The fragrance embalmed in my memory ①

 森に足を踏み入れてから、もう大分経った。

 水辺エリアに入る前に通り抜けた森林とは植生が大きく異なっており、ここは樅を始めとした常緑針葉樹の純林となっていた。これは所謂、タイガという場所だろうか。女学園時代に受けた地理の授業で取り上げられていた覚えがある。記憶が正しければ日本には分布していない植生のはずだが――これもサンドスターの賜物、という訳か。

 森林の中には、広めの散策路が整備されていた。図書館周辺の森ほどではないが、道は落葉で覆われている。直線的に整備された道の先に見えるのは、壁のように連なる急峻な山脈。既に積雪があるのかそれは中腹辺りから白く染まっており、頂上付近は雲の中に溶け込んでいた。二人分の枯葉を踏み締める音は、いつの間にか空を覆い始めた薄雲と、道の両脇に連なる背の高い針葉樹の木々に吸い込まれていく。私たち以外には誰も歩いていなかった。道中、唯一見かけたのは、道端に放棄されたオリーブドラブ色の四駆車二台だけだ。パークのロゴは無く、前後に2桁と4桁で区切られた特殊なナンバープレートが付けられていた。どちらも風化が激しく、フロントガラスは破砕され、タイヤの接地面は偏平足の様になっていた。後方の車両の後部に掛かっていた幌が破かれていたのでその中を覗いてみたのだが、もぬけの殻だった。


「ちょっと休もうか」

 クロウタドリがそう言ったのは、道端に設けられた簡易的なバスの待合所が見えてきた時だった。二脚の木製の長椅子がルーフの中で地面に直置きされており、腐食で脚がどれも黒ずんでいた。その所為か座ると安定感が無くぐらぐらとするのだが、他に座るものがあるわけでもないので、仕方なく我慢する。

 私は背後にあった背凭れに身を預けて上を見上げた。濁ったルーフ越しに木陰が揺れるのが見える。それからふと右横に視線を向けて、クロウタドリが座らずにルーフを支える柱に寄り掛かりつつ外を見ていることに気が付いた。

「座らなくていいの」

 私がそう声を掛けると、彼女は顔だけをこちらに向けて応えた。「大丈夫。ちょっとやることがあるからね」

「やることって何よ」

「監視さ。ここは見通しが良すぎる――何時、何処からセルリアンが出てこないとも限らないだろう」彼女はそう言うと、再び視線を散策路の方へと戻した。なるほど、確かに直線的で道幅も広いここなら確かにそういった脅威から見つかりやすい。けれど、少し警戒しすぎなのではないかと、私はそう思った。現に、ここに来るまで一匹として見かけていなかった。

「別に大丈夫だと思うけど」

 私の言葉にはクロウタドリは反応せず、通りの方から目を離そうとしなかった。そうですか、無視ですか。まあ、彼女がセルリアンを含めた脅威に目を光らせてくれているというなら、体力温存の為に少し眠らせてもらおうか。そう思って目を閉じて顔を伏せたのだが、間も無くして彼女から呼び掛けられて私は再び顔を上げた。

「なに」

「つかぬことを聞くけれど」彼女は依然散策路から目を離さず、私に問う。「異変後にどれくらいセルリアンを目撃したか覚えているかい」

 相変わらず意図の分からない質問だった。ただ、これに関しては悩む必要が無かったので、私は大して間を開けずに答えを返す。

「どのくらいも何も、ゼロよ。異変の時に見かけたあの巨大なセルリアンが最後ね」

 私の返答を聞いた彼女は、道理でね、と言って軽く首を振って見せた。それから背を柱から離して、私へと向き直る。

「なら、君はセルリアンが僕たちアニマルガールにとってどれだけ脅威的な存在なのか知らないというわけだな」

「それは……よく知らないけど」私は素朴な疑問を彼女にぶつけてみる。「そもそも、セルリアンの数ってそんなに多いの?」

「多いよ。異変後は特にね。フレンズがやつらを見掛けずに一生を終えることは不可能に近いと言ってもいい」

「じゃあ、私は運に恵まれていた、ってこと」

「そう考えることも出来るだろうけど」彼女は含みを持たせた言い方をした。「僕は違うと思っている」

 幸運ではないということ。それはつまり、私が20年間セルリアンを見掛けなかったことに、運以外の何らかの理由が絡んでいるということか。

「……もしかして、私が悪夢を見たり、クロツグミのことを思い出せなかったり、翼が消えてしまったり、そういったことと、何か関係があるの」

「……あるか無いかでいえば、多分、あるだろうね」

「なら、それって一体――」

「悪いが、今はそれ以上話せない」クロウタドリは私の言葉を遮ってそう続けた。「まだ分かっていないところも多いんだ。何より、僕が自分の推論を話すことによって

 私を危険に晒す? 彼女の言葉の意味が分からず、私は眉根を寄せた。言霊じゃあるまいし、何かを話しただけで私が危機に陥るということはあり得ないように思えた。

 何か、喉に小骨がつかえたような思いがする。はっきりしないのは苦手な性分だ。長い間自分を苦しめてきたものの正体を知れるのならば、これ以上のことは無いだろう。私は椅子から立ち上がると、改めて彼女と対峙した。

「クロウタドリ、知っているのなら隠さずに教えて」私は峻烈たる視線を彼女に向ける。「もう色々と悩みたくないの」

「分かっているさ」彼女は間を置かずに言葉を返した。

「だからこそ、今は話せないんだ。これ以上君を苦しめない為にも」

 いずれ必ず話すから、今はどうか待ってくれないか、とクロウタドリは懇願する私に諭すようにゆっくりと言った。いずれって――私はそれまで、あの悪夢を見続け、思い出せない記憶に対して鬱々とした思いを抱えていなければならないのか。

「そんなの、待てるわけ――」


 そう言い返そうとした刹那、彼女が素早く人差し指を口許に当てた様を見て、私は言葉を切った。君はここから動かないで、とそう言い残し、彼女はルーフの裏側へと姿を消した。背後を振り返ると、失透したポリカーボネート製の壁の隙間から彼女の足が見えた。周囲を確認しているのか、暫くその場で立ち尽くしたのち、再び散策路側へと引き返してきた。

「どうしたの」

「後ろから物音が聞こえた気がしたんだ。何かが居ると思ったんだけど」気のせいだったかな、と彼女がそう言った時、今度は私にも聞こえる位の声量で、誰かの呼び声が聞こえた。

 声は、私の真正面から発せられたものだった。こちらに正面を向けていたクロウタドリは背後を振り向く。見ると、散策路を挟んだ向こう側に立ち並ぶ針葉樹の太い幹の下に、篭を抱えた一人のアニマルガールが立っていた。彼女は大きく手を振っていて、それは明らかに私たちに向けられたものであった。

 そのアニマルガールはまるで横断歩道を渡る直前のように左右をしっかりと確認した後、小走りでこちらへと駆け寄ってくる。駆ける彼女の頭には、特徴的な大きな耳が揺れていた。

「ちょっと、ここは駄目だよっ」

 彼女は開口一番そう言った。駄目? 何が?

 一様に小首を傾げた私たちを見て、彼女は痺れを切らしたように、もうっ、と言い放つと、突如として私の手を掴んだ。

「えっ」

「取り敢えず、早くこっちに来てっ」

 彼女は再び左右を念入りに確認すると、私の手を引いたまま小走りで散策路を横断し始めた。混乱する私は、何とか首だけを後ろに回し、目でクロウタドリに助けを求める。突然のことに彼女も呆気に取られたのかバス停の前に立ち尽くしていたが、やがて一つ溜息を吐くと、私たちを追ってこちらに駆けてきた。



***



 散策路から森の中へと入って数十メートルと進んだ所で、そのアニマルガールはようやく足を止めた。なかなかのスピードで無理やり走らされたため、普段運動などしない私はひどく息を切らしていた。片手を膝につき、両肩で荒く呼吸する。その場にへたり込みたい気分だったが、しかし地面は腐植でじっとりと濡れており、それを見た私はすんでのところで踏み留まった。

「この辺りまで来れば大丈夫かな」

 彼女は一息ついてそう言った。私は全然大丈夫じゃないんだけど、と抗議の言葉をぶつけてやりたい気分だったが、息を切らしているのでそれもままならない。と、そこで私の右隣にクロウタドリが上から降り立った。どうやら木々の中を飛んできたらしい。

「ちょっとちょっと、君、急に何するんだ」

 クロウタドリは私に代わって目の前のアニマルガールに問い詰める。

「何って、あなたたちが危ない所にいたから助けてあげたんですけど?」彼女は腰に両手を当て、これ見よがしに頬を膨らませて見せた。

「危ない所?」

「そう。知らなかったの?」彼女はそう言って怪訝な目でこちらを見た。私たち二人を交互に見比べたのち、ああ、そっか、と何かに合点がいったかのように頷いて見せた。

「──あなたたち、この辺りに住んでいる子じゃないのね。確かに見かけない顔だわ」

 ようやく息が整った私は、改めて彼女に目を向けた。肩まで掛かる褐色のロングボブの頂部にはロバに似た大きめの耳が付いている。両のこめかみ辺りからは綺麗な銀髪が長めに垂れており、まるで牙のように見えた。その下は焦茶のセーラー服に少し色が淡いプリーツスカートという出立ちで、首元から腰まで入った数本の白いストライプが特徴的だった。

「あたしはシベリアジャコウジカ。さっきは急に走らせちゃってごめんね」

 彼女は私に手を差し出しつつそう言った。私は彼女の手を握る。その時、ふんわりと甘い石鹸の様な匂いが香った気がした。

 ジャコウジカか――麝香じゃこうとは、確かムスクのことを言うはずだ。香水など付けたことが無かった私はムスクがどんな香りなのかよく知らないが、ジャコウジカである彼女から香った今の匂いがそれなのかもしれない。

「シカなのに角が無いんだ?」横からクロウタドリが率直な疑問を口にした。

「角が無いシカの子も結構いるよ。この近くに住んでるキバノロちゃんとか、ジャングルに住んでるマメジカちゃんとか。その代わり、動物の頃には大きな牙があったんだけどね」

 でも、フレンズになった時に無くなっちゃったみたい、と彼女は残念そうに話した。恐らく、私が牙みたいだと思った彼女の銀髪の部分がその形質を再現したものなのだろう。

 彼女は脇に掻い込んでいた篭を両手で持ち直すと、「そう言えば」と思い出したように私たちに問いかけた。

「あなたたち、どうしてここに来たの? 何か特別な目的でもなければ、から外へは出ないはずよね?」

 縄張り、か。あの地下室を私の縄張りと言うのは些か滑稽なように思えたが、まあ、実際生活の本拠としていたのでそのような表現もあながち間違っていないのかもしれない。

「僕たち、旅をしているんだ」クロウタドリが応えた。

「旅? 旅って、渡りをする子たちが良くやるあれ?」

「渡りをしない子でもやろうと思えば出来るんだよ、やりたいように自由にね」

「ふぅん、そうなのね。それで、旅の目的は?」

「それは、死──」

 私はそこで慌てて彼女の口を塞いだ。彼女が与えた誤解の尻拭いをするのはもう勘弁して欲しい。

「シ?」ジャコウジカは小首を傾げる。

「シ──試験解放区、にいる友達に会いに行くのよ」私は咄嗟にそれらしい理由を捏っち上げた。

「シケンカイホウク?」

 しまった──新世代のアニマルガールが試験解放区を知っている訳が無かった。まぁ、『死に場所探し』という悍ましい目的を告げるよりは幾分かマシだったろう。

「……まぁ、取り敢えず、この地方の外にいる友達に会いに行くってことね」

「あ、そういうことね」

 何とか誤魔化し切れた私は軽く溜息を吐く。ふと横を見ると、口を塞がれたままのクロウタドリがじっとりと私を睨め付けていた。いやいや、悪いのは私じゃないんだけど。

「じゃあ、もしかしてあんまり時間に余裕は無い感じなのかな?」

「そうね、今日中に山越えを──」

「いや、時間なら気にしなくていいよ」

 私の手を撥ね退けたクロウタドリが、そう言って割り込んできた。また余計なことを──。

 彼女の言葉を聞いたジャコウジカは表情を明るくし、じゃあ、と持っていた篭を再び持ち直して、私たちに言った。「折角だし、私の巣まで着いてこない? お詫びに渡したいものがあるの!」

 もちろん、と快諾したのはクロウタドリだ。私はそれを聞いて渋面を作る。この調子では今日中に山の向こう側に行くことは難しそうだな、と心の中でそう独り言つ。


 それから暫く、ジャコウジカの案内に続いて森の中の散策路を歩いた。長い間整備されていなかったせいで足許が悪い。私は何度かバランスを崩しかけたが、ジャコウジカはいとも簡単に前へと歩き続けていた。

「そう言えばさ、さっきあの通りが危険だって話してたけど」クロウタドリが前を歩く彼女に問い掛ける。「あれはどういうことなの?」

「ああ、あれはね、セルリアンに関することなんだけど」彼女は振り返らずに答える。

「この辺りの森、起伏がそこそこあって、しかも木が多いでしょ。木にも登れるし、そういった面でセルリアンから身を隠しやすいの。でもそれに対してあの道では、広い上に真っ直ぐで身を隠す場所が殆ど無いから、色々なフレンズが前から何度もセルリアンに襲われているのよ。だから、この辺りに住んでる子たちの間では、あそこは危険な場所って事で有名なわけ」

 私は似たような理由でクロウタドリが警戒していたことを思い出した。なるほど、元はバス等の輸送車両が通過する為に整備された道が、今はアニマルガールらにとっての脅威となっているのか。

「だからさ、あなたたちも大分危なかったのよ? 今日がたまたまセルリアンが全然いない日だったから良かったけど」

 セルリアンが全然いない日。私は頭の中でクロウタドリとの先程の会話を思い返す。異変後のパークにおいては、セルリアンに遭遇せずに生きることは不可能に近いのだという。それなのに、私は異変以来一匹として見掛けていない。

 ──私自身に、セルリアンを寄せ付けない何らかの理由があるというのか? それとも、私以外のことに起因するものなのか。

 私は横を歩くクロウタドリを見た。彼女はあの夜に突如として私の前に現れ、記憶に無い幼馴染を覚えていないかと訊ねたのだ。そして、彼女によれば私がセルリアンと遭遇していないことは、記憶を無くしていることに関連付いているらしい。それならば、彼女の推論を聞くことは記憶を取り戻すための一助となると言えるだろう。それなのに、彼女はそれをしない。彼女の意思と行為は、一見して矛盾撞着しているのだ。

 クロウタドリはこちらをちらとも見ずに前へと歩き続けている。水辺エリアでのジャイアントの言葉と言い、私の中には、彼女に対する不信感が募っていた。

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