朱猫
きし あきら
朱猫
叔父の遺品を整理するために、県境を越えた山間の家へとやってきた。
さほど古くはないと聞いているが、主を亡くして半年ほどのあいだに、建物はひどく様相を変えたようだ。
白塗りだったはずの壁は苔と塵とに汚れ、お決まりの蔦が這いまわっている。おまけに、くたびれた屋根瓦の隙間からは幾筋かの、か細い草が伸びはじめていた。
その屋根のした、間取りのうち最も広い六畳間に私はいた。格子戸の外された縁側に向かって座り、家と同様くたびれた庭を眺めていた。
先週訪ねたときには重く閉じていたすすきの穂が、いま午後の黄色な光のなかで柔いふくらみを揺らしている。
ともに来た父とその友人とは、遺された家財を古物商まで運ぶために外出している。私は、そのあいだの留守番というわけだ。
風が吹く。
かつての私に怪しい恐怖を叩きこんだこの場所にも、このように穏やかな時間が流れるのだと、大げさでない感動を覚えた。
首を右に回し、室内に目を向ける。
埃としみとで役をしなくなった畳の表面が、それでも空気に触れること自体、何十年ぶりなのだろう。
私の叔父は――父の弟にあたる人だが――親族のなかでも目立っておかしな人だった。酒癖が悪いわけでも、女癖が悪いわけでもない。ただ並外れて、趣味だけが悪かった。
もとからそうだったのだと父は言った。若い時分から家族も持たず、酒にも女にも使わない金を、すべて悪魔的、驚異的な蒐集品につぎ込んできたのだと。
結果、ひとり隠れ棲むように買い入れた平屋が叔父にとっての宝物庫となり、終生の場となった。
たった二人の兄弟であるためか、父は幼い私を連れ、幾たびか独り者の隠れ家に足を運んだ。
叔父は私たちの来訪を心から喜び、歓迎し、特に幼年であった私に対しては、惜しげもなく自慢の蒐集品を開示してくれた。
それが私にとってどういう意味を持つのか、あるいは考える余裕などなかったのかもしれない。叔父を毛嫌いしていた母の目を盗んでの外泊に浮かれたのは、本当の最初だけだった。
名前を教え込むと三日目に夢に出るという道化師人形。
人魚の肉を食って不老不死になったという女の仮死片。
匂いを嗅ぐだけでゆるやかに狂っていくという煮香水など。
叔父が薄笑いを浮かべながら握らせてくれたのは、どれも胡散臭い、嘘ばかりの品々だった。
なにも起こらないというのではない。いっそ起こらないほうが、どれだけよかったか。
道化師人形は三日と待たず、夢ではなく現に走り出て私を追いかけた。
仮死片はそれ自体魚のように蠢き、自分を食えといわんばかりに茶碗のなかへと飛びこんだ。
煮香水など相当の刺激物で、鼻の前に目が激痛を感じる代物だった。……
このようなことが続き、私は積み上がる蒐集品を、叔父の家を、そして叔父自身を恐れるようになっていった。父は煮香水で私の目が潰れかけたのを機に、旅のみち連れに暇を出した。
それから数十年後。つまり、いまから半年ほど前。
叔父は突然の心臓発作でこの世を去った。とはいえ、それが本当にただの発作だったのか、確かめる術はのこされていない。遺されたのは人世を離れた宝の山だけだ。
叔父が死んですぐに父は、“それら”を引き取ろうと言いだした。
兄が遺した財産ということに違いはないだろうが、私と母とにしてみればとんでもない話だ。
それに父が引き取るとなれば、いずれ私にお鉢が回ってくることは間違いない。魑魅魍魎の世話などまっぴらご免だ。
(もちろんそこまで伝えることはしなかったが)私は反対した。扱いに困りながら物置へ押し込んでおくよりも、こういったものは愛好家や蒐集家やに渡してやるほうが役に立つのだと説得した。母は私の言に即座に賛同し、甲斐あってか、父もほどなくして腹を決めた。
そうなってしまえば早いものだ。
父の知り合いである古物商に相談を持ち掛け、蒐集品の分別をし、運搬の日取りを決めた。そのために山越えの往復も何度かあったが、慣れてしまえば日常のよい気分転換になった。
第一、幸いなことに、このあいだ私たちに何らかの怪異が降りかかることはなかったのだ。
蒐集された身とはいえ、これらにも喪に服すという概念があるのだろうか。ただ、急速に朽ちていく家ばかりが恐ろしかった。
私はこんど首を左に回して、いまだ部屋の三分の一を塞いでいる蒐集品を見た。
その山の手前にひとつだけ、むき出しにされた鼠の置物がある。手の平に乗るほどの大きさで、叔父の集めたもののなかでは一番趣味がよい石彫だと思われる。
陰鬱かつ、野卑な雰囲気を纏うものが多いなかで、これは唯一安寧を知る体の彫り物だった。
厚みのある耳と前歯、まろやかな線で描かれる四肢はふっくらとして白艶の雲南石に刻まれている。揃いの台座と、ご丁寧に米俵までがあり、いかにも福々しく好ましい。
実はこの鼠の石彫は、昔に一度だけ見たことがあった。その時にも、いまと似たような(あるいは幼心にもっと直感的な)好意を覚えた記憶がある。
その後どこへしまわれたのか知れず、累積した苦い思い出とともに忘れさっていた。
それがいま、少しの欠けもない姿で目の前にある。父にはすべてを売り払うように迫った私だが、これだけは形見として引き取ってもいいような気がしていた。
これを見つめれば、いつどんなときでも、穏やかな気持ちで叔父をしのぶことが出来る。
不穏の影がよぎったのは、置物から何気なく視線を動かしたときだった。
蒐集品の群れのうちに、見覚えのない朱色が映ったのだ。仕分けのときに見たならば忘れるはずのない、ある種の強烈な朱だ。
反射的に、幼いころ怪奇物にされた様々な酷が蘇った。そしてそれは意外にも、恐怖より憤然とした感情を呼び起こした。
この期に及んで用向きとはなんのつもりか。結構。日のしたで正体を明かしてやろうという思いが、むらむらと湧きあがった。こういう不遜なもののために、幼い私は不要な害をこうむったのだ。
私は一時と待たずに立ちあがり、その影へと近づいた。視界の端で鼠の白が眩しかった。
全体がはっきりする位置までいくと、それが古い朱色の紙包みであるということが分かった。
何字かが書かれた何枚かの札が、封印の代わりに貼りつけられている。包みの大きさは片腕で十分抱けるほどだろう。
それを両手で無造作に持ちあげると、なるべく考えずに元いた場所まで戻った。腰を落ちつけ、札を破かないよう包みを端から注意深く剥ぐと、劣化した糊は乾いた音を立て、すぐに離れた。
果たして、あらわれたのはくすんだ朱茶色をした猫の木彫だった。
朱茶色といっても、それは塗られているふうでなく、内側から滲みでてくるような粘つく色で、奇妙なまだら模様を浮かべている。
目には玻璃玉と思しきものがはめられているが、もともとそうなのか、粗悪な材質が経年に耐えなかったのか、すっかり白濁して瞳孔の見分けもつかない。
口はわずかに開かれ、べっとりと塗り込められた黒が見えた。言うまでもなく、不気味さを通り越した顔つきだ。
日のもとにすべてがさらされたとき、なにを感じたものか、木彫の猫は唐突に体を震わせ鳴きはじめた。
オアオアオア。オアオアオア。
思わず声をあげて放りだすと、それはごとりと縁側まで転がり、拍子に無数の黒いものを撒き散らした。
オアオアオア。オアオアオア。
濁った、いやらしい声に家中が軋む。口の隙間から垂れる得体の知れない滴りも、とめどなく板張りを汚した。
腰を引きつつ、子細を目で追わずにはいられない。のたうちまわる、それは長い虫に似ているが、崩れた墨字にも見えた。
……呪詛蟲だ。
叔父に教え込まれた数々の不要な知識のなかに、まったく同じ形態の蟲がいた。記憶違いでなければ、これは人間の邪念を煮詰めたものだ。
呪術師がある方法でもって、置物などの“器”に
床でもがく蟲から、かろうじて読みとれるのは“苦”だの“縛”だのといった文字だ。察するに、長年封じられてきた怨みを吐いているのだろう。
考えに気をとられ、六畳間から動けずにいた私をめがけ、鋭く一字が跳ねた。
瞬間に見えたのは“爪”だ。
必死で身をよじり、襲撃を避けたまではよかった。……しかし、なんということだろう。“爪”は白鼠が座す台にぶちあたり、米俵もろとも後方へと吹き飛ばしてしまったのだ。畳はえぐれ、黒の塵と、三筋の傷を残している。
あの衝撃では石彫といえど、ひとたまりもないだろう。私は怒りに震える体を起こし、先の朱い包み紙を拾いあげた。
呪詛蟲の本体はまだ木彫のなかにいるはずだ。手札は古い封印だが、直接叩きつけてやれば、それなりの効果が得られるに違いない。
……しかし、私が手を下すよりも早くことは起こった。
吹き飛ばされた鼠の石彫が野生のごとき素早さで畳を駆けり、木彫の喉元に食らいついたのだ。
私はふたたび凍りついた。太い前歯は刃となり、バタかチーズでも破るように簡単に敵の木肌へとめり込んでいく。
十秒と経たないうちに、猫はゲッゲッと水様の墨を吐きだしたかと思うと、玻璃の目玉にひびを入れて、散らばる呪詛虫とともに静かになった。
それを見届けてのち、こんどは文字通り気の抜けた鼠が、腹を見せてその場へと落ちた。
傾きかける日のなか、まろやかで穏やかな表情が、ただ、歪んだ天井を見上げていた。
(了)
朱猫 きし あきら @hypast
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