The fragrance embalmed in my memory ⑦
目を覚ますと、私は何故か、夕暮れ時の往来の中に立ち尽くしていた。
――いや、違う。目を覚ましたわけじゃない。この感覚――これは、恐らく、夢の中だ。場所こそ違うが、アーケードの中で見たあの明晰夢と、同じ感覚を覚えていた。
私は周囲を見渡す。
私の前後に続く、外観や高さが統一された中層ビルの連なり。私は中央の緑道の中に立っていて、その両隣には片道二車線の道路が整備されている。道路沿いに植栽された街路樹はかなりの樹高があって、都市の中なのに見上げると林の中かと勘違いするくらいの立派な林冠が形成されていた。但し、季節は今と同じ位なのか、葉は全て落ちている。
この通り、見覚えがある。女学園の目の前にあった大通りだ。実際、それを証明するかのように、女学園の制服を着た多くのアニマルガール達が私の横を通り過ぎていく。ここの緑道では定期的にマルシェなどの催しが開催されていて、まさに今も、緑道の脇には複数の屋台が出店していた。下校途中のアニマルガール達はそれらの前で足を止め、自分の気に入った小物を買ったり、あるいは友達と一緒に仲良く買い食いしたりしている。
私は、自らが見る新たな夢の展開に慄いていた。この夢の中では、前回に見たものとは異なって、他のアニマルガールやヒトも普通に存在している。大通りという空間だけの再現にとどまっていないのだ。
このことから考えるに、恐らく、前回の夢は単に往時のアーケードの姿を再現したというよりは、異変時に私が見た記憶そのものを忠実に再現していたのだと考えてよさそうだ。これはあくまで私が見る明晰夢に一貫したルールがあると仮定した場合の話だが、しかし、毎回当時の記憶の追体験に近い行為を行わなければあの夢が終わってくれなかったことを考えれば、この仮説が有力であるように思われる。
この仮説をベースに考えると、恐らく、この夢も過去の記憶の追体験をしなければ終わってくれないのだろう。そこで、私はあることにはっと思い至り、周囲を見渡した。そして――程無くして、私はその子――以前の夢の中でも出会った、あの全身が黒く塗りつぶされたアニマルガールと思しき存在を、背後に見つけた。
彼女は微動だにせず、こちらを――いや、私が見ているのが正面か背後なのか分からないので確信は出来ないのだが――見つめている。その存在の異様さを改めて実感した私は、その場から動けずに彼女の方へと目が釘付けにされてしまう。正直、不気味過ぎて、近付くのが躊躇われるのだが……しかしながら、彼女と接触して何らかの行動を取らなければ始まらないので、私は重い足を何とか前に踏み出し、彼女のもとへと近付いていった。
彼女の目の前まで来て、私は立ち止まる。身長は、クロウタドリと同じか少し低いくらいだ。間も無くして、彼女は徐に動き出した。私の横まで来て、緑道の向こう側をゆっくりと指差す。行こう、という合図だろう。私は身を翻すと、彼女の横に並んで歩き出した。
彼女は頻繁に緑道脇の出店の前で立ち止まる。商品を手に取って矯めつ眇めつしては、また歩き出す。私は困惑しながらも、彼女の行動に合わせた。やがて彼女は、立ち並んでいた出店の一つ、りんご飴を売る屋台の前で完全に立ち止まった。店頭には飴でコーティングされた多種多様な果物の串が並んでおり、こちらにまで甘い香りが漂ってくる。彼女は暫くそれらを眺めた後、いちご飴の串を指差しつつこちらを振り向いた。
これが食べたい、ということだろうか? しかし、金なんて持っていないぞ――と思って外套のポケットを漁ろうとしたのだが、手先の感覚からして、ポケットの位置が明らかに異なっている。驚いて下を見やった私は、そこで初めて、自分が外套の代わりに女学園の制服を着用していることに気付いた。なるほど――当時を再現した夢ならば、下校途中の私の衣服が当時のままだというのも至極当然のことだ。そして、自分の足もとには、当時使っていた
私は鞄の中を漁る。程無くして、昔使っていた財布を見つけた。顔を上げて店頭に掛かった値札を見る。250円。私は財布の中から丁度の額を取り出すと、店頭に立っていた店主に渡す。
しかし、その店主は硬貨を受け取ろうとはしない。というか、微動だにすらしない。横にいる彼女に目を転じてみると、彼女も同じく、飴の方を指差したまま少しも動いていなかった。私は口元に手を当てて、暫しこの奇妙な光景について考えた。そして、あることに思い至る。
もしかして――私は昔、今のような行動を取らなかったのではないか? 恐らく、私の見立てが正しければ、この明晰夢の中の登場人物は、過去のアーカイブと異なる行動を私が取った際に、それに応じる行動を取ったりしないようにプログラミングされているのではないのだろうか。私はまた少し考える。考えろ、過去の自分なら、どのようなことをしたのかを。
「――買い食いは、校則違反になるから、駄目……?」
少しの間を置いて、それを聞いた彼女ががっくりと肩を落とした。
なるほど、これが正解か。私は我ながら、過去の自分の言葉に嘆息した。まあ気持ちは分かるが、今ならそれくらいは別にいいだろう、と思ってしまう。
彼女も切り替えが早いのか、直ぐ屋台から離れると、再び緑道を歩き出した。私は財布を鞄に仕舞うと、慌てて彼女の後ろから付いていく。
それ以降も、何度か今のような行動を選択する場面が現れた。
歩道橋を渡るか否か。
自販機で飲み物を買うか否か。
道端で見かけた猫の行方を追いかけるか否か。
河川敷に寄り道するか否か。
私は、黒塗りの、誰とも知らない彼女と歩きながら、頭の中でこの奇妙な明晰夢の分析を続けていた。
この夢は、何を目的としているんだ?
普通の夢は、私の記憶が正しければ、脳が記憶を整理する際の副産物として生まれるものであって、そこに何かしらの意味や目的があるわけではない。そして、本来明晰夢というものは、大体の場合、自分の思うがままに夢の展開を変えることが出来るはずだ。しかし、私が見るそれは、自分の意思でコントロールすることは出来ない。夢全体を自分以外の何か超越的な意思やルールといったものが管理していて、それが私をして一つの方向へと至らしめようとしているように思われてならない。ならば、その行き着く先は何なのだろう。私は今まで見てきた夢の要素を纏めて、それを考えてみる。何故敢えて明晰夢なのか。何故過去の記憶を忠実に再現しているのか。そして何故、肝心の彼女だけが黒塗りなのか――
そして、私は、一つの結論に辿り着く。
――もしかして、この夢は、過去の記憶を追想させることで、彼女の正体を思い出させようとしているのではないか?
その結論に達したのと同時に、私はそこでふと立ち止まった。
芳しく、切ない香りが不意に私の鼻をくすぐったからだ。この匂い――私は直ぐに分かった。金木犀だ。香りが漂ってきた方に顔を向けてみる。そこには高い塀があって、更に見上げてみると、その家の庭に植栽された金木犀の、蓬々と茂って丸く刈り込まれたシルエットが塀から乗り出すようにして立ち並んでいた。厚いクチクラ層を持つてかてかとした葉に埋もれるようにして、小さな橙の花弁が控えめに咲いている。
私はジャコウジカのことを思い出した。彼女は、自らが香水作りを始めたきっかけを思い出す際に、初めに嗅いだ自分の香りによく似た石鹸の香りを、記憶を引き出す際のトリガーとしていた。記憶は、香りと強く結びついているのだ。
その通りだった。金木犀の香りと、この目の前の光景を見て、私は、ここをよく知っているということを思い出した。いつもの帰り道の途中にある金木犀の家。秋になると上から漂ってくるこの匂いが好きで、いつもこうやって暫しの間立ち止まってその香りを楽しんでいた。時期が終わるころには大量の落花により塀に沿って橙色の絨毯が敷かれる。いつかそれを集めて、ポプリを作りたいって話していたっけ。
――そう、私はそんなことを話したことがあるんだ、誰かに。私ははっと我に返り、前を見た。途端に目に差し込む、眩しい西日。黒塗りの彼女は、いつの間にか私を置いて前に進んでおり、目の前の緩やかな坂の頂部あたりに立ち尽くしている。その光景を見た瞬間、頭が強く痺れる感覚がした。この光景も、前に見たことがある。
秋。西日。朱い逆光の中に佇む誰か。坂。金木犀。横のフェンス越しに見える、モノレールの軌条。
彼女の目がある筈の場所から、雫が滴り、頬を伝って緩やかな弧を描いたのちに、下に落ちた。地面に落ちる直前に、夕日を浴びて一瞬煌めく。続けて、二つ、三つと地面に小さな染みが増えていった。
――泣いて、いるの?
そう呟こうとして、自分の声が出ないことに気付く。体も動かない。前の明晰夢と同じ、金縛りだ。私は瞬きも出来ぬまま、坂の上の彼女を見上げるしかなかった。
真横の軌条から、鉄の擦れる微かな音が響いてくる。モノレールがやって来るのだ。その響きは音を増し、段々と背後から迫ってきた。共鳴するように、私の鼓動も早鐘を打ち始める。
どっ、どっ、どっ、どっ。
脂汗が額に滲んできた。気持ち悪い、苦しい――でも、目を背けられない。
私は彼女に向かって叫んだ。勿論声は出ない。けれど、心の中で、叫んだ。そうせざるを得なかったのだ。
(ねえ、あなたは誰なの)
カーブに差し掛かったのか、軌条から響く軋みの音が一層大きくなる。身体を伝って耳介に響く拍動の音と混ざって、私は吐き気すら覚えた。
(お願いだから教えて。知りたいの――あなたが誰なのか、わたしにとって、どんな存在だったのか)
夕日が坂に落ちてゆく。自分だけが取り残されるんだ、この場所に。
嫌だ――行かないで。
(お願い、答えて――)
その時、沈む直前の日から差した眩い光が私の眼を焼いた。一瞬にして、世界が白飛びする。平衡感覚を失って、倒れていくのが分かる。私を通り過ぎるモノレールの轟音。それが運んできた風により引き起こされる乱流が私を取り巻いてゆく。その中で、不意に、声を聞いた。
「あおちゃん」
その声は、霞がかかった様にひどくぼんやりとしたものだったが、何か懐かしい響きがした。
「ごめんね」
***
「うおゎ、びっくりしたぁ」
床から跳ね起きた私を見て、すぐ傍にいたクロウタドリが素っ頓狂な声を上げた。
耳を支配する煩い鼓動の音。寝汗で衣服がべっとりと張り付き、また、顔から噴き出していた玉のような汗のせいで、自分の長い髪の毛も顔に張り付いていた。私は頭を軽く振ってそれを顔から剥がすと、横にいるクロウタドリの方を見やった。彼女は立ち膝になっていて、心配そうに眉尻を下げている。
「大丈夫? 随分とうなされていたから、心配になってさ」
「……クロウタドリ」
「なに?」
「さっき、私に何か話しかけた?」
彼女は私の言葉を聞いて、首を軽く傾げた。
「いや、何も。君を起こそうとして少し揺さぶったくらいかな」
「……そう」
私はそう言って目を伏せると、少し間を置いて、敷いていた座布団の上で立ち上がった。そして、休憩室の出口に向かって歩いていく。
「ちょっと、どこ行くんだよ」
「もう一回身体を洗ってくるわ。汗で酷いことになってしまったから」
それじゃ、朝ごはんのジャパリまんでも用意しておくよ、という彼女の言葉を背中に聞きつつ、私は休憩室の出口を右に折れた。突き当りに紺と紅の暖簾が見える。取り敢えず、汗を流して、取り乱した心を落ち着かせなければ。
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