフレンズとの禁断のラブロマンス……そんな作品に仕上げる予定だから」

「はあ」

 不敵な笑みを浮かべつつそう言う彼女に、私は困惑の声を洩らす。

 彼女は卓上においてあったハンディカムを持ち上げると、こちらに向かって構えてみせる。

「……うん、やっぱり思った通りハマってるわね。あなたたちとなら久々に納得のいくものが撮れそうだわ」

 うんうんと頷きつつそう言った彼女は、自室の出口へと歩いていくと、ドアを開けて意気揚々とこちらに呼び掛けた。

「さあ、早速クランク・インよ」



***



 撮影場所となるらしい隊長の旧居室へと連れてこられた私たちは、マーゲイにそれぞれタブレットを手渡された。見ると、画面内には横書きで何やらストーリーの粗筋らしきものが書き込まれていた。

「それは所謂プロットってやつ。さっき書き上げたばっかでちゃんと確認してないからミスもあるだろうけど、取り敢えずストーリーの共有に使って」

「さっきって……映画を撮るって決めてからまだ5分ちょっとしか経ってないけど」

 私は画面内のページをスクロールしつつ言う。5ページに渡ってぎっしりと文字が書き込まれていた。

「インスピレーションが湧いたときはそれくらい3分足らずで書けるわよ。何年脚本描いてきたと思ってんの」

 彼女は自慢げに胸を張る。

「本当はコンテも切りたいところだけど、今回はそんな時間も無いだろうから、取り敢えずぶっつけ本番で行くわ。30分くらい時間をとるから、しっかり読み込んで作品の雰囲気や自分の役を掴んでちょうだい。私はその間に細かいセリフを作っておくから」

 じゃあ一旦解散、と言って手を打ち鳴らしたマーゲイは、即座に持参したラップトップを使って執筆に入る。その凄まじい打鍵スピードに目を釘付けにされていると、横にいたクロウタドリに肩を叩かれた。

「どうする? 一緒に読み合わせする?」

 見上げられた瞳を見据える。少しの間考えたのち、私は言葉を返した。

「……いや、別々にしましょう」

「おっけー、じゃあ僕はあっちで読んでくるね」

 彼女は部屋の奥の方へと歩いていくと、ロフトに上がる階段へと腰掛けてタブレットに目を落とした。私は壁側のテレビに向かう形で配置されていた深緑のソファに腰掛けると、同じくタブレットの中のプロットを読み始める。


 〔――舞台はここ、ジャパリパーク。

 時は異変の直前で、まだ多くのヒトがこの地で暮らしていた頃。

 次第に構成メンバーが増えて賑やかになっていくジャパリパーク保安調査隊の中で、唯一悶々とした気分を募らせていくアニマルガールが居た。彼女は以前から保安調査隊の隊長に想いを寄せていた。長年に渡るセルリアン討伐の甲斐もあり、ようやく休息も増えてきたのだが、正式開園に伴う莫大な事務作業と増加した隊員の相手により、隊長が彼女と過ごす時間は寧ろ減ってしまっていたのだった。


『隊長さんっ!』


 ある日、彼女は手の空いた時間に隊長に声を掛ける。

 応じる彼に、彼女は思い切って、久々に二人でお出掛けをしないか、と誘うのだった。渋る隊長。彼女は断られないように食い下がる。半日――いや、2~3時間だけでもいいですから! その言葉に押され、彼は応諾する。明後日の午後はフリーだから一緒に何処かに行こうか、と彼女に告げた。


 当日の午後。隊長の居室におめかしをした彼女がやって来る。二言三言交わしたのち、約束通り二人だけでパーク内へと繰り出していくのだった。

 訪れた場所はパーク・セントラル。ゲストたちで賑わう午後の園内を、二人は歩いていく。コーヒーカップにジェットコースター、カルーセルにお化け屋敷。アトラクションには乗れるだけ乗っていく。夕食を食べ終えて最後に観覧車に乗っていたとき、彼女の心臓は早鐘を打っていた。

 想いを伝えるなら今しかない。

 そう思って口を開きかけた――その時。

 観覧車の内部にも響き渡る程けたたましいサイレンが鳴り響く。僅かに開く窓を開けて確認してみると、どうやらキョウシュウ地方において噴火警戒レベルが大きく引き上げられたとのこと。パークの職員は直ぐに対応に当たるようにとの通告が入る。観覧車を降りて隊長と共に急いで拠点に引き返す彼女の口は、強く引き結ばれていた。


 拠点に到着した時には、隊員は既に出払っていた。隊長不在であったため、臨時的に別の職員がキョウシュウ周辺の各地域にて陣頭指揮を執っているらしい。隊長と共に出発の準備を整える中、彼女の頭の中では絶えずあることが渦巻いていた。

 大規模噴火に伴うキョウシュウ地方の立ち入り禁止、セルリウムの大量噴出、それに伴うセルリアンの大量発生、そして、多くのヒト・アニマルガールの安否が不明――専用無線にて移動中に聞いた深刻な状況。その内容から判断する限り、これまで直面してきたあらゆる事件の比にならないほど、状況は切迫していた。これから自分たちも現場へと向かうが、そこに仲間たちがまだ残っているのか分からないほどに。

 ――これで、最後かもしれない。そんな予感が何度も頭を過った。


 準備が整い、スタッフカーで現地へと一路向かう二人。日が暮れる中、道中はやけに静かだった。やっぱり、もう――。歯噛みして俯き、彼女が悲痛な思いに暮れていると、不意に車が停まる。到着したのかと思って顔を上げたが、目の前には仲間たちはおろか、セルリアンの姿すら無かった。不思議に思って運転席にいる隊長を振り向く彼女。そこで、彼は静かに告げる。


『この先を真っすぐ行けば、シェルターに辿り着く。――君まで犠牲になることはない』


 そう言って微笑む彼。それを聞いた彼女は、暫しの間言葉を返せなくなってしまう。

 確かに今回に限っては、立ち向かってどうこうなる話ではないだろう。今更加勢したところで、無意味かもしれない。けれど、最前線で戦うみんなを放り出して逃げ出すことなんて――


迷った挙句、彼女は言葉を返す。

『』―― 〕


「出来たっ!」


 不意に背後から上がった声に私は振り向く。マーゲイはラップトップを頭上に掲げ、達成感に満ちた表情でそれを見つめていた。

「早いね、まだ20分くらいしか経ってないけど」

 クロウタドリがそう言って感嘆する。

「ノってる時はこんなもんよ。今からそっちに共有するわね」

 彼女が再びラップトップを操作すると、暫くして私の持っているタブレットに共有を知らせるポップアップ通知が表示された。タップすると、少しの読み込みを経て、所謂ト書きと台詞が書き込まれたPDFへと画面が移る。

「本当は読み合わせをするところなんだけど、さっきも言ったように今回は出たとこ勝負よ。早速冒頭場面を撮影するから、二人とも集まって」


 冒頭シーン。

 彼女は主人公を演じる私よりも前に、ジンバルを用いて広い室内を撮影し始める。パノラマ写真を撮る時のように左から右へとゆっくりパンニングしたかと思うと、今度は誰も座っていないソファやベッドを俯瞰で撮ったり、あるいはロフトや天井の梁へとズームアップしたりした。 

「何してるの」

 映像を確認しつつ満足げに引き返してくる彼女に私は訊く。

「冒頭は沢山のフレンズ達で賑わっている拠点が描かれるでしょ。でも流石に一度にそれだけの数を集められるわけないから、こうやって背景だけ別撮りしておいて、あとでみんなに出演してもらった映像をグリーンバックで合成するのよ」

 ほら、次はあなたの番よ、と彼女は私を指差す。指示を受けて私は一度廊下に出ると、突き当たりまで歩いていく。マーゲイは居室の前に三脚を拡げ、雲台の上に載せたカメラのズームリングを回してこちらを捉えた。また、私の足音を拾うためか、コンパクトなガンマイクもこちらに差し向けられる。その様子を見て自分がカメラの前に演者として立っていることを自覚した私は、途端に緊張を覚えた。

「そっちからゆっくりとこちらに向けて歩いてきて。勿論、演技しながらよ」

 演技しながらって……簡単に言ってくれるな。私は戸惑いつつも、その言葉に頷いてみせた。

「よし、じゃあ取り敢えず一発目。シーン1、カット1、テイク1、よーい――スタート」


 私は一歩目を踏み出す。続いて二歩目。少し俯き加減に、そして表情は暗めに――尤もこれは私のデフォルトだが――歩いていく。廊下の中間点を超えたあたりで不意にカットがかかった。

「全っ然ダメね」

 彼女はこれでもかと深い皺を眉間に刻み込んでこちらを見遣る。いや、演技初心者に向けていい顔じゃないだろう。

「本当に演技してた?」

「失礼ね、一応していたわよ」

 私は仏頂面で返す。

「そう? じゃあ主人公はここでどんな気持ちで歩いているか言ってみて」

 訊かれて、私は自分が考えたことを指折り挙げていく。

「まず、隊長と長らく過ごせていないことによる不満や憂鬱な感情。その他にも、これから彼を誘うことに対する緊張と、もし誘いに乗ってくれたらと思う期待感が綯い交ぜになった複雑な心境があると思うわ。加えて、彼にじゃれついている他のアニマルガールに対する少しの嫉妬心もあるかしら」

 それを聞いて、彼女は口を少し開けたままぴたりと動きを止めた。私は眉根を寄せて言う。

「的外れだった?」

 いや、と返事をして、かぶりを振るマーゲイ。

「読解は完璧だわ。なんであんなに演技が下手くそだったのか分からないほどに」

 再び顔を顰める私。なら、と言って、彼女に問い掛ける。

「改善するためのアドバイスを頂戴。駄目だとか下手だけじゃ何を変えればいいのか分からないから」

 まあそれもそうね、と応じた彼女は、一つ咳払いをすると、私に告げる。

「多分あなたの場合、演じればいいことは分かっていてもそれを表現できていないだけだと思うの。役者の個性も活かしたいから自分を殺せとまでは言わないけど、ある程度その役に入り込むことが大事だと思うわ」

「入り込むって、どうすれば」

「そうね――取り敢えず、自分が共感できるところを探してみる。過去に同じような立場や心境に置かれた時のことを思い出して、その時の自分の振舞いや感情を発露させる。それをベースとして、演じるキャラクターの個性や特徴をその上に載せる、といったイメージかしらね。前に私が自ら出演した時はこういう意識でやっていたわ」

 彼女のアドバイスを受けて、私は考える。振り返ってみると、確かに役になり切ろうとはあまりしていなかった。小説などを読む時と同じで、キャラクターをただ客観視して、それを表面的に投影した、というだけに過ぎない。彼女の指摘は尤もと言えた。

 私は頷くと、再び最初のように廊下の始まりまで引き返していく。その途中で、作品の主人公の心境と重なる部分を模索する。過去の体験を引き出すといっても、自分は部分的な記憶喪失になっているのでそれには限界があるだろう。だから、異変後の経験に照らし合わせるしかない。そこで、私はふと思いつく。そうだ――少し違うが、隊長の存在をに置き換えれば――。

「それじゃ行くわよ。準備はいい?」

 マーゲイに声を掛けられて、私は顔を上げる。少し間を置いてから、ゆっくりと頷いてみせた。

「OK。じゃあテイク2。よーい、スタート」


 前に踏み出される一歩。照明が照らされているわけでもないのに、身体が熱くなる。

 今から会いに行くのだ――彼女に――あの夢の中にいた、黒塗りの彼女に。夢に繰り返し出てくる彼女は、恐らく私にとって大切な、印象深い存在であったはず。だったら、彼女に働きかける時の私には、それなりに大きな感情の起こりがあったはず。想像でもいいから、それを意識してみる。そして、そこに主人公にしかない憧れや恋慕、嫉妬の感情を載せるのだ。

 足取りが重くなるのを感じた。心臓の鼓動が微かに速くなる。憂鬱な感情は、新世代たちで賑わう森の中を歩いたときのイメージから。それに期待が混ざるところは、クロウタドリに旅に誘われたときの感情から。恋慕や嫉妬はあまり分からないが、そこはこれまでの読書遍歴から引き出してディテールを詰めていく。


 ――あれ。

 私は唐突に、拠点の中とは異なる、別の廊下を歩く自分を見出した。

 夕暮れに染まる廊下。そこは学校の中のようで、私はある場所に向かっている。彼女を呼ぶために。彼女――彼女とは、誰だ?

 教室の戸口に立つ私。部屋の中は眩い逆光ではっきりとは見えないが、課業終了直後の喧騒が聞こえてくる。私は彼女の名前を呼ぶ。振り向くのは彼女と、その周りで話をしていた数人のアニマルガール。湧き上がる微かな嫉妬心。彼女が手を挙げて向かってくるとき、胸が高鳴る思いと緊張とが入り混じっていく――


「カーットォ!」

 その声に身体をびくつかせて私は顔を上げた。目の前にはカメラから顔を離してこちらにサムズアップするマーゲイと、腕組みしつつ感心した様子でこちらを眺めるクロウタドリの姿があった。

「急にめちゃくちゃ良くなったわね。十分及第点だわ。よし、この調子で次のシーンも行くわよ!」

 調子良くそう言ってカメラの配置を変えていくマーゲイを、私は呆けた顔で見つめる。――さっきのは、何だったんだ。確か前にも、同じように幻覚というか、白昼夢染みたものを見た覚えがある。それが純然たる過去の光景なのか、それともただの妄想に過ぎないのか。分からないが、自分の記憶を取り戻す一助にならないとも限らない。マーゲイに呼ばれて居室の手前まで向かいながら私は、そう考えていた。



***



「はい、カット。……うーん、これも微妙ね。日も暮れてきたし、今日はこの辺りで一旦切り上げましょうか」


 マーゲイは撮影したばかりの映像を確認しつつそう言った。

 撮影は予想よりも早いペースで進んでいた。今日最後のシーンは、二人でやってきたパーク・セントラルにて観覧車に乗る場面。勿論実際のパーク・セントラルはここから遠く離れているため、背後にグリーンバックを張っての撮影だ。背景の映像自体は異変前から撮りためてきた資料映像から持ってくるのだという。

 実はこのシーンから先の撮影も行っていたのだが、何テイク繰り返しても彼女が満足のいくものが出来上がらず、結局明日に繰り越すことになってしまった。そして、その大元の原因は、言うに及ばず私だ。

「ごめんなさい」

 謝る私に、彼女は軽く手を振る。

「いや、別に気にしなくていいわ。あなたはよくやってると思う。ただ、なんか足りないのよね。演技なのか、雰囲気なのか、それとも私の撮り方なのか……今晩考えておくから、明日も続きからよろしく頼むわね」


 夕食にジャパまんを食べ、拠点の浴場で汗を流した私は、マーゲイの居室に戻った。クロウタドリの姿が見えず、映像を見返していたマーゲイに訊くと、もう寝室に行ってしまったと彼女は言う。

「あなたも早く寝た方が良いわ。疲れたでしょ」

 私はかぶりを振る。

「いや――寝る前に確認したいことがあって。この部屋にある本、読んでもいいかしら?」

「別に構わないけど……どうして?」

「やっぱり自分の演技に原因があったと思うから……何かヒントがあるかもしれないと思って」

 彼女は私の言葉に少し目を丸くしたのち、少し笑った。

「意外ね」

「え?」

「いや、だってずっとあなたは乗り気じゃないと思ってたから」

「それは……」

 私は返答に迷う。確かに最初はそうだったが、ここまで来ておざなりにするという訳にもいかない。それに、初めの演技で私が見たあの幻覚染みたもの。もしもあれが本当に過去の記憶であったのならば、演じていくうちに何か自分の記憶を取り戻すきっかけを手にすることが出来るかもしれないと思ったのだった。

「まあいいわ。あまり根詰め過ぎないようにね。別にあなたのやる気に水を差すわけじゃないけれど、演者の体調管理も監督の務めだから」

 彼女はビデオカメラの電源を消すと、席を立った。そのまま私の横を通り過ぎ、入口のドアを開ける。

「色々煮詰まってきたし、私も寝ることにするわ。寝る時は電気消してきてね。スイッチはここ」

 彼女はドアの脇に備え付けられたスイッチを指すと、一つ大きな欠伸をし、それじゃおやすみ、と自室を後にした。


 私は書棚から演技に纏わる本を数冊引き抜き、彼女が使っていたデスクに置く。『ビギナー必読 演技のいろは』、『舞台演技指導の骨子』、『Behind the Performance ~演技の裏側に迫る~』、などなど。そもそも自分に足りていないのが演技の技量なのか、心構えなのか、それ以外の何かなのか皆目見当がつかないため、とにかくいくつか参照して、それを見つけないといけない。私は雑然とした机上に置かれたデスクライトを点けると、一冊目の目次を開く。

「精が出るね」

 唐突に掛けられた声に、私は横を向く。声の主はクロウタドリだった。彼女は開け放たれたドアの枠に背を凭せ掛け、腕を組んでこちらを見ていた。

「寝たんじゃなかったの」

 私は目線を本に戻して言う。

「マーゲイちゃんが寝るのを待っていたんだよ。君にアドバイスをするためにね」

「だったら彼女がいるときに来るべきだったわね。最後のシーンで欠けているのが何なのか、私以上に悩んでいたのよ」

「だからこそだよ。あの子、答えが分かったら昼夜問わず騒がしくなりそうだろ」

 彼女はそう言うと、こちらに歩み寄ってくる。そして、机の上に置かれた本を見下ろした。

「色々読んでるんだね。何か分かった?」

「いや、たった今読み始めたところ。というか、アドバイスって何? それから先に話してちょうだい」

「勿論話すよ。でもそれより先に、君は何が足りない、良くないと思ったのか聞かせて欲しいな」

 私は彼女の言葉に嘆息し、軽く頭を掻く。少し考えを整理してから、こちらを見下ろす彼女に目を向けて話し始める。

「……技量と心情、どちらかが欠けていると思ってる。もちろん私は演技初心者だし、多分前者の可能性が高いからこうやって教則本を頼っているんだけど――」

「だけど?」

「だけど、演技に瑕疵があるなら彼女、マーゲイが真っ先に気付くと思ったのよ。彼女はそのあたりのことに精通しているわけだし。でも、彼女はついさっきまでここで映像を見返しつつ悩んで、それでも結論を出せていなかった。だから、後者の可能性もあるんじゃないかって」

 これらの教則本で私が気付ける程度のことは、彼女は網羅しているはずだ。一応見てみようとは考えたが、先に述べた違和感を踏まえると、欠けた要素のヒントはここには無いのかもしれなかった。

「なるほどね」クロウタドリは私の言に頷くと、満足げに告げた。「やっぱり、君の洞察力は流石のものだね」

 彼女は机の上にあった一冊を取り上げると、ぺらぺらとそれを捲りつつ言葉を続けた。

「確かに君の演技は粗削りだ。同じく初心者の僕から見てもそう思うし、今日最後に撮った観覧車のシーンは双方の感情の機微を上手く表現しなきゃならない場面だったから、尚のことそこが響いたんだろう――僕の拙い演技も含めてね」

 ただ、と前置いて、言葉を継ぐ。

「それは決定的な要因じゃない」

 彼女は少し前屈みになって、座っていた私に目線を合わせた。湯上り直後だからか、仄かに薫る石鹸の香り。急に近付いた距離感に、私は若干仰け反る。

「君の言った通りそこはマーゲイちゃんが真っ先に気付くところだ。表現技法に問題があるなら僕たちよりも早く違和感の根源を突き止めるだろうし、撮影技法なら言うに及ばない」

 でも、と彼女は指を突き立てて言う。

「演者の心の中身までは、流石に見通せないだろう?」

 やはり、そこなのか。私は、デスクライトに照らされて輝く黄金が縁取るその眼を見据えて、訊ねた。

「だったら、私には何が欠けているの」

 クロウタドリは私の眼差しを逸らすことなく受け止める。彼女は少し間を置いてから、徐に告げた。


「恋心だよ」


 私はこれでもかというほど顔を顰めた。それを見たクロウタドリは、予想通りといった感じで笑い声を上げる。

「あっはは! やっぱりそういうカオした」

「何が面白いのよ」

 私は憮然とした表情で呟く。

 恋心だって? それくらい私にだって――。

「自分にだって、分かるって思ってるんだろ。」 

 彼女の指摘に私は口を噤んだ。図星であった。

「恋情ってのはね、何かで読んだからってトレース出来るものじゃないんだ。実際に自分が経験してみないと分からないんだよ」

「じゃあ、今から誰かに恋しろって言うの?」

 私は口を尖らせて言う。

「それは現実的に考えて難しいだろ。だから、ここでこそマーゲイちゃんが教えてくれた手法を使うんだ」彼女は再びピンと指を立てつつ続ける。「過去の自分の経験をベースにして、物語の主人公特有の感情を載せる。今回の場合、基礎とすべきものは何かを好きになる感情だ。別に恋慕そのものでなくてもいい」

 彼女は持っていた冊子を置くと、戸口へと引き返していく。

「あのシーンで大事になるのは主人公の隊長に対する恋心だ。本当の恋心を知らなくたって、マーゲイちゃんが教えてくれたやり方が上手く嵌れば彼女が納得するシーンを撮れるだろう。勿論、君だけじゃなくて僕も上手くやらないといけないけどね」

 部屋から出ていこうとするクロウタドリ。それを私は咄嗟に呼び止める。

「待って! 一つだけ聞かせて」

「なに?」

「あなたは分かるの――その、恋心が」

 今日の撮影において、クロウタドリは殆どリテイクを出さなかった。それはきっと、演技の面においても、心情の発露においても、マーゲイが満足のいくレベルに達していたということだろう。そして、私の解釈が正しければ、本作品における隊長にも――主人公に対する恋情は存在している。

 戸口で立ち止まった彼女は、こちらを振り向いて暫しの間沈黙したのち、あっけらかんと言ってみせた。


「分かるさ。好きなフレンズが居たんだ、少し前にね。――実らなかったけれど」


 クロウタドリは軽く手を挙げて、暗い廊下へと姿を消す。彼女が居なくなった戸口を、私は黙ったまましばらく見つめていた。

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