The fragrance embalmed in my memory ③

 ログハウスを後にした私たちは、ジャコウジカの案内に従って山道へと入って行った。彼女によると今日中の山越えは厳しいが、日が落ちる前には山の中腹付近にあるという温泉に到着するとのことだった。屋内で眠れる上に、温泉に入れるというのなら言うことは何も無いだろう。そう思った私たちは、そこを今夜の宿泊地にすることにした。

「温泉まで案内してもらえるなんて、申し訳ないわね」

「これはアオサギちゃんが匂い水の整頓方法を教えてくれたお礼だよ。あれはとっても助かったからね~」前を歩くジャコウジカは、再び持ち出してきた篭を軽く掲げて語を継ぐ。「それに、高山に生えてる花も集めたかったし」

 暫く歩くと、針葉樹林がすっぱりと終わり、灌木や草本が優勢になり始めた。恐らく森林限界を超えたのだろう。標高が上がったうえ、背の高い木々が無くなってしまったこともあり、山から吹き下ろされる強風が激しく体の前面にぶつかってくる。私は一つ身震いをすると、外していた外套の第一ボタンを留める。

 ジャコウジカの話によると、温泉施設は南北に連なる山の中でも比較的低い所に位置しているとのことだった。この時期なら雪もほとんど積もってないと思うよ、と彼女が言い加えたのを聞いて、私は安心する。サバンナエリアで既に音を上げていた私が、雪中行軍に耐えられるわけが無かったからだ。左前方に目を向けると、峻哨たる鋭鋒が中腹から山頂にかけて雪を抱えて聳え立っていた。あちらで無くて良かったと、私は改めてそう思う。

 間も無くして、草本の数が減り、ごつごつとした岩石が目立ち始めた。それに従って急峻な場所も増えてはきたのだが、元々ここが異変前に整備されていた登山道トレイルということもあり、登りにくい場所には径の太い登山ロープが渡してあるのが幸いだった。あともうすぐで山頂に辿り着く、というところで、私たちは最後の難所とも言えるべき、巨岩が迫り出している狭隘な崖の上の道に直面する。定間隔で設置された金具にロープが通してはあったが、恐らくこれは手で掴むものではなく、本来はカラビナなどを通して転落を防止するために使われていたものだろう。

「ここはちょっと狭いんだけど、アオサギちゃんは大丈夫?」崖の前で立ち尽くしていた私を気遣って、ジャコウジカがそう声を掛けてくれる。

「少し、不安かも」虚栄を張っても仕方がないので、私は正直に言った。「先に行ってくれるかしら」

「それじゃ、僕があおちゃんの後ろに付いていくよ。何かあったら僕が何とかするから」クロウタドリのその提案に、私は頷いた。それが最善だろう。


 いとも簡単に崖の上を進んでいくジャコウジカに続いて、私はロープを掴みつつ、一歩ずつ慎重に進んでいく。

「いいかいあおちゃん、恐くなるから下は見ちゃ駄目だよ」

「分かってるわよ」

 後ろから掛けられた声に、むしろ恐怖心を煽られる。強く吹き付けた風を受けて、私は汗で湿った手の平でロープを握りしめた。よせばいいのに、半ば無意識的に下を確認してしまう。道幅は1メートルと無く、その先は奈落だ。転落した時のことを想像してしまって、気が遠くなる感覚がした。

 半分ほど進んだところで、私は緊張に耐え切れず一度立ち止まった。風は絶え間なく吹き続けていて、それが滲んだ汗を気化させることで体温を奪っていく。私は背後を振り向いた。程近くにはクロウタドリがいて、私の視線に気が付き、彼女は優しい微笑を浮かべる。翼を持っている彼女が崖の上を渡る必要は無いのだが、私を安心させるためか、わざわざ自らの身を同じ状況に置いてくれていた。私は一度目を閉じると、呼吸と鼓動を整える。――大丈夫だ、行ける。少し落ち着いた私はゆっくりと目を開き、次の一歩を踏み出そうとした。


「あっ、待ってッ!」


 その時前方から飛んできたジャコウジカの険とした声に、私は反射的に顔を上げた――と同時に、視界がぐらつく。のだと気付いた時には既に遅く、私の体躯はぐらりと崖側に揺らいだ。咄嗟に体勢を整えようとしたのだが、一度外へと向いた重心が戻ることは無く、そのまま急崖の方へと上半身が落ちていく。


 流れる景色がやけに遅く見えた。噂には聞いたことがあったが、死に瀕した時には本当に視界がスローモーション映像のようになるのだな、と何故か冷静に、そう思った。走馬灯は流れないが、何も起こらなかった人生だ、それも当然のことだろう。眼前の巨岩越しに、澄んだ青空が見えた。死の縁に居るというのに、ひどく長閑だった。

 そう言えば、あのアーケードで暮らしていたころから漠然とした希死念慮を抱えていた私だったが、それが今日叶うということだろうか。それならば、それでもいいか。そう考えた私は、落ちるに身を任せた。


 刹那、身が翻って、目の前には急崖と先程までいた針葉樹林が広がった。――途端に、血の気が引く。先程までの甘美な死への誘惑は一瞬にして消え去り、私の脳が現実へと引き戻されるのが分かった。迫りくる荒々しい山肌。あそこに今から自分の身体が打ち付けられるのだ。その痛みは如何ほどだろうか? 本当に後悔は何もないのか? 死んだ後は、どうなってしまうのか? そんな無数の疑問が瞬時に頭を埋め尽くす。恐かった。ただ純粋に、原始的な恐怖が体を支配していた。


 嫌だ、――


 結果から言えば、私は助かった。

 自由落下を始める直前で、衝撃と共に私の身体は空中で静止した。暫しの間思考が止まっていた私だったが、はっと我に返ると、首を捩って背後を見る。そこには、私の右腕を片手で把持したままこちらを見下ろすクロウタドリの姿があった。よく見ると、私を掴んでいるその手は、アーケードの大穴の前で見たのと同じ様に、僅かに発光していた。

「きゃあっ」

 背後から唐突に響いたジャコウジカの叫び声に私たちは一斉にそちらを振り向いた。今度は一体なんだ。

「どうしたっ」

「じ、地面が凄く揺れてるのよ」

「また崖が崩れるかもしれない、ジャコウちゃんは早く渡りきるんだ。あおちゃんは僕が引き受けるから」クロウタドリは早口でそう言い切ると、驚くほどの膂力で私を上に引き揚げ、山肌から離れて空へと羽搏いた。揺れはどんどんと増幅しているらしく、周囲の山岳地帯全体から大きな地鳴りが鳴り響く。空中にいる私たちのほぼ真下では小規模ではあるが地滑りが発生していた。一分ほど続いただろうか、やがて揺れは収まり、辺りには再び静寂が戻ってきた。



***



「大丈夫?! 怪我とか無いっ?!」

 崖の先に降ろされるや否や、ジャコウジカに抱きつかれ、体のあちこちを検められる。普段は苦手とするボディタッチも、今は私の心を安心させてくれる。私はされるがままに、その場に立ち尽くしていた。

「大丈夫よ、ありがとう」

「……それなら、良かったぁ……アオサギちゃんが落ちそうになった時、あたし、どうしていいか分からなくて」ジャコウジカは今にも泣きそうな表情で私のことを見つめる。「もっと早く足元の亀裂に気が付いていれば……」

「いや、私の不注意が原因だから、気にしないで」

「でも……」

「そうだよ。君が責任を感じる必要は無い。そしてあおちゃんもね」背後の崖際で地滑りの様子を観察していたらしいクロウタドリがそう言って、こちらへ歩み寄ってくる。「二人とも無事で良かったよ」

「クロウタドリ」私は彼女の名を呼んだ。「その……助けてくれて、ありがとう」

 私の言葉に対して、彼女は、当然のことをしたに過ぎないよ、と応えた。そうして、彼女は視線をジャコウジカの方へと移す。

「ところで、ジャコウちゃん。君がさっき体験した地震についてだけど」

「ジシン? ──ああ、さっきの地面の揺れのこと?」

「そう。どんな揺れだったか教えてくれないかな?」

「えっとね」彼女はその大きく黒い瞳を上へと泳がせつつ、自身の体験を振り返る。「地面の揺れはこれまでも何回か感じたことはあったんだけど、さっきのはなんかちょっと違ったな。表現しづらいんだけど──なんか、下からめちゃくちゃ強く、ドーン! って来た感じ?」

 地震なんて大抵が”下からドーン”じゃ無いのだろうか? ただそう突っ込むのもなんだか野暮ったい気がして、私はちょっとだけ首を傾げるにとどまった。対するクロウタドリは数度軽く頷いて、分かった、ありがとう、と彼女に礼を述べた。

「今ので何か分かったの」私は彼女の横でそう小声で訊ねた。

「ま、ある程度はね」

 彼女はそれ以上明言はしなかった。私はまた少し顔を顰める。

 彼女は、私の身に起こる不可思議な現象についての推論を述べ立てることで、私に危険が及ぶ可能性があるのだと話した。それならば、私を窮地に陥れる可能性があるものは自然法則ではなく、人語を解する存在ということになるだろう。それは即ち、今のパークにおいてはアニマルガールに限られる。

 私は周囲を見渡した。そこにあるのは切り立った山肌とその隙間から生える高山植物のみで、誰の影も見当たらない。まさかね、と私は心の中で呟く。そもそも――過去の記憶は自分の中に断片的にしか残っていないので断言は出来ないが――誰かから恨みを買うようなことをした覚えは一切無かった。クロウタドリの言葉を信じるとするなら、私にも少なからず二人の友人がいたことになるが、内向的な性格である自分はそれ以上に交友関係を広げようとはしなかったはずだ。であれば、他人に関わる機会というのは限られてくるのであって、誰かに嫌な思いをさせるということも殆ど起こり得ないのではないか。いや――しかし、アニマルガールと言えどヒトと同じく学生である時分は多感な時期なのだから、何もしなくても何らかの理由で恨まれる、疎まれるということもあり得るのか。

 いけない、こんなことを考えても堂々巡りになるだけだ。私は軽くかぶりを振ってもやもやとした思いを振り切ると、近くにいた彼女たちに呼び掛けた。

「取り敢えず、早く温泉まで向かいましょう」



***



 相も変わらずごつごつとした岩々が立ち並ぶ隘路を登っていた私たちだったが、幸いなことにもう先程の様な断崖が現れることは無かった。岩の間隙からその隙間を抉じ開けるようにして生えてきたハイマツが所々で登山道を塞いでおり、それらを何とか掻き分けて、時には岩の上を迂回して、私たちは上へと登って行った。

「あ、ちょっと待って」

 そう言ってジャコウジカが私たちを呼び止める。彼女は道端にしゃがみ込むと、そこに生えていた淡い紅色の花を幾つか摘み取った。彼女は花弁に鼻を近づけて軽くそれを嗅いでから、持っていた篭の中に入れた。

「コマクサね」私はいつか図鑑の中で目にしたその花の名前を口にした。代表的な高山植物で、過酷な環境での生育に耐えられるようにその小さな見た目とは裏腹に長大な地下茎を有しているという。高山地帯において競合する花が殆ど無く、その美しい見た目も相俟って「高山植物の女王」の名を恣にしている正に高嶺の花である。

「これ、コマクサって言うんだ。じゃあ、これは?」ジャコウジカは近くで這うようにして生えているハイマツを指差した。

「それはハイマツ」

「じゃあじゃあ、あっちは?」彼女は少し下った斜面に咲く白い花の群れを指した。

「あれは……合っているか分からないけど、多分ワタスゲじゃないかしら」

 おおー、と彼女は感嘆の声を洩らす。そうして、きらきらと輝く純粋な両の瞳をこちらに向けられたので、私は軽く目を逸らした。

「すごいすごい! アオサギちゃんって何でも知ってるんだね!」

「いや、何でもって訳じゃないけど」

「それでも、凄いよ。いいなぁ、あたしもアオサギちゃんみたいに全部の花の名前が分かるようになったらいいのになあ」

 依然として羨望の眼差しを向けられている私は、むず痒さに身を捩りたい思いがしていた。別に、自分は本で得た知識をただ口にしているだけに過ぎない。彼女のように何かを新たに生み出すことは、自分には出来ないのだ。それを自覚している私にとっては、彼女の賞賛も空しく響くだけだった。

「だったら、ジャコウちゃんが新しく名前を付けたらいいんじゃないの」彼女の持つ篭の中を覗き込みながらクロウタドリがそう言った。彼女のその言葉に、ジャコウジカはきょとんとした顔を浮かべた。

「あたしが名前を?」

「そう。自分なりの名前を、見つけた花や草に付けてしまえばいいんだよ」

「でも……でも、全部の花には既に名前が付いているんじゃないの? あたしが勝手に名前を付けたら、可哀想だよ」

 彼女の言葉を受けて、クロウタドリは優しく首を横に振って見せた。

「初めから名前が付いている物なんて存在しないんだよ。あおちゃんが言った名前だって、元を辿ればヒト──このパークを作った動物があらゆる物を峻別しやすいように自由に付けたものに過ぎないんだ。だから君も自由に名付けてしまえばいい」それに、と彼女は付け加えて言う。「そうした方が、このパークの未来の為になるだろうしね」

 パークの未来の為になるだなんて、やけに大仰なことを言うな、と私は思った。まぁ、彼女の抽象的で大袈裟な物言いは今に始まったことでは無いので、私は軽く流す。


 それから少しの間ジャコウジカの高山植物採集に付き合ったのち、私たちは登山を再開した。間も無くして、山の中腹辺りに形成されたなだらかな台地状の地形の上に、荒涼とした景色には不釣り合いな数寄屋造り風の建物が姿を現した。恐らくあれがジャコウジカの言う温泉なのだろう。これからの季節はここもかなりの積雪に見舞われるのだろうが、この造りで雪の重みに耐えられるのだろうか、と素朴な疑問が頭に浮かぶ。

 施設を建てる際に整地を行ったためか建物の周囲に起伏は少なく、また大きな火山性の岩なども取り除かれて代わりに小さめの礫が一面に敷かれていた。ざくざく、とそれらを踏み締めながら門へと向かい、私たちは敷地内へと入っていった。

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