The ember of the life ②
部屋へと戻った私は、カウンターの上に置いておいた数冊の新書を手に取り、防寒の為に着古した黒の外套を羽織りつつ再び外へ繰り出した。階段を上りきったのち先程とは逆の方向へ暫く歩いていくと、かつての公営図書館へと辿り着く。異変後にこのアーケードに身を寄せた私は、専らこの図書館を利用していた。本島の方にある中央図書館と比べれば当然劣るが、それでもこの島においてはトップクラスの蔵書数を誇っていたため、この数十年に渡る無聊を慰めるには十分であった。
もはや用を為さなくなった入館ゲートを乗り越え、入り口脇に倒された案内掲示板を横目に、私は目的の書棚へと歩を進める。道中、不意に誰かの声が耳に入り、心臓が跳ね上がった──心霊といった類のものに恐怖したわけでは無く、逃げ場の無い図書館の中で実体のある先客に出交わしはしないかと思ったからだ。ゆっくりと辺りを見渡し、最終的に砕け散った嵌め殺しの窓の外の遠くの方で亜熱帯性の草原に戯れている少女達を見出した私は、早鐘を打つ胸を文字通り撫で下ろした。今の私にとって、他者と会うこと以上に苦しいことはない。会話までは良い。しかしながら、別れた後に耐え難い焦燥感や劣等感、罪悪感が長く纏わりついてくることを私は知っている。当然のこと孤独感はあるが、このような負の奔流が私の心を打ちのめすことと比べれば、別に耐えられぬものでもなかった。
私は再び前へと歩を進める。エントランスから中央の開架書庫・閲覧室を繋ぐ連絡通路は特に風化が激しい。深い朱色のラグはマーブル状に変色し、その縁から壁を伝って種々雑多な黴があたかも壮麗な壁画のように爛れた石膏の壁を彩り、濃密な廃墟臭を漂わせていた。往時は利用者の憩いの場であったはずの中庭は鬱蒼とした混交林へと姿を変え、伸ばし放題の枝葉が通路の中へと入り込み、窓際に配置されていた様々なアメニティを押し倒している。また、破砕された硝子の破片が通路全体に散乱しており、それが自然光を受けてちらちらと光を反射させていた。開架書庫の入り口まで来て、私は改めてこの光景を振り返る。等間隔で設置された窓からは、先程より西に傾きつつある太陽から注がれる光が帯状に差しており、その一定のパターンは最奥の光の無いエントランスの手前まで続いていた。そこで私は、この通路に立ち現れた光と影の組み合わせから、葬列に掲げられる鯨幕を思い浮かべた。思い浮かべてみて、ほんの僅か、心が安らいだ。
この図書館の特徴として、開架書庫の書棚は壁際を除き全て環状に配置されているということが挙げられる。円の中心には図書の貸出・レファレンスカウンターが配置されており、そこから放射状に伸びる通路の先にある閲覧室から容易にアクセスが可能であるという利点があった。私は先ず円の中心へと向かい、『本の貸し出し』というプラ製のサインが下がったカウンターの脇に設置されている卓上カレンダーを操作して、今日の日付に合わせた。別に頼まれているわけではないが、これをやることで私の心の平穏が保たれる。この変わり果てた世界においては日付という概念が欠けており、自分にはそれが耐えられなかった。生きた日数を具体的な数でカウントする。そのことで、変わり映えのしない日々の苦痛が──気休め程度に過ぎないが──和らぐ気がした。
私は踵を返すと、書棚の脇に掲示された分類番号を頼りに通路を歩いていく。本の背の下方に貼り付けられた番号と照らし合わせて目当ての棚を見つけた私は、当該の書棚の最も右下に空いていたスペースに借りていた新書を押し込んだ。これで一つ、ルーティンが終わる。
さて、次の本を借りようかと通路を挟んで右隣の書棚の左上に並んでいた本の背文字に目を向けた時に、おや、と私は思った。
その本には見覚えがあった。仔細な内容は流石に覚えていないが、少なくとも依然に一度借りたことは記憶している。もしかして、と思いさらに隣の本に目を転じると、思った通りこちらも見覚えがあるものだった。
つまり、一周して来たのだ。環状に書棚を配置しているこの図書館を利用するに当たって、私は取り敢えず自分の興味があるか否かに関わらず、片っ端から本を読むということをしていた。数十年前にここを初めて訪れた際にどの書棚から読書を始めたかはすっかり忘れていたが、恐らく今目前にしているこの書棚が起点だったのだろう。
開架の図書を全て読み切ったことに流石の私も達成感と充実感を覚えたが、その感覚を噛み締めたのも束の間、一抹の不安が私の頭の中を過った。
――これから、どうしようか。
再びこの書棚から2週目を始めるという手もある。しかしながら、記憶が薄れているとは言えすでに読了したものを何千冊もまた読み進めるというのは辛い作業になってしまいそうだ。では閉架書庫はどうか。しかし、以前カウンターの中へと入って確かめた際には閉架書庫へと続く扉は鍵が掛かっており、また保安上の理由のためか、鍵自体もすべて持ち出されていた。おまけに、閉架書庫から本を出納する自動化システムも電気が不通であるため使えない。したがって、この図書館において未知の本と出逢う術は既に失われていると言える。アーケード内には一応書店があるが、数十年前の漏電火災時に作動したスプリンクラーで全ての本が駄目になっていた。
私は改めてレファレンス・カウンターに向かい、卓上カレンダーの横に置いてある埃被った図書館のパンフレットを手に取った。パンフレットの最終ページには周辺で利用可能な他の図書館が簡易な地図と共に列挙されていた。記載されている図書館は3つで、そのうち2つはここからかなり遠い管理センター内に入居する公営図書館であり、そして残る1つは森林エリアの中に位置している園立の中央図書館であった。後者に関しては少し歩くもののここから程近く、日帰りで行けそうな距離である。私はカウンターに寄り掛かり、少し考える。
森林エリアではアーケードと異なり、他人──厳密には”人”ではないが──と出交わす可能性が格段に高くなる。しかし、長年続けていたルーティンを今ここで崩すことの方が、何か酷く恐ろしいことのように感じられた。
私はパンフレットを閉じると、エントランスの方へと歩き出した。
一度、行ってみればいい。
それで駄目だったとしたら、またここへ戻ってきて、一度読んだ本をまた読み直せば良いだけのことなのだから。
エントランスの外に出た私は、森林エリアの方向へと体を向けた。舗装路は途中から蓬々と繁る草本に覆い隠されており、その更に奥には密度の高い大森林が横たわっていた。私は腹を決めると、一歩前へと、踏み出す。
***
アーケードがあるエリアから外へ足を踏み出すのは数年ぶりであった。このエリアもアーケード周辺と同じく気候操作は殆ど行われていないため、気温はさして変わらなかった。但し、植生は落葉広葉樹が大半を占めるため、晩秋の今は極彩色の絨毯が敷かれている。落葉で隠れていたために散策路を探すのに一苦労したが、なんとかそれを見つけ出した私は、図書館方面を示す道中の看板を頼りに森林の中へと入っていった。
他のエリアに入る上で私が抱く懸念は2つあった。1つ目は、自らの命に危険を及ぼす捕食者――野生動物やセルリアンの存在だ。死ぬのは別に構わないが、出来れば苦しみに悶えながら死ぬことは避けたい。ただ一方で、後者に関しては異変以来一度も見掛けていないため、個人的にはそれほどの懸念事項とはなっていない。
そして何より2つ目は――他のアニマルガールの存在である。これは私が最も苦手とする存在であった。私がわざわざあの地下の部屋で隠遁的な生活を送っているのも、彼女達との接触を避ける為である。これから向かう図書館でもアニマルガールが司書をやっているという話を以前に小耳に挟んだことがあるが、出来れば彼女たちがその場に居ないことを願うばかりだ。
看板や地図を頼りに暫く進むと、開けた場所に出た。殆ど木が無いためか、日光がよく当たる影響で小高い丘一面には草本が繁茂している。春から夏にかけては花も咲き、さぞかし美しい場所となるのだろうが、今は大半が枯死し、そこには冬枯れの草原が広がっていた。そしてその丘の頂上に当たる場所に、その図書館は位置していた。
辺りを一通り眺めまわした私は、図書館に向かって歩き出す。壁の一部が老朽化のためか崩落しており、その内装を覗かせていた。内部には数多くの書棚があるようで、それらがすべて
丘の頂上に着いたのち、図書館の壁にそって周囲を少し歩いてみると、入口と思しき木製のドアを発見した。音を立てぬようにゆっくりとドアを押し、空いた隙間から中を恐る恐る覗いてみる。
誰もいない。
良かった、と胸を撫で下ろしたその刹那、背後から不意にかけられた声に私は背筋が凍った。
「お前、そこで何をしているのですか」
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