第3章
01 黒い火
それは伝承に言う、
人の欲望につけ込んで破滅に追い込む悪魔は、忌まわしき獄界の存在とされる。
もっとも、これが伝承の悪魔そのものだとは思えなかった。シュナードとて悪魔などという生き物――化け物のことを見たことはないが、話に聞くところでは、それらには角があり、翼は
いや、外見の差異だけではない。
だが彼の目前にいる鴉のような黒い羽根を持つ魔物は、獣人同様、知性の低い生き物であるように見えた。
野生の獣のようなうなり声を上げ、それは倒した獲物――ライノン――に向かおうとしているが、大きすぎる翼のせいで素早く入ってこられずにいる。
(好機だ)
シュナードは剣を低くかまえ、大声を上げて突進した。
「うおおおおおっ」
今度の個体は人間の剣を知らないか、或いは立ち向かってくる敵がいるなどとは思いもしなかったのか、拍子抜けするほどあっさりと刃を受け入れた。
(獣人よりも人間っぽくて、気分が悪いな)
街道に出るときは覚悟も決めるのだが、町のなかで剣を振るってこのような感触を覚えると、まるで魔物ではなく人間を刺したような不快な錯覚に陥る。
だが魔物は通常、人間や野生の獣よりもずっと生命力が強い。戦士の剣に刺し貫かれても、魔物はうなり声を上げる程度で、倒れる気配を見せなかった。
「くそっ」
こうなっては刃を刺したままではどうしようもない。シュナードは思い切りそれを引き抜いた。黒い液体がびちびちと飛び散る。
「げっ」
魔物の血だろうか。シュナードの知る魔物は赤い血をしていたが――これはどうやら違うらしい。
「一筋縄じゃ行かないって訳か?」
すっと背筋に冷たいものが流れる。街道に出たばかりの新米戦士のように、浮かぶ不安。
(痛みを感じないってこともないだろうが)
(急所じゃないにしても刺し貫かれて平然としてるなんざ化け物か)
(……化け物だな)
確認するまでもなかった、とシュナードは再び剣をかまえた。
(勝てるか)
判らない。
これは獣人のような見覚えのある魔物と違う。
力の強さも
「シュナード! 柄をしっかり握れ!」
彼の心に嫌な不安がうず巻きはじめたとき、少年の声がした。
「おっ?」
問い返すことは避けた。戦闘中に味方の指示や要請があれば、従うか無視するか瞬時に決めるしかない。どうしてそうした方がいいと思うんだ、などと尋ねている余裕などないからだ。
「おうっ」
そこでシュナードは瞬時に決めた。
愛用している、一般的な剣よりも少しだけ長いそれをしっかりかまえ直し、柄を両手で握った。
すると。
「うおっ!?」
驚きの声が出たのは仕方ないことと言えるだろう。だがそれでも剣を手放さなかったのは歴戦の戦士ならではだったろうか。
「こりゃあ……」
一瞬の軽い衝撃とともに、刀身が燃え上がった。いや、普通の炎とは違う。熱は感じず、そして――。
(黒い)
言うなればそれは黒い火だった。
(レイヴァスの魔術か)
考えるまでもないことだろう。
「いまならその剣も効く。やれ、シュナード!」
「任せろ」
口の端を上げて戦士は剣を上段にかまえた。剣を怖れなかった魔物は、しかし黒い火にはおののいたようだった。うなりながら少し退き、入り口から離れた。
だが逃げ去る様子はない。憎々しげにシュナードを睨んでいる。
「こないならこちらから」
遠慮なく、と呟いて彼は力強く床を蹴った。
刀身は、ごくわずかだが重いように感じる。だが大した問題ではなかった。
「行くぜ!」
戦士は思い切って小屋を飛び出すと、黒炎の剣を振り上げた。翼ある魔物は戦士を「敵」と認識したか、咆哮を上げて鉤爪のある右手を伸ばしてくる。
「遅えっ!」
その動きは大して素早くなかった。と言うより、人間が自分を傷つけることを警戒していないようだった。言うなれば、小さな子供が突進してきたところで怖れないように。
それが何を意味するかなどどうでもいい。シュナードには好機だった。
「どりゃああああっ」
気合いと共に、彼は伸ばされた魔物の右腕に黒炎の剣を叩きつけた。剣は、それとも黒い炎は魔物の右腕を切断し、翼にまで火をつけた。
魔物はこの世のものとも思えない悲鳴を上げ、燃える翼でそれでも空に飛び上がった。
(よし)
このまま逃げ去ってくれればいいが、油断は禁物だ。心を決めてシュナードは小屋から大きく距離を取り、魔物の姿を目で追った。
ばさり、と音が聞こえた。
素早く見上げれば、魔物は屋根ほどの高さの位置に滞空し、鴉のような羽根を羽ばたかせていた。
それは奇妙な光景だった。
沈みゆく青い月を背に、片腕の翼人が翼を暗い炎に揺らめかせて宙に浮いている。
(きれいだとは、思わないが)
(詩人の類なら、幻想的とでも言うんかね)
ふっと戦士はそんな益体もないことを思った。
「あんなに飛ばれちゃ剣も届かん」
首を振ってシュナードは魔物を睨んだ。
「もしあんなところから火だの雷だの出されたら」
「滅多なことを言うな。言えば不幸を招くというのを知らないのか」
「おいっ、出てくるんじゃないっ」
レイヴァスが戸口に姿を見せたのに気づき、シュナードは慌てた。
「引っ込んでろっ」
「誰がその小汚い剣に力を付与してやったと思っている」
少年は黒髪をかき上げた。シュナードは反射的に「頼んでない」と返しそうになったが、ぐっとこらえた。
「次だ」
「次って」
何をする気だと問うより早く、レイヴァスが片手を高く差し上げた。
かと思うと、先ほどから明かりに利用している光の球がまるで全力で投げられたかのような速度で魔物に向かっていった。
それが魔物にぶつかった瞬間、ぱぁん、と大きな風船でもはじけるような音がした。
「な、何が起きたっ!?」
彼が叫んだのは、辺りが真昼のように眩しくなったからだ。
(目を閉ざしちゃまずい)
敵対的な魔物を前に視界を閉ざすなど愚の骨頂だ。
だが強すぎる光を凝視して瞳をやられるか、ぎゅっと閉ざした隙に魔物に狙われるか――というような選択はする必要がなかった。
次の瞬間、光は消えた。
それと同時に、魔物も消えた。
辺りには闇と静寂が戻った。
「逃げた……?」
「そうだな」
レイヴァスはうなずいた。
「生憎、あの光じゃ追い払うのが精一杯だ。あの種族の性質からすると」
少年は顔をしかめた。
「仲間を連れて戻ってくるというようなことも有り得る」
「町のちんぴらみたいだな」
先ほど感じた、奇妙な神秘性。あれを思うと、仕返しに仲間を引き連れてやってくるなどという行動がいまひとつ想像できなかった。
「――おっと、そんな話はあとだ。戻ってくるかもしれんと言うなら、急いで」
彼は踵を返すと戸口のレイヴァスを押しのけた。
「何をす……」
「ライノン!」
戦士は青年のことを忘れてはいなかった。血が噴出した先ほどの様子を思えば、非常に危険だ。
場合によっては、既に。
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