The fragrance embalmed in my memory ⑥
「今から下山すると、麓に着くころには大分暗くなってしまうんじゃないかい」
入口の上がり框に座り込んでローファーを履いていたジャコウジカに、クロウタドリがそう話しかける。
「大丈夫大丈夫、あたし、暗いのは慣れてるし」彼女はこちらを振り向いて親指を立てて見せた。「なんたって、夜行性だからね!」
「あれ、そうだったの?」
「うん。あなたたちに会ったのは、素材集めが終わった後に住処に帰って寝ようとしていた時だったの」
「それなら、何か申し訳ないことをしたわね」
「そんなことないよ! 最近匂い水の材料集めばっかりで、誰かとお話ししたりお出掛けしたりする機会が全然無かったから、今日はとっても楽しかった」
靴を履き終えた彼女は、高山植物が山のように入った篭を抱え上げると、私たちの方へと向き直る。
「良かったらさ、またこの辺りに遊びに来てよ。その頃にはもっとたくさんの匂い水を作ってるだろうから、その香りの感想を聞きたくてさ」そして、彼女は何かを思いついたのか不意に顔を明るくさせると、言葉を継いだ。「そうだ、折角なら、次はそのお友達のフレンズも一緒に連れて来てよ! あたしもその子のこと、気になってたんだ」
彼女のその言葉を聞いて、私は返答に窮する。最初に取り繕った旅の目的を訂正するのをすっかり忘れていた。横に立つクロウタドリも同様で、微かに苦笑いを浮かべていた。
入口の暖簾を潜り、敷地の内と外とを隔てる垣の際まで歩いていったところで、彼女は不意に戸口で見送りのために立っていた私たちの方へと振り向いた。
「そうだ、アオサギちゃん」彼女は私の名を呼ぶ。
「なに?」
「旅の途中でさ、沢山のフレンズとお話ししなよ」
私は軽く首を傾げる。その様子を見て、彼女は、さっきの話の続き、と私に呼び掛けた。
「言ったでしょ、自分の香りは自分じゃ気付けないって。さっき、迷子になっちゃった自分のことを見つけたい、ってあなたは言ってたけど、自分一人じゃきっと分からないままだよ。もっと沢山のフレンズと出会って、もっともっとお話をするの。色んな子にあなたのことを教えて、その反対にあなた自身のことも教えてもらうんだ――さっき、あたしにしてくれたようにね。そうすれば、いつの日か、本当のアオサギちゃんを見つけることが出来るんじゃないかな」
彼女は、また、華の様に眩しい笑顔を浮かべた。
「ちょっとの間しか一緒にいられなかったけど、あたし、アオサギちゃんが思ってること、悩んでること、聞かせてくれて嬉しかったよ。それじゃねっ!」
ジャコウジカは片手を軽く振って身を翻すと、足場の悪さをものともせずに、麓の方へと向かって歩き去っていった。遠くの岩陰に彼女が姿を消すまでその背中を見つめていた私だったが、山から吹き下ろされた寒風を受けて、館内へと引き返した。
***
館内に戻ってから暫くの間広間で寛いでいた私たちだったが、ふとガラス戸越しに外を見てみると、雪がちらちらと降り始めていた。粒は大きいが、見たところ量は大したものではない。これからどれだけ降り続くかによるが、恐らく大して積もりはしないだろう。
降雪の影響で気温が下がってきたため、私たちは館内の少し奥まった所に位置している休憩室へと移動した。広間と同じく畳敷きのその部屋には窓が無く、そのため冷え込みの程度もいくらかマシになっていた。部屋の隅には入浴後の客が睡眠をとれるように用意された簡易な枕や、座布団が積み上げられている。壁際には本棚が設置されていて、その中には私でも分かるようなメジャーなタイトルの漫画本が陳列されていた。また、部屋の奥の方には小規模な子供用のプレイルームがあり、玩具が詰め込まれた箱が幾つか置いてあった。
私は本棚の前に行ってその中を確かめてみる。休憩室という性格上、客の長時間の滞在はあまり想定していないのか、本棚の中には前述した漫画本の他には雑誌やムック本程度しか並べられておらず、私の食指をそそる様な小説などは一冊として存在しなかった。まあ、当然と言えば当然か。かと言って漫画等を読む気にもならず、私は早々とそこを後にして、部屋の隅に置いてある枕や座布団の山の方へと歩いていった。それらの中から枕を一つと、自分の体長を横たえるに足りる位の座布団を抜き取り、畳の上へと置いて簡易な敷布団を完成させた。不貞寝、という訳ではないが、特にやることも無いので、寝ることにする。
私は並べた座布団の上に横になって、頭を枕の上へと預けた。その時、後頭部の頭皮に、じゃり、とした妙な感覚を覚える。これは――所謂パイプ枕か。私の好みではないが、我慢するしかない。横になって間もなく、瞼の重みが増してきた。登山での疲労に加えて、湯船にじっくり使ったことで上がった深部体温の低下による眠気の亢進。覚醒と睡眠の
――それを、邪魔する者がいた。言うに及ばず、クロウタドリだ。
かたかた、かたかた、と妙な音が程近くで聞こえたので重い瞼を上げてみると、目の前には、複雑な模様が刻まれた大きなスペード模様の上に、特徴的なフォントで”BICYCLE”と印字された直方体があった。
「……なに」
「見りゃ分かるだろ、トランプだよ」
「そう」私は彼女が座り込んでいるのと逆側に寝返りを打ち、それから目を背けた。あーっ、と途端に非難めいた声が反対側から響いてくる。
「ちょっとあおちゃん、寝ないでよ」
「うるさいわね、眠いのよ」
「まだ夕方だぜ」
「夕方だろうと朝だろうと、眠いものは眠いの」
私はそう言って、堅く目を瞑った。以前は無理矢理被っていたドレープを引き剥がされたが、今回は引き剥がすものなどない。それに、あの時より強い眠気を感じている今は、何が何でも、彼女に流されてなるものか。
それから暫く無言の時間が続いたが、その後に聞こえてきたのは、箱からトランプを出す音。その次に、カードを切って、分けていく音が聞こえてくる。その音が止んだのち、再び場を静寂が支配した。
……背後から、無言の圧力を感じる。というか、背後から聞こえる音に気を取られたせいか、入眠へと準備を固めていた私の意識は、すっかり覚醒の手前にまで引き戻されていた。ああ、結局今日もこうなるのか。私は自分の意志薄弱さと、睡眠を妨害した彼女への苛立ちを抱えて、矢庭に身を起こした。そしてクロウタドリがいる方へ顔を向けたのだが――畳の上に置いてある二つのトランプの山を見て、私のその勢いは止まった。
「……何これ」
「それ、あおちゃんの手札」
二つのトランプの山は、一つはクロウタドリ側に、もう一つはこちら側に置いてあった。ここから始めるトランプのゲームなど、私が知る限りでは一つしかなかった。
「もしかして、ババ抜きをやるつもりなの?」
「え? そうだけど」彼女は私が恐る恐る聞いた言葉に小首を傾げた。
その返答を聞いて私は嘆息する。そして、彼女への苛立ちが再燃した私は、半ば強引に両方の手札を引っ手繰った。
「あ、何するんだよ!」
「いや、二人でやるババ抜き程つまらないものは無いでしょ」
私は二つの山を纏め上げると、それを切り始める。
「折角やるなら二人でやっても面白いものが良いわ」
「じゃあ、七並べは?」
「それもつまらないでしょ」
「でも、この二つ以外はちゃんとルール覚えてないんだよね」
何よそれ、と私は溜息交じりに言う。まあ、七並べならばババ抜きよりは幾分かマシだし、彼女が満足すればもうそれでいいか。そう思った私は、再び山を二つに分け、その半分を彼女に手渡した。ああ、そう言えばここから始まるゲームに、七並べもあったか。
陽が落ちて暫く立っていたため、部屋の中は既に大分暗くなっていた。私は先程使ったコップに水を汲み、その横から持っていたフラッシュライトの光を当てて光源を確保した。正直ここまでしてトランプがやりたいとは思わないが、一戦交えなければ彼女が私を寝かせてくれなさそうなので、仕方がない。
私たちは大量の手札を繰り、その中で見つけた7のカードを場に出していく。ダイヤの7を出したのが私だったので、私が先攻となった。
そこからは、番が回るごとに、模様が一致し、数が連続するカードを手札から双方が出していった。――カードの山札を二つに分けただけなので、繋げるのに大して苦労することも無い。従って、ゲームの展開はただの作業同然になっていて正直面白味の一つも無いのだが、どういう訳かクロウタドリは目を輝かせながらプレイを続けている。
「そんなに楽しい?」私は目の前の彼女に訊ねる。
「勿論だよ」クロウタドリは即答した。
そう、と私は言う。この展開で嬉々としてプレイできるなんて、それこそ初めてトランプに触れた者くらいだと思うのだが……。
少しして、手札が大分減ってきたころ、クロウタドリが私に話しかけた。
「あおちゃんさ、ちょっと変わってきたよね」
「変わってきた? 私が?」
クロウタドリは頷く。同時に左端にスペードのエースを繋げて、スペードの列が完成する。
「うん。前の君なら、頑としてこういう風に一緒に遊んでくれなかったろ」
「いや……言っておくけど、これはあなたに半ば強制されてやってるのよ」
「それでもさ。前なら、何かと理由を付けてやらなきゃいけないことを回避したり、やったとしても途中で放棄したりしてただろ」
彼女の言葉に、私はすこしむっとする。ただ、自分でもある程度自覚している部分もあるため、言い返しはしなかった。
会話の間に私はダイヤのキングを右端に繋げた。ダイヤの列が完成。
「さっきだってそう。僕が居なくたって、新世代のジャコウちゃんとちゃんとお話しできていたじゃないか」
「それもジャコウジカが先に私のもとに来て、あなたがなかなか戻って来なかったから仕方なくよ」
「でも、ジャコウちゃんは悩みを打ち明けてくれたって言ってたよ? それは、君が抱く新世代の子達への隔たりや拒否感といったものが和らいできたから出来たことなんじゃないかい?」
「……」
それは……確かに、そういうところもあるのかもしれない。ただ、先程の相談は、自分の立場が定まらない大きな不安感に襲われて、衝動的にしてしまったものだと考えることもできる。その場合は、私の新世代たちへの考え方が変わったわけではないと言えるだろう。
「それと、抵抗はあったにしろ、君は自分であの崖を渡る決心をしただろ。ちょっぴり暑いだけのサバンナで音を上げて、僕の背中に甘んじていた頃の君じゃ、直ぐ僕におぶられる方を選んでいただろうね」
場にクローバーのエースが並べられた。クローバーの列が完成する。
私は、自分の手札の枚数を確認した。この流れでいけば、私が先に上がることができそうだ。
「……私が変わったにせよ、変わっていないにせよ、そんなのはどうでもいいことよ」私は詰問のような彼女の言葉に少し苛立って、投げやりにそう言った。
「勿論、自分の生きる意味とか理由を見つけてみたい気持ちがあるのは事実よ。でも……どんなアニマルガールだって、他の生き物と同じで行きつく先は死、でしょ。結果が一つなら、別にこの希望が叶えられなくたって、仕方ないと思ってる」
そう言ったものの、それが自分の全くの本心であるとは思っていなかった。しかし――心の何処かでそう思っているのも、事実だ。心の底から沸き上がるある種の
「随分なところまで飛躍したね」
クロウタドリは苦笑する。話の飛躍自体は私自身が分かっていたので、彼女の反応を見て私は苦い顔をしてしまう。
「ま、多かれ少なかれ、君の考え方は間違っちゃいない。どれだけ抗おうが、原因が何であろうと、生けとし生けるものは皆最後には死ぬわけだし」彼女は何でもないことのようにそう軽く言って、ハートの列を埋めていく。
「でもさ、だからそこに至るまでの過程が無駄になるってことにはならないと思うな」
「どうしてよ」
「結果が破滅であろうと、足掻き続けることで生まれる輝きがあるからだ。そしてその輝きは、命が潰えた後も遺り続ける」彼女は人差し指をぴんと立てて見せた。「輝きを見出した終わりと、見出せなかった終わりとでは、全然違うものだよ、あおちゃん」
「……あなたの言うことはいつも抽象的過ぎて、良く分からないわ」
私は頭を掻く。異変前も似たような文脈で「輝き」という言葉が使われたところを聞いたことがあるが、正直、今と同じでピンと来なかった。私にとっての輝きとは、物理的な発光以外の何物でもない。
私は場を見下ろす。ハートの列は9まで完成していて、今度は私のターンだ。私の手持ちは10と
――なぜ、3枚あるんだ?
しかし、そのことについて考えようとした矢先にクロウタドリに急かされ、私は10のカードを場に出してしまった。普通に考えればクロウタドリはパスせざるを得ない訳だが、しかし、彼女は場に2枚のカードを出した。
12と、ジョーカーのカードだ。
私は暫し固まる。ジョーカーの存在を私はすっかり忘れていた。頭の中で七並べのルールを漁る。確か――ジョーカーは、そこに埋まる本来のカードで置き換えられるはずだ。だから、私はジョーカーの場所に今手持ちの11のカードを出せる。しかし――置き換えたジョーカーは、手札として持たなければならない。
クロウタドリは私が11のカードを場に出し、代わりにジョーカーのカードを手に取った所を見計らって、場に13のカードを繋げて見せた。
「――言っただろ、最後まで足掻くことに意味があるって」クロウタドリは身軽になった両手を頭の後ろで組んでそう言った。
「どちらが勝っても、ゲームは終わりだ。勝者も敗者もその先へは行かない。でも、今の君と僕では、終わり方に大きな違いがあったろう? ――これは、勝ち組とか負け組とか、そういうことを言ってるんじゃないよ。終わりまで足掻いて、過ごした時間に意味や輝きを生み出そうとした者とそうしなかった者とでは天と地の差があるということさ」
「……二人でのプレイという状況で、あなたは最初からジョーカーを持っていることに気付いていた。それはつまり、最後まで足掻いたんじゃなくて、始まった時点で勝利が決まっていたんじゃないの……?」
クロウタドリは首を横に振る。
「それは違うよ。ジョーカーだって、漫然とプレイしている状態で適当に出したのなら、君に拐されて意趣返しをするために使われてしまうかもしれない。そうしたなら、負けていたのは僕の方だ。最後まで考え抜いて、勝ちと輝きを見出そうとした点で、上の空でプレイしていた君とは大きな差があったという訳だよ」
彼女はそう言ってほくそ笑んだ。私も、これには臍を嚙んでしまう。
「というか、ずるいわよ、途中で話しかけて気を逸らすなんて」
「君が応じなきゃ良かったんだよ。そうすれば、早いうちに僕がジョーカーを持っていたことに気付いていただろ」
それは確かにそうだ。しかし――そこで、私は一つのことに気付く。
「あれ……でも、早めに気付いていたとしても、ジョーカーをいつ使うかはあなたに委ねられているのよね」
「ま、そうだね。今回のゲームにおいて、君の生殺与奪の権利は僕が握っていたという訳だ」
「なら……ゲームに対する意識に差があったとはいえ、やっぱりアナロジーとしては不完全じゃないの」
「それは……」クロウタドリの笑顔が陰った。そのまま僅かに私から目を逸らす。「……まあ、何にせよ、僕の言いたいことは伝わったし、良し、ということで」
「何も良くないわよ!」
流石の私も大声を出してしまった。危うく彼女の例え話を全て飲んでしまうところだったぞ。
「それに、人生とか、そういう規模の話ならまだしも、こんな小規模なゲームであなたが得た『輝き』って何なのよ」
「そりゃ、勝負に勝って気持ちよく寝れるという後味の良さだよ」
「はあ?」
「ゲームが終わってもなお続く『輝き』に相違ないだろう?」クロウタドリは肩を竦めてそう言った。「それじゃ、お休み」
彼女は茫然としている私の横を通り過ぎ、私が先程用意した寝床にごろんと横になった。
「ちょっとっ!」
私は横たわったクロウタドリの身体を揺さぶるが、彼女はうんともすんとも言わない。この鳥……勝ち逃げした挙句に、人の寝床を奪って、無視を決め込もうというのか。
私は彼女を起こすのを諦めて立ち上がると、自分の分の座布団と枕を部屋の隅から取ってきて、彼女から離れた位置に置いた。先程の良く分からないゲームというか、茶番に突き合わされたせいですっかり眼が冴えてしまったが、寝ない訳にはいかない。トランプは畳の上に置いたままだが、片付ける気力も残っていない。
完成した簡易な布団の上に再び体を横たえた私は、目を瞑る。
……なるほど、確かに後味が悪い。敗戦の嫌な余韻が頭の中で尾を引いており、とてもじゃないが寝付くことが出来ない。
暫く輾転反側していた私だったが、ふとあるものを思い出し、近くに畳んで置いておいた外套のポケットを弄った。程無くして、ひんやりとした固いものが指先に当たる。ジャコウジカから貰った香水だ。取り出して、フラッシュライトの光を当ててみる。壜の中を満たす粘性のついたオイルの中では、金木犀の花弁が揺らめいていた。もしかしたら、この香りに安眠効果があるかもしれない。そう考えた私は、コルクを外し、数滴を手の甲に垂らしてみる。両手を擦り合わせて馴染ませると、ジャコウジカがそうしていたように、私は両手を自分の顔の前に持ってきてそれを嗅いでみた。
既に香りがある程度溶け込んでいるのか、漂ってきたあの胸を締め付けるような香りが、私の鼻腔の中を満たす。
金木犀――単純に好きな香りなのだが、それ以外に、私を惹きつける他の何かがそこにはある。なんだろう……懐かしさ、郷愁か。何時、何処で初めて嗅いだんだっけ。そんなことを考えているうちに、私の意識は、眠りの底へと引きずり込まれていった。
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