The fragrance embalmed in my memory ②
間も無くして、開けた場所に出た。鬱蒼とした針葉樹林がその周辺だけ円形にくり抜かれていて、その中央には高床式のログハウスがあった。ヒトがパークから撤退した後もラッキービーストが各アトラクションのメンテナンスをしているのだが、ここでも彼らによる殊勝な
また、ログハウスの周辺には数か所ずつ纏まって何らかの建材の山が散在していた。初めからこのように置かれていたというよりは、元々何らかの建物が立っていて、それが風化により倒壊したといった風である。ジャコウジカの先導に従ってログハウスに向かって歩いていく途中にその一つを通りかかったのだが、建材の山の麓に小さな銘板が設置されているのに気付いた。屈んで見てみると、風化により大半の文が掠れていたものの、そのタイトルは辛うじて読むことが出来た。
《シベリア地域における伝統住居③――ヤランガ》
なるほど、タイガの中に設置された施設ということで、学習目的なのか何なのか、パークにより伝統住居のレプリカのようなものがこの広場に設置されていたらしい。私は立ち上がって改めて目の前の展示物の成れの果てを見下ろした。柱や梁として使われていたらしい木材が重なり、かなり厚手の壁材らしきものがそれらを覆い、広場を吹き荒ぶ寒風に靡いていた。この異変前の残骸も――私と一緒で時間の波に乗れず、ここに取り残されたのだ。命は無いが、なんだか寄り添って同情してやりたい気持ちにさせられる。
あおちゃーん、といつの間にかログハウスの前に辿り着いていたクロウタドリに呼びかけられ、私は我に返る。私はその場を後にすると、彼女たちが待つ方へと小走りで駆けて行った。
ジャコウジカが入口の大きな木製ドアを引き開け、中へと入っていく。私たちも彼女に続いて敷居を跨いだ。
玄関からは一直線に廊下が続いており、見上げると三階までの吹き抜けとなっていた。天井には剝き出しの梁が渡してあり、壁材もしっかりと木目が揃えられている。建築には詳しくないのだが、何か由緒正しきログハウスと言えるような気がした。
あたしの住んでる所に案内するよ、と言って彼女が上がり框へと靴のまま足をどんと乗せたので、私はぎょっとする。いや、まあ、本来の洋風建築から言えば土足が正しいのだが――上がり框があるならば、きっとここは靴を脱いで入る施設だったのだろう。実際、横には大き目の靴箱が設えられていて、上段には取っ散らかってはいるがスリッパが大量に置いてあった。
私はジャコウジカが左側にある一室に曲がったところを見計らって履いていたブーツを脱ぐと、上がり框に沿って並べ、スリッパに履き替えた。クロウタドリも私に続いてスリッパに履き替える。ジャコウジカは土足のままだが、新世代には履物や服の概念は存在しないので、仕方のないことだろう。ぺたぺた、と音を鳴らしながら私たちは彼女が入っていった部屋の方へと向かう。
その部屋は、所謂リビングルームだった。アンティーク調の低い円卓が四脚あり、それぞれに数脚のソファチェアが配置されている。それ以外の調度品も暖色で揃えられており、全体として心地の良い統一感を感じた。ドアの対角にある二面の壁はガラスウォールとなっており、長年の風雨で汚れてはいたが、広場と針葉樹林を見渡すことが出来た。
ドアのすぐ傍には様々なパンフレットが置かれたラックがあり、私は手近なものを手に取ってみた。その表紙には今いるログハウスの写真が掲載されており、飾り文字で《キョウシュウ地方 タイガエリアビジターセンターへようこそ》と題されている。周囲に野外展示物があったことからも何らかのアトラクションだとは思っていたが、ビジターセンターだったのか。そのパンフレットを閉じて元の場所に戻すと、私はその他のものも片っ端から手に取ってみる。
《キョウシュウ地方版:パーク周遊バス時刻表》
《パーク内における環境保全・アニマルガールの福利厚生に関する取り組み》
《ジャパリパーク アーリー・チケットのご案内》
《~パークからのお願い~【新しく生まれたアニマルガールの保護にご協力下さい】》
《【重要】パーク内警戒レベルや噴火警戒レベルが引き上げられた際のお客様の対応方法について》
《サンカイ地方 巨大複合ショッピングモール『オデッセイ』・全面開業》
《ジャパリパーク:総合ガイドマップ》
おお、最後のこれは役に立ちそうだ。そう思った私は、ガイドマップを数冊引き抜いた。野外に置かれていたガイドマップの大半は何処かに吹き飛んでしまっているので、こういう屋内で保存状態が良いものが手に入るのはありがたい。外套のポケットに使わない分を入れておこうと思ったが、縦に長いので納まりきらない。仕方ない、クロウタドリの提げているバッグに入れてもらおうか。そう思って私は彼女の方に振り向いた。
「えっ、これ全部、ジャコウちゃんが作ったの?」
その時、クロウタドリが驚きの声を上げた。なんだ、と思って見ると、彼女たちは部屋の一角に並んでいたガラスケースの前に立っていた。ケースの中には何やら小さな壜のようなものが沢山並んでいるのがこちらから見て取れた。
どうしたの、と言って私は彼女たちの方へと歩いていく。ケースの前ではジャコウジカから手渡されたのか、クロウタドリが小壜を摘まんで矯めつ眇めつしていた。
「あおちゃん、これ凄いよ」彼女はそう言って持っていたそれを私に手渡してくる。受け取って見てみると、壜の中には淡い緑に色付いた液体が入っていた。口はコルクでしっかりと塞がれている。
「これは?」
「まあ、蓋を取って嗅いでみてよ」
ジャコウジカにそう勧められたので、私はコルクを外して、恐る恐る鼻を口に近づけてみた。その瞬間、ふわりと清涼感のある香りが鼻に抜けた。これは――ペパーミントの香りだ。私の驚いた顔を見て、ジャコウジカは自慢げに胸を張る。
「ふふん、いい匂いでしょ!」
「ええ――この香水、あなたが自分で作ったの?」
「そうだよ。”コウスイ”とも言うの? あたしは”匂い水”って呼んでたんだけど」
匂い水。まあ、香水も”香る水”なのだから似たようなものだろう。私はガラスケースの方へと目を転じる。そこそこ奥行きのある棚だったが、三段の内の約半分が小壜で埋め尽くされていた。そして、どういう訳か各壜の前には草や実が配置されている。気になった私は、彼女に聞いてみた。
「ああ、これ? これは、どれがどの匂いなのか分からなくならないように置いているのよ」そう言って彼女は、前列に置いてあった萎れた木苺の一つを摘まみ上げた。「ま、こんな風に時間が経つと悪くなっちゃうのが残念だけどね」
「ラベルを貼れば整理しやすいんじゃないかしら」
「ラベル?」
「えっと……」
私は室内を見回してみる。反対側の壁際にかつてのインフォメーション・カウンターがあるのを見つけて、私はそちらのほうに歩いていった。スイングドアを開けて中へと入り、カウンターの内側に設えてある段を探してみると、思った通り、商品に貼付して使われていたであろうパークのロゴ入りのテープと、メモ帳、そして鋏を見つけた。
私は鋏を使ってメモ帳の一頁を小さく長方形に切り取って、卓上にあった鉛筆を手に取る。『ペパーミント』と記そうとして、止めた。新世代の彼女は文字が読めないだろうから、絵でも書いておこうか。拙いがミントの絵を描き終えた私は、それを持っていた小壜にあてがい、両端を短く切ったテープで留めてやる。完成したものを不思議そうにこちらを眺めていたジャコウジカのもとへと持っていった。
「ほら、これでどう」
「えっ、何これっ、どうやったの? 教えてよっ」
そう言われて、私はカウンターの方へと彼女を連れて行き、手順を説明した。彼女は興味深そうに私の説明に相槌を打つ。飲み込みが早いのか、実践に移してから間も無く、彼女はケースの最前列に並んでいた全ての小壜にラベルを貼り終えてしまった。
「おおーっ、大分すっきりしたよ! ありがとね、アオサギちゃん!」
ジャコウジカは私に屈託の無い笑顔を向けた。その純粋な瞳を直視することが出来なくて、私は目を逸らしてしまう。そうだった、新世代を避けていた理由の一つに、この純粋さがあるのだった。
それから彼女は、私たちを隣室へと招き入れた。その部屋はダイニングルームで、部屋の中にある大きめのテーブルの上には様々な草本類や果実などが満載されていた。ジャコウジカは、忘れ物があったからちょっと待ってて、と言い残して一度リビングルームへと戻っていく。残された私は、部屋の中を一通り見回した。
部屋の壁は様々なポスターやペナントが埋め尽くしており、壁沿いの棚の上には雰囲気作りのためか様々なクラフトワークが並んでいた。部屋の一角には営業時に提供されていた食事のメニュー表が掲示されており、そのレパートリーは軽食から定食に至るまで多岐に渡っていた。宿泊客用のメニューも用意されており、往時にはここがゲストハウスとしても用いられていたことが窺える。
戻ってきたジャコウジカは、私たちに席を勧めた上で、テーブルの上に載っていた草本類を無理矢理押しやる形で持ってきた篭と空の小壜が入ったケースを卓上にどんと置いた。篭は、ここへやって来る途中で彼女が抱えていたものと同じだった。
「そう言えば、その篭の中身は何なの」気になった私は彼女に訊ねる。
「ああ、これはね、今日摘んできたばかりの材料よ」
彼女はそう言って、篭を傾けて中身を私たちに見せた。篭の中には、見るも鮮やかな野草や花、様々な実が入っていた。
「これを使って、あなた達にぴったりの匂い水を作ってあげる!」
「えっ、いいの?」彼女の言葉にクロウタドリが目を輝かせた。
「いいのいいの、二人の旅を邪魔しちゃったお詫びだからさ」
ジャコウジカはケースの中から小壜を取り出しつつ、そう答える。彼女は卓上に載っていたその他の草本類の半分をごっそりと持ち上げて別のテーブルへと移すと、空いた場所に窓際で乾燥させていたらしい計量カップやらすり鉢やらを並べた。揃えられた道具を見るに、全て厨房から調達したものらしい。それから篭の中に入っていた野草類を全て取り出すと、自信ありげに腰に手を当てた。
「さ、好きなやつを選んでよ。いい匂いのやつを選んで取ってきたからさ」
私は卓上に並んだ香水の材料をざっと見渡した。私が分かる範囲で言えば、山茶花や蝋梅、
「これって全部、この辺りで採れたものなの?」
「いや、全部暫く歩いたところにある別の森の中で取ってきたんだ。この森は良い香りの草が少ないからね」ジャコウジカはそう言って、南の方角を指で指してみせた。ここに至る道すがら、枯れた草本と地衣類しか見かけなかったことを考えれば、タイガ地域では香水の材料となるような薫り高い花は見られないということだろうか。
決めあぐねていた私を尻目に、クロウタドリは片っ端から匂いを嗅ぎ、あっという間に自分の香水の材料を決めていく。
「これって、複数の匂いを混ぜてもいいの?」
「勿論! 私がちゃんと量を調節して混ぜるから心配しなくていいよ」
「それじゃ、これとこれ、それとこれがいいかな」
了解、と軽やかに応答したジャコウジカは、クロウタドリの選んだ香料を拾い上げ、その手の平に載せると、軽く握りしめたのち鼻に近づけた。彼女は目を閉じて、まるで祈りを捧げるかのような姿勢で数十秒間匂いを嗅ぎ続ける。目を開けた彼女は種類毎に花を選り分けると、それぞれを別々にすり鉢の中に入れ、慣れた手つきですりこぎ棒を用いて軽く
「グレープシードオイル……?」
「あ、これ? これね、普通の水よりとろとろしてて使いやすいんだ。お肌に塗っても痒くならないしね」
水というか、油だ。ということは、彼女が作っているものは香水というよりは香油に近いものだということだろうか。香油は直接肌に塗布して使うものなので、グレープシードオイルなら確かに問題は無いだろう。
彼女は箸に伝わせながら慎重に小壜の中にオイルを注いでゆく。三分の一程注いだ後、ボウルに分けておいた各香料を、彼女は大胆にも目分量で小壜の中に入れていった。小壜の中では、粘性の高い油の中にゆっくりと花弁の小片が沈殿してゆくのが見える。香料を入れ終わると口にコルクを締め、彼女は軽く小壜を振った。真剣な眼差しで香料とオイルが渾然となった液体を暫し眺めた上で、それを颯爽とクロウタドリの前に差し出した。
「はい、一丁あがりっ! 匂いが出るのに暫くかかるから、一晩寝かせてから使ってね」ジャコウジカはそう言って、小壜を受け取ったクロウタドリにサムズアップして見せた。そして、次は私の番だと言わんばかりにこちらの方へと振り向く。
私は改めて卓上に並んだ花々を見つめた。優柔不断な自分は、昔からこういう状況に弱い。別にもともと香水を切望していた訳では無いのだからどれを選んだところで構わないのだが、同時に「折角だから自分にとって良いものを」という浅ましい考えが浮かんできて、私の選択決定を阻害するのだ。
正直、こう言うのも何だが、どれもぱっとしなかった。強いて言うなら香りがそれほど強くない蝋梅を選ぼうと思ったが、それ故に香油にしたところで香りが出ない気がして、二の足を踏んでいた。いっそのこと、いつも通り遠慮してしまおうか。そう思ってジャコウジカに声を掛けようとした時、私の視界の端に、見覚えのある鮮やかな橙色が見えた。
それは、数々の花々の中にひっそりと埋もれていた。花弁が小さいので今の今までその存在に気が付かなかったのだが――秋を代表するこの芳しい花を、私が好きなこの匂いを、忘れるはずが無かった。
「ジャコウジカ。そこの篭の中を見せてくれない?」
「え、どうして?」
「多分、私が香水にして欲しい花がそこにあると思うから」
彼女は首を傾げつつ私に篭を手渡した。受け取ったそれの中を、私は覗き込む。
やっぱりだ。思った通りに、その花は篭の底に溜まっていた。篭の色も暖色だから、きっとそれが故にジャコウジカは見落としてしまったのだろう。私は手で小さなそれらを搔き集めると、彼女の方に差し出す。
「これで、香水を作ってくれないかしら」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます