The fragrance embalmed in my memory ⑤

「そう言えばさ」体の火照りを冷ますために浴槽を縁取っている岩の一つに腰掛けていたクロウタドリが私に問い掛けた。「君がジャコウちゃんに作ってもらった香水だけど」

「あれがどうかしたの」

「いや、どうしてあの香りに決めたのか気になってね」

「あ、そう言えばあたしも気になってた」クロウタドリの疑問に同意する形で、同じく横で涼んでいたジャコウジカが頷きつつそう言う。「あれ、摘んできたことを自分でもすっかり忘れてたんだよね。えっと、何て言ったっけ――?」

「それだと随分と酒の肴みたいな響きになるわね――違うわ、金木犀よ」

 金木犀。秋を代表する芳しい花で、沈丁花や梔子くちなしと並んで三大香木の一つに数え上げられる。あの卓上にも並んでいた蝋梅を加えた四大香木というのもあり、勿論それを用いて香水を作ってもらうという手もあったのだが――数ある花々の中に金木犀の花弁を見つけた時、何故かその香りを選ばなくてはならない、という考えが浮かんできたのであった。もともと自分の好きな季節の香りの一つが金木犀であったということもあるのだろうが、そう言った想念に駆られる何か別の要因が、何となくではあるが、自分の中にあるような気がした。しかし、異変前の記憶の様に、深い靄の中に包まれていてそれが何であるのかは判然としない。

「……なんとなく、選んだだけよ」

 私は言葉を濁してそう言った。そのほかにあの時の感情を表す言葉が無かったとも言える。


 それからまた暫く静寂が続いた。身体が冷えたのか再び肩まで湯に浸かった二人と反対に、のぼせそうになった私は一度身体をあげ、浴槽の縁に腰掛けた。背後の山肌を駆け下りてきた寒風が私の身体を容赦なく吹き過ぎる。

 下で寛ぐ彼女たちを見下ろした。二人の頭頂部にはそれぞれ一様に濡れた大きな獣の耳と、鳥の翼が付いている。私は、おずおずと自分の頭を触ってみた。そこには、相変わらず旋毛つむじから流れる毛束と、その奥に触れる頭皮しか無かった。アオサギである自分が本来有するはずの両の翼はその名残すら感じず、いくら頭の上を探ってみてもその手は空しく虚空を掻くだけである。

「クロウタドリ」私は目の前の彼女の名を呼んだ。「あなたの翼、触ってみてもいいかしら」

「えっ」虚を突かれた彼女が声を上げた。「急だな」

「駄目?」

「いや……別にいいけど、ほら」

 彼女は片翼を展開し、こちらに差し向けた。目の前に漆黒のような翼の先端が現れる。

 私はその先の方に触れてみた。指の先に、しっとりと濡れた羽根の感覚が伝わる。その独特な羽弁の流れを感じつつ、風切羽根から雨覆に至るまで軽く触っていく。翼の背の部分にはしっかりと骨が通り、それを筋肉が覆っていた。先端の方を軽く持ち上げて引っ張ってみると、それに呼応して上方の腱が進展し、こちらへと伸びてくる。

 やはり、作り物などではない、本物の鳥の翼だ。ヒトの身体に、構造から質感に至るまで本物と比べても全く遜色のない翼が生えている。きっとジャコウジカの頭部に付いている大きな耳も、実際のシベリアジャコウジカのそれと変わりないのだろう。私は改めて、アニマルガールという存在の奇妙さを思い知らされた。そして、その奇妙さを再認識したことにより、自分の立つ足場が端から瓦解していく感覚を覚えた。

 「アニマルガールのあるべき姿」が、彼女たちの有するプラズムが発現した形なのだとするならば、私はそれから明白に乖離している。翼も無く、尾羽も無い。だとしたら、今の私は何者なのだろう。鳥でもなく、アニマルガールの定義からも外れているとするなら、恐らく一番近い存在はヒトだろうか。しかし、姿見の前で確認したように、生物であるヒトが避けては通れない老化を、私は体験していないではないか。20年前と変わらぬ姿のまま、今もここで生きている。

「……あの~、あおちゃん?」

「えっ」

「いや、なんか凄く深刻そうな顔してたから」彼女は私の顔を覗き込むようにして首を軽く傾けている。「僕の翼に、何か変な所でもあった?」

「あ、いや」私はたじろぐ。一度考えを巡らせると、周りが見えなくなってしまう自分の癖を忘れていた。ごめんなさい、と謝って翼から手を離すと、浴槽の縁に置いておいたタオルを引っ手繰って立ち上がった。身体はすっかり冷え切っていたが、こんな気分では湯に浸かりなおしても寛ぐことは出来ないだろう。

「少しのぼせてしまったみたい。先に上がらせてもらうわ」

 私はそう言って屋内へと通じる出口へと早足で歩いていく。背後からクロウタドリの私を呼び止める声が響いたが、聞こえない振りをして出口の戸を引き開けた。



***



 手早く着替えを済ませると、バスタオルで髪の水気を取り、私は脱衣所から外へと出た。女湯の赤い暖簾を潜り、フローリング敷きの廊下を暫く歩いていくと、食事処が併設された広間へと行き当たる。誰もいない、静寂が支配するその空間を見て私は、自分が放棄された廃墟の中に居るということを思い出した。

 私は畳が敷かれた小上がりの休憩所に足を踏み入れ、並んだ卓の一つに腰掛けた。卓の端には色褪せたメニュー表が置かれており、私はその一つを手に取って見てみる。飲み物はソフトドリンクに酒類と一通り揃っており、食事のメニューも多様だった。きっと往時には、ここで多くの人々やアニマルガール達が風呂上がりの火照った体を休め、談笑しながら食事を楽しんでいたのだろうな。もし食堂が営業していたのなら何かを頼んで喉を潤したいところだが、当然そんなことが出来る訳もない。

 ――と、そこで視界の上端に、不意にグラスの端が映り込む。私が顔を上げてみると、いつの間に温泉から上がってきたのか、腰を軽く屈めてこちらに水の入ったグラスを差し出しているジャコウジカの姿があった。

「喉乾いてない?」彼女は私に微笑みかける。「良かったら、これ」

 私は彼女に礼を言ってそれを受け取った。グラスが想像より冷えていたので、私は軽く驚く。

「これ、何処で汲んできたの?」

「あっちにさ、捻ると冷たい水が出るやつがあるんだよ。そこで貰ってきたんだ」

 大方、蛇口のことを言っているんだろう。私はかつて暮らしていたアーケードの中にあった噴水のことを思い出す。20年も経てば普通は老朽化で水道管が使えなくなりそうなものだが、サンドスターの影響なのか何なのか、未だに使える生活設備がパークには散在しているらしい。

 私はジャコウジカに貰った水を一気に飲み干す。嚥下した冷たい水は文字通り五臓六腑に染み渡るかのようで、その冷たさはそれが体の中へと下っていく感覚がはっきりと分かるくらいだった。そして、私は卓の向かいに座った彼女に目を向けた時に、彼女の襟元に結ばれた濃い茶のタイが軽く乱れているのに気付く。恐らく結び方はクロウタドリに習ったのだろうが、今日初めて衣服の概念を知った彼女だ、上手く結べないのも無理はない。卓を回り込んで彼女のもとまで行くと、私は軽く胸を突き出すように言った。そうして、結び目に指先を入れて一度タイを解いてやると、女学園の家庭科の時間に習った記憶を頼りに、結び直していく。

「はい、出来た」私は結んだタイの形を整えて、彼女にそう言う。

「わ、すごい、元通りになった」彼女は結ばれたタイを見下げて、顔をぱあっと明るくして見せた。

「やっぱりアオサギちゃんはすごいなぁ。こんなことも知ってるんだね」

「別に凄くなんか……私は覚えたことをアウトプットしてるだけに過ぎないから」

「あうと……? ……それでも凄いよ。あたしなんか、色々なことを覚えてもすぐ忘れちゃうもの」ジャコウジカははにかみ笑いを浮かべて、頭を掻く。彼女は相も変わらず、華のような笑顔を浮かべる。

「そう言えば、クロウタドリは?」一向に戻ってくる気配を見せない彼女について、私はジャコウジカに訊ねた。

「毛皮を着せてもらった後に、先に行っててって言われたからその通りにしたんだけど……そう言えば、どうしたんだろう」

 ちょっと見に行ってくる、と言って彼女が立ち上がったのを見て、私はつい彼女のことを制止してしまう。

「どうしたの?」

「あ、いや……ごめんなさい、もうちょっと待ってくれないかしら」

 彼女が不思議そうに首を傾げる。

 咄嗟にではあったが、彼女のことを呼び止めてしまった自分に、私は内心驚いていた。いつもなら――こんなこと、絶対しないのに。けれど、今でなければ、彼女でなければ、話せないことがあるような気がした。

「少し、話したいことがあって」


「あたしが、匂い水作りを始めた理由?」

 再び汲みなおしてきた水を一口飲んで、彼女は私にそう問い返した。

「そう」私は緊張のためか少し居住まいを正して言う。「もし良かったら、聞かせて貰えないかしら」

「うーん」彼女は悩まし気に唸る。「何だったかな」

「あの、別に、思い出せないのならそれでいいのだけど」

 ううん、ちょっと待ってね、と言って、彼女は軽く腕組みをして考え始める。その姿勢のまま暫く考え込んでいたのだが、ある時、はっと何かに気付いたように目を開くと、矢庭に両の手を顔の前に持ってきて、どういう訳かそれをすんすんと嗅ぎ始めた。

「……何してるの」

「ちょっと待って! 今!」

 彼女の唐突な奇行に少し面食らった私だったが、思い返してみれば、先程香水を作った際に同じことをしていた気がする。調合を行う前の、祈りを捧げるようなあの姿勢だ。独特な行動だったので、記憶に残っていた。

「――何となく、思い出せたかも」彼女はそう言って、その大きな瞳をこちらへと差し向けた。「匂い水作りは、多分、あたしがフレンズになって直ぐにあったことがきっかけで始めたんだったと思う」

 彼女はゆっくりと語り始める。

「最初は、あたし、自分が何て言うなのかも分からなかった。近くにいた他のフレンズが生まれたあたしに気が付いて、名前を確かめる為に博士と助手がいる図書館に連れてってくれたの」

「博士と助手?」

「あれ、知らないの? 図書館にいる二羽の梟のフレンズだよ」

 この辺りの図書館と言えば、つい先日私が訪れたあそこになる。と言うことは、本を借りる際、私に対して妙な貸出手続を強いてきたあの灰白色のアニマルガールと檜皮色のアニマルガールの二人が彼女の言う「博士と助手」という訳か。そう言えば、そんな風に呼び合っていたような気がするな。

 閑話休題。私は彼女に続きを促した。

「……それで、博士が模様の付いたホン? っていうやつをぺらぺら捲ったあとに、『お前はこの内のどれかなのです』って言って、鹿の仲間がいっぱい載ってるところを見せてくれたんだよね」

「随分とざっくりとした同定作業ね」

「うん。だから、あたし、ちょっと迷ったの。角が無かったことは覚えていたんだけど、前に言ったように他にも角が無い鹿の仲間がいるからさ。でもそこで、助手が助け舟を出してくれたの。『これだけ良い匂いがするのだから、お前はジャコウジカなのではないのですか』って」

 そこで彼女は、再び手の平の匂いを嗅いだ。

「……この石鹸の匂いで思い出したよ。あたしがあの時に嗅いだ自分の香りは、これに似てたと思う。あの時から、あたし、自分以外のフレンズやものが持つ匂いに興味を持つようになったの」彼女は、私に向かって目を輝かせて言った。

「でも、あたし自身がそうだったように、自分の匂いは自分ではなかなか気付かないものなの。気付かないうちに風や水に流れて何処かに行っちゃって、そして最後には匂いを持つものごと消えてなくなっちゃう。だから、その匂いを長く留めておけるように、あたしは匂い水作りを始めたんだ」

 ジャコウジカは思い出に浸るかのように目を徐に閉じた。

「色んな匂い水を作ったなぁ。一番よく作ったのはお花の匂い水だね。それ以外にも、いい匂いのする草とか、木の実、木苺、果物……」彼女は指を追って数えていく。「もちろん、匂い水に出来ない香りもいっぱいあったよ。暑い日の森の匂いに、朝の霧の匂い、それに夕方の風の匂いとか。そういう匂いでも、あたしはちゃんと覚えてる」

 私は彼女の言葉を聞いて、素直に感銘を受けた。凄いな――この子は、毎日自分が感得するあらゆるものに対して、真摯に、本気に向き合っているのだ。私がこれまで何もせず、漫然と過ごしてきた日々に、しっかりと意味や価値を見出している。

 私は衝立越しに見える、浴場へと続く廊下を一瞥した。クロウタドリがやってくる様子はない。

「……アオサギちゃん?」

 彼女に呼び掛けられて、私は正面へと視線を戻した。目の前の彼女は心配そうに眉を下げている。

「なに」

「いや、なんだか……あなた、会った時から凄く辛そうな顔してるから……。今だってそうだよ」

「それは……ごめんなさい、気に障ったかしら」

「いや、責めてるわけじゃなくて。何か、悩み事でもあるの?」

 そう聞かれて、私は暫し沈黙する。自分の気持ちや悩みを他者に吐露することに対しては、未だに大きな抵抗があった。しかし――ここに至るまでの、平生の私では決して行っていなかった交流を通して、その抵抗感が僅かにではあるが和らいできているのも事実だった。今なら、悩みの全てを打ち明けるというところまではいかなくとも、その表層くらいは誰かに話すことが出来るかもしれない。少しの逡巡の後、そんな考えに至った私は、口を開く。

「……私たちが昔の友達に会いに行くために旅をしているって話は、前にしたと思うんだけど」

「うん、それは聞いたよ」

「それだけが理由じゃないの。他に……もう一つの個人的な目的があって」私は少し間を置いて、言葉を継いだ。「……私は、その……自分のことが良く分からなくなってしまっていて。自分が何をしたいのか、何が出来るのか、何者なのか、分からないの」

「それは……迷子みたいになっちゃってるってこと?」

 迷子か。それは言い得て妙かもしれない。私は彼女の言葉に頷いた。

「そんな感じかもしれないわね。それで――その、こういう言い方は抽象的かもしれないけれど……この旅を通して、自分のことをちゃんと知りたいというか、見つけてみたい……そういう思いがあって」言いたいことが纏まらないながらも、訥々と彼女に打ち明けていく。彼女に要らない負担を掛けないように、自分が常に抱いている希死念慮のことは口に出さなかった。

「だから、自分の生き方を見つけているあなたから、良ければ何か、こう、ヒントみたいなものを貰えないかしら」

「ええっ、あたしから?」

 彼女は驚いた様子で自分のことを指差す。

「ううーん……そうは言っても、あたしだって自分のことちゃんと分かってるわけじゃないからなぁ……。匂い水作りだって、好きだからやってるだけだし――」

 そこで、彼女は何かに気付いたのかはっとした表情になると、顔を上げて私のことを正面から見据えた。

「アオサギちゃん、何か好きなこととかある?」

「好きなこと?」

「そう。やってて楽しかったり、嬉しかったりすること」

「それは……今は特に無いけど……。強いて言うなら、本を読むことかしらね」

「ホンって、図書館にあるあれのこと? なら、それをどんどん突き詰めていけばいいんだよ!」

 でも、と言って、私は眉根を僅かに寄せた。「読むには読んでいたけれど、昔と違って楽しめないの」

「でもそれって、ずっと住処に籠っていた頃の話でしょ?」

 その言葉に私は軽く驚く。どうしてそんなことをジャコウジカが知っているのか――と思ったが、大体見当は付いた。恐らくクロウタドリが入浴中に彼女に話したのだろう。

「あなた、ずーっと誰とも会わずに、住処の中に居たんだって? そんなことしてたら、心がぼろぼろになっちゃうのは当然だよ」

 ジャコウジカは不意に卓の上に置いていた私の両手を取り、握りしめた。突然のことに動揺したが、手にじんわりと伝わる彼女の体温を感じて、振り払うことは出来なくなってしまう。

「どれだけ好きなことでも、心がどんよりしてたら楽しめないよ。たまにはお外に出て、陽の光を浴びて、ご飯をちゃんと食べて、誰かとお話ししなくちゃ」

「……私は、一人の方が落ち着くから」

「もちろん、そういう子は森にもいっぱいいるけどさ。でも、誰だって、一人きりじゃ生きていけないと思うよ。いつもは一人でも、辛くなったら、他のフレンズをちゃんと頼るの」

「そんなの、都合良過ぎるわ」

「そんなこと無いと思うよ? 逆に、全部一人で抱え込んで、そのままその子が消えてしまうことになったとしたなら――あたしは、そっちの方が辛くて悲しいな」

 それに、と彼女は付け加えて言う。

「クロウタドリちゃんだって同じように思ってるだろうし、それにあなたたちが会いに行くっていうも、きっとそうなんじゃないかな」

 ジャコウジカは、穏やかに私に微笑みかける。

「あなたの命は、きっと、あなただけのものじゃないから」


 不意に彼女は衝立の置いてある方に顔を向ける。続いて私がそちらの方を見やると、丁度クロウタドリが暖簾を潜ってこちらに歩いてくるところだった。彼女は衝立越しの私たちを見つけ、大きく手を振る。こっちこっち~、と言って元気良く手を振り返すジャコウジカとは対照的に、私は黙ってクロウタドリのことを見つめていた。

 既に日は山の稜線のすぐ上あたりにまで傾いており、差し込んだ鮮やかな朱色の光が彼女へと当たり、その背後に長い影が伸びていた。

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