The fragrance embalmed in my memory ④
門から入口までのアプローチは短かったが、周囲を竹垣で囲っていたり、敷石と石畳で小規模な庭園路風の路を造っていたりするなど、限られた範囲で出来得る限りの趣向が凝らされた様子が伺えた。入り口にはパークの象徴であるのの字があしらわれた藤色の暖簾が掛かっており、元はパークにより管理されていた施設であるという事が分かる。
「綺麗ね。まるで現役の施設みたい」
「よく温泉を使う子たちでたまに中や周りをお掃除してるからね」ジャコウジカはそう言って、軋む戸を引き開けた。
入口には何列かのシューズロッカーが並んでいた。そのうちの多くが乱雑に開け放たれていて、そこから異変時の混乱が垣間見える。まあ、もしかしたら単に野生動物かアニマルガールが興味本位で開けただけかもしれないが。
またジャコウジカが土足で館内に踏み入れようとしたのを見て、私は流石に彼女を制止した。別に彼女を叱りつけようとした訳ではない──単純に、異変前に体に染み込んだ社会通念のようなものが、私にそうさせたのである。
「なに?」
「その……やっぱり、ここでは靴を脱いだ方がいいと思うの」
「クツ?」
これのことよ、と私は自分が履いていたブーツを脱いで見せた。その様子を見ていた彼女は、え、と声を洩らし、慄くように後ろに一歩、二歩と退く。
「──アオサギちゃんって、
「蹄じゃないわ、靴よ。あなたの履いているそれもそう」私は彼女の足許を指差す。「ちょっと失礼するわね」
私はしゃがみ込むと、彼女の履いているローファーに手を伸ばした。固く結んであった靴紐を解き、上の舌革を軽く持ち上げてやる。
「片足ずつ斜め後ろに引き抜いてみて」
彼女は私の指南を受けて、まず右脚を引き上げた。すると、難なく靴が脱げ、彼女のタイツに包まれた華奢な足先が姿を見せた。
「なにこれなにこれ〜?! 蹄が取れたよ! あ、蹄の裏もなんだかいつもより冷たいっ!」両方の靴を脱いだ彼女は、初めての感覚に、その場で地団駄を踏んでみたり、近くを軽く駆け回ってみたりと、無邪気にはしゃいだ。
「よし、ちょっとあっちまで走ってみるよ!」彼女はそう言って、上がり框の端で玄関に正面を向け、クラウチング・スタートの姿勢をとった。
「え、いや外は──」
「よーい、どんっ!」
「ちょっとっ!」
私が引き留める間も無く、彼女は疾風迅雷のごときスピードで駆け出していってしまう。駄目だ、だって外に敷かれているのは──
「痛〜〜っ?!」
──粗い礫だからだ。彼女は礫をまともに踏みつけたのか、絶叫してその場でごろごろとのたうち回っている。全く、手間の掛かる鹿だ、と私は嘆息する。
「助けに行ってあげなよ」横で一部始終を見ていたクロウタドリがそう言う。
「仕方が無いわね──あなた、何なのその顔は」クロウタドリが何やらにやつきながらこちらを見ていることに気付き、私は彼女を訝しむ。
「いや、なんかさ」彼女はそのにやつきを隠そうともせずに言った。「あおちゃんが、ちょっと楽しそうだったから、つい」
私が楽しそうだって? そんな訳がない、と自分の口の端を念の為押し下げつつそう思った。むしろ調子が崩されて、良い気分では無いのだ。変なことを言わないで、とクロウタドリに言い放った私は、僅かに肩をいからせつつ未だに地べたで足を押さえて悶えているジャコウジカのもとに向かった。
楽しいだなんて、そんな訳がない。だって、そんな気持ちを感じる余裕など、異変後の私はもう持ち合わせていないのだから。
私は腰を屈めて、彼女に手を差し伸べる。私の手を借りて立ち上がった彼女は、痛みで目に涙を浮かべながらも、何故か楽しそうに笑っている。
「何なの、もう」
そう呟きつつ私は、やっぱり新世代は苦手だ、と心の中で嘆くのだった。
***
ジャコウジカに案内されて脱衣所に入った私たちは、脱衣籠が並んでいる手近な棚へと向かう。と、そこで彼女が、ちょっと待ってて、と私たちに言い残し、大浴場の入口へと駆けていった。彼女は引き戸を軽く開けて外を覗き、間も無くしてこちらに駆け戻ってくる。足の感触を楽しむためか、復路はスキップを踏んでいた。
「どうしたの」
「お風呂がちゃんとあるか確かめてきたんだよ。たまに無くなっちゃうことがあるからさ」
「無くなっちゃう?」
「うん。ここに詳しいキツネちゃんの話によると、上の方でユノハナ? とか何とかが詰まっちゃうとお湯が出てこなくなっちゃうんだって」彼女はそう言って、山頂がある斜め上を指差した。
湯の花、ということはちゃんとした源泉掛け流しという訳か。湯船に浸かれるだけでなく、源泉をも堪能出来るとは、ありがたいことだ。命の危険を冒してまでここに辿り着いた甲斐があった、と考えたのと同時に、結局生に固執している自分に気付き、心の裡に微かな憂悶の陰が差す。
「ひ、ひいっ」
突然横から聞こえたジャコウジカの声に私が横を向くと、先程と同じく驚愕で背後に軽くたたらを踏んだ彼女の姿があった。
「ク、クロウタドリちゃんは、か、皮が剥げるんだね……」
その口から出た物騒な言葉にぎょっとして彼女の視線を追った私だったが、何のことはない、その先には羽織っていた黒の上着を脱いでいるクロウタドリがいるだけだった。
「怖いこと言うなあ」クロウタドリは苦笑しつつ言葉を継ぐ。「これは服だよ。君も脱げるから、試しにやってみなよ」
「あ、あたしはいいよぉ……怖いもん」
「怖くなんかないさ。それに、服を脱いだ方が温泉だってもっと気持ちいいんだから」
「で、でもぉ」
「ほらほら、騙されたと思ってさ」クロウタドリは両の手の指をうねうねと動かしながら、不敵な笑みを浮かべつつ彼女の方へにじり寄っていく。歩み寄るクロウタドリから逃げるように後退していく彼女だったが、最終的に私に背がぶつかり、ひぃっ、と素っ頓狂な声を上げた。
「ア、アオサギちゃんっ、避けてよぉっ!」
「いや、クロウタドリの言う通りよ」まぁ、彼女のやり方は少し気持ち悪いが。「温泉に入るなら服は脱がなきゃ」
「な……アオサギちゃんもグルだったのかっ……」
「ほらっ、捕まえた!」ジャコウジカの服の裾を掴んだクロウタドリは、勢いよく上へとそれを引っ張り上げた。途端に彼女が下に着ていた淡い茶のブラウスが露わになる。
「ぎゃぁ〜〜?!」
断末魔と共にあれよあれよと上着を脱がされていくジャコウジカを尻目に、私は脱衣籠を掴み、棚の裏へと退避した。正直あのノリは苦手だ。私はこちらで悠々と着替えさせてもらうとしよう。
裏で二人の黄色い声を聞きつつ、私は外套、上着、スカートの順で服を脱いでいく。次に履いていた薄黄色のタイツを足元まで下げた時、
下着を外したのち、バスタオルが無いことに気が付いた。局部を隠したなんとも間抜けな格好のまま立ち並ぶ棚の間を彷徨したのち、棚の端に未使用の──と言っても汚れていない訳はないのだが──バスタオルとフェイスタオルが重ねてあったので、救われた気持ちでその一枚を身体に巻きつける。
脱衣所の奥の方からは未だに戯れる二人の声が響いていた。先に入ってしまおうか。そう思って大浴場の入口へと歩いていく道すがら、壁際に大きな姿見と体重計が置いてあるのが見えた。──そう言えば、今の自分の身体の状況は、どうなっているのだろうか。そんな疑問が頭に浮かんだ。女学園に在籍している時は健康診断と体力測定を定期的に受けさせられていたものだが、当然ながら異変後はそんなものあるわけがない。私は興味本位で、体重計に乗ってみた。メモリ式の体重計で、表示盤が勢い良く反時計回りに回転し、程なくして止まった。
52.1kg。
異変前の身体測定で測った身長が大体172cmくらいだったはずだ。アニマルガールは成長のスピードがヒトと比べてひどく緩慢であると聞いたことがあるが、もしそれが本当であれば、恐らく今でも背の高さは殆ど変わっていないだろう。そこから考えると……私は、少し痩せすぎかもしれない。
体重計を降りて、今度は姿見の前に立った。胸の少し上で折り返していたタオルを解き、鏡の前で正面をはだけさせてみる。
自分の裸体を客観的に見るのは、なんだか新鮮だった。あの地下室にも姿見はあったが、全裸でその前に立ったことは一度も無かったし、そもそもそうする動機も無かった。無意識のうちにそうすることを避けていた側面もあるのかもしれない。20年経った自分の姿態を、見るのが怖かった部分もあるのだろう。
私の身体は、自分で言うのもなんだが、不健康な程に白く、そして不気味な程に、記憶に残る20年前の姿と一毫も違わなかった。胸元には微かに肋骨が浮き出ていて、その上に頼りないごく僅かな脂肪の膨らみが乗っている。片手で胸元から鼠蹊部までを撫ぜてみるのだが、肌の張りもぞっとするほど変わらなかった。
20年だぞ、と心の中で独り言つ。ヒトなら、というより遍く動物ならば、20年も経てば例外無く老化する。細胞の産生量が減り、肌の艶も無くなって皺が増えてくる。それがどうした、これは。私は、心臓が締め付けられる思いがした。これじゃまるで──本当に時間の流れに取り残されたみたいじゃないか。
「へえ、やっぱり君、スタイル良いんだな」
背後から出し抜けに掛けられた声に、私は文字通り跳び上がった。タオルで前を覆い隠しつつ、後ろを振り向く。私に声を掛けたクロウタドリは、程近くで一糸纏わぬ姿のまま腕を組んでこちらを見ていた。
「な、何してるのよっ!」
「こっちの台詞だよ、それは。何してたの?」
私は彼女の問いに口籠る。頬が熱くなるのが分かった。自分の身体を観察していた、なんて言ったら、彼女に弄られるに決まっている。数秒黙って、そして足元の傷を思い出した私は、咄嗟にそちらの足を突き出して見せた。
「さっき崖から落ちかけた時に怪我をしていないか確かめていたのよ、そうしたら、ほら」私はこれ見よがしに脚を振ってみせる。「ここに傷があったわ」
クロウタドリは、あらら、といって私の脚の裂傷に視線を向ける。意識は逸らせたので、この作戦は奏功したと言えよう。
「結構いっちゃってるね。絆創膏でも探してこようか?」
「あ、それくらいの傷なら大丈夫だと思うよ」
クロウタドリの背後から、いつの間にか現れたジャコウジカがそう言った。クロウタドリの手助けのおかげか彼女もしっかりと裸になっていた。と、そこで私はつい彼女の身体のある一部分で目を止めてしまう。何と言うか──立派だな。
「大丈夫って、どういうことだい?」
「ここ、色んなフレンズの間で、傷の治りが良くなるって有名なんだ。あたしも前、腕に引っ掻き傷を付けちゃったことがあるんだけど、ここに浸かってからたったの一日で治ったから、効き目は保証するよ!」
彼女はそう言って、親指を立てて見せた。そんな効能があったのか。それは、尚更温泉への期待が高まるというものだ。
それじゃ、先に行ってるね、と彼女は私たちに言い残し、機嫌良くスキップで入口へと向かっていった。その時に景気良く揺れるものを見て、私まで何か恥ずかしくなってしまう。と、そこで横に立っていたクロウタドリが、馴れ馴れしく私の肩へと手を置いた。
「ちょっと、何」
「僕たち二人で組もうか」
「はぁ? 何を」
「俎板同盟をよ」
私は何も言わずに彼女の背中を強かに打ち叩いた。無駄に広い脱衣所に、小気味良い音とクロウタドリの悶絶の声が響く。
***
「痛っ」
「あれっ、クロウタドリちゃんも背中怪我しちゃってたの?」
「うん……ついさっきね……」
隣で身体を洗っていた二人から、そんな会話が聞こえてくる。
本来の洗い場は屋内の浴場にあるのだが、配管の劣化やボイラーの故障によりシャワーは使えなかったため、私たちは風呂椅子と桶だけを拝借して露天で身体を洗っていた。本来の温泉の入り方を知らない以上仕方がないことなのだが、ジャコウジカが既に浴槽に浸かっていたので、彼女を呼び戻して先に身体を洗うように説明をし、そして今に至る。
「この四角いやつ、一体何なのか全然分かんなかったんだけど、こうやって使うものなんだね~」ジャコウジカはフェイスタオルを泡立てる際に用いた石鹸を持ち上げてそう言う。「それに、匂い水みたいにいい匂いもする!」
「石鹸って言うんだよ。身体に付いた汚れを落として、更にいい匂いまで付けてくれるんだ」クロウタドリが説明する。
「石鹸かぁ。そう言えばこの匂い、なんだか懐かしい感じがする……」
「石鹸ならパークの至る所にあるからね。意識はしなくとも、一度は何処かで嗅いだことがあるんじゃないかな」
二人が仲睦まじく談笑しているうちに洗体を終わらせた私は、身が凍えないうちに身体を温めようと、背後にある温泉の方へと向かった。浴槽は複数あり、檜で囲われたものから、火山岩を用いて作られたものに至るまで様々であった。湯に浸してしまわないようにフェイスタオルを浴槽の縁に置くと、脚をゆっくりと湯の中に入れる。そのまま肩まで浸かり、背中を背後の岩に凭せ掛ける。
手足の先から身体の芯へと、じんわりと温かさが伝わってきた。温度は高めだったが、外気温が低いので、尚更身体に染み渡るようだ。ジャコウジカが傷に効くと話していたが、なるほど泉質は硫黄泉で、全体的に薄っすらと緑がかった色をしていた。ほんのりと硫化水素の香りがして、それが源泉に入っているという気分を高めてくれる。浴槽の脇には立て看板が設置されており、もともとはそこに効能などが書かれていたのだろうが、長年の風化で字が掠れて読めなくなってしまっていた。私は目を浴槽の外へと向ける。露天風呂は施設の周囲と同じく竹垣で覆われていたが、その上からキョウシュウ地方の高峰である中央火山の山頂が望めた。火口付近にはダイスを積み上げたようなサンドスターの結晶が鎮座しており、その輝きはまるで万年雪のように山腹に至るまで続いている。そう言えばこの大結晶、異変以前は見かけなかった気がするのだが、異変をきっかけに形成されたものなのだろうか。
「横、失礼するよ」
いつの間にか身体を洗い終えたのか、クロウタドリがそう言って私の隣に腰掛ける。それに続いてジャコウジカも湯に身体を浸からせた。
「うう~、いつも入ってる温泉なのに、毛皮を脱いで入ると全然違う感じがするよ~!」彼女は大きく伸びをしてそう言った。「今度皆にも教えてあげよっと」
それから暫くの間、沈黙が続いた。私は目を閉じて、湯の温かみに感覚を研ぎ澄ませる。いつもは居心地の悪い無言の時間も、こうして極上の慰楽の中にいると、自分を悩ませることも無いようだった。
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