第3話 イケニエ
最後の
「お母さん、お腹空いてないかな」
ぽつりと、
ぎしぎしと階段の軋む音に紛れたその声は、しかし鬼のあやなには聞こえている。
「お母さんともはぐれたの、あんた」
苛々しながらあやなは聞いた。小さい滴が階段をゆっくりと降りるので業を煮やしているのだ。
下駄を履いた滴の小さな足を、柱に掛かった灯籠が不安に照らす。
「お母さんはお兄ちゃんと一緒にいるの。滴がいないと、だめだから。早く見つけないと」
「ならもうちょっと速く降りなさいよ」
古い作りで急なそれを、不安定な下駄で降りていくので、踏み外しそうではらはらする。
…いや、違う。別に心配しているわけではなく、その無防備な背中を見ていると蹴りたくなるということだ。
「遅いのよ、あんた。これだからガキはやだわ。足が短いんだから」
「…滴、来るときは階段、なかったけど。帰りはあるんだね」
そのくらいの不思議は起こる。少し目を離せば、ここの廊下は気を変えるのだ。
「大体、」
あやなは前を行く滴に文句を言う。
「お嬢ちゃんあんた、建物に下駄で入り込むんじゃないわよ。それは脱ぐの。…ああほら、帯踏むわよ」
「あやなお姉さんって」
言われた通り下駄を脱いで手にかけ、ほどけかけた帯を結んでもらいながら、滴は言った。
「世話焼き?」
「はぁ!?あんたが降りるのが遅いからでしょ、突き落とすわよクソガキ!」
そう脅してみるもやはり滴の顔色は変わらない。
誉めたのに、と首を傾げ、滴は更に言った。
「あんたでも、クソガキでもなくって、私の名前、滴です」
「人間なんて名前で呼ぶわけないって言ってるでしょ」
そう言いつつも、その名前を聞くと頭の奥で何かが鈍く光る。
すぐに混沌に飲み込まれて消えてしまうけど、でも儚いからこそ大切だったもの。
「…バカみたいだわ」
そんなものはどうでもいい。だって、大切なものなど、この鬼の身にはないのだから。
滴、バカじゃないですよと、勘違いして答えた滴の言葉を、あやなは無視した。
「…お兄ちゃん!」
螺旋階段を降り、やっと一階に辿り着いたとき、瞬間滴は走り出した。
「こら、ちょっと!?」
間一髪、あやなの横をすり抜けようとした滴の帯を掴む。
「お嬢ちゃん、そっちは出口と反対よ。どこに行こうってわけ」
「でも」
あやなに軽々と持ち上げられ、引き戻された滴は、足をばたつかせて言った。
「そこのお部屋に、お兄ちゃんが。いるの、分かるもん」
「は?そこは……」
そこは……、この店の、主人の部屋、で。
「……………………………、…そんな」
「…あやな、お姉さん?」
呆然としたあやなを、滴は不思議そうに見つめる。
「そんな…、じゃあ、あんたは」
滴。
…しずく?
……そうだ、思い出した。
どうして、忘れていたんだろう。
どれほど記憶が薄れても、
どれほど正気を失っても、
それでも忘れてしまわないように――
私たちはこの旅館に、しずくと名付けたはずなのに。
「あやなお姉さん…?」
「………………………お嬢ちゃん」
「だから、お嬢ちゃんじゃなくて、滴で…」
「…出口はそっち。早く帰んなさい」
「え、でも」
滴は座敷の方を見る。
「お兄ちゃんが…」
「…っ、何度も言ってるでしょ、」
あやなは激昂した。
「あんたのお兄さんなんて、ここにはいないのよ!」
そう、いないのだ。
…やっと分かった、この少女が癪に障るわけ。
まだ何も知らないからだ。
その身に起こる悲劇を、未だ知らないから。
彼女の優しい兄なんて、本当にもうここにはいない。ここにいるのは鬼だけだ。
後は崩れ去るだけの、
在りし日の日常を、思い起こさせるから。
「そこのお部屋にいるの、滴のお兄ちゃんじゃない、ですか」
違うんですね、と滴はまた、不気味なほど素直にあやなの言葉に頷いた。
「…そうよ」
あやなは答える。
例えもうすぐ壊れるとしても、この少女が帰るのはあちらでなくてはならない。ましてこの壊れた旅館の主人に会うなんて、あってはならない。
「あんたのお兄さんはね、きっと祭りのどっかであんたのこと探してるわ。ここにはいないの」
「………そっか。じゃ、滴、戻らないと」
あやなは滴から手を放した。
出口を指差す。
開け放したままの引き戸から、遠くにオレンジ色の光が見える。
「祭りの光が見えるでしょ。あれを目指して歩きなさいな。…振り返っちゃダメよ」
「うん」
滴は頷いて、外の闇と光を見やる。
「ありがと、あやなお姉さん」
特に感慨もなさそうに、あっさりとあやなに背を向けて、駆け出した。
少女の姿は、すぐに闇に溶けて消えた。
「…バカらしいわ、…あたし」
あやなはひとり、呟いた。
「すぐ、壊れてしまうのに」
「たとえそうだとしても、大切なものには変わりない」
「………なによ」
背後の声に、あやなは振り返る。
「気づいていたの」
「………」
男の顔は見えない。頭に巻いた布で隠されている。
「何年ぶりかしら。部屋の中で死んだかと思っていたわ」
「…お前こそ、酒に酔っていない姿は久し振りに見たな」
男の姿は
頭には、あやなとよく似た角が一本。
あやなは、滴に会わなくて良かったのかと聞こうとして――やめた。あまりにも意地が悪すぎるだろう。意地が悪いのが鬼だけど、所詮はあたしたちなんて、それにもなりきれない半端者なんだから。
「…礼を言うぞ、あやな」
「あら、何のことよ。それよりほら、酒。切れたのよ、早く用意しないと暴れるわよ」
「それは料理番に言え」
男はそう言うと、再び襖の向こうに消える。
その背中に、あやなは言葉を投げた。
「やっぱりあたしたちには」
別に、聞こえていなくても良いのだけど。
「祭りの光は眩しすぎるのよね、…ミキサカヅキ」
「ああ。俺たちには暗闇が丁度いい」
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