第2話 鬼


少女の目は影を捕らえる。

ゆらゆら揺れる影法師。色のある祭りの影の中、それだけが何故か兄に見えた。

「お兄ちゃんっ!」

少女、滴は走り出す。

影法師は動かない。それなのに永遠に追いつけない。

「待って、」

兄の影はゆらり、と蠢く。

「あっ…」

足がもつれる。下駄がから、と音を立てて脱げ、滴は地に手をついた。

闇色の地面から、滴が顔を上げたときには。

兄の影はどこにもなく、

祭りの影もどこにもない。

背後の祭りの灯りも喧騒も、いつの間にか消えていて、照らすものは半月だけ。

滴は下駄を履き直して、何かに引き寄せられるように、暗い闇に消えていく。




やがて明かりが見えた。

闇の中、ぽつんと光る人工灯。

綺麗に整備された、和風の建造物。

"裏通谷うらづや旅館しずく"。

玄関横の回転看板にそんな文字。

「うら……、りょかん、しずく」

少女は木製の建物を見上げた。

「滴とおんなじ名前。旅館、なんだ」

滴は、なんとなく、その引き戸に手をかけた。




ここに来る度、昔のことを思い出す。

徳利を片手に、あやなは窓の外を見る。

窓の外には闇。遥か遠くに祭りの灯り。

「祭り、ね。今年もやってるんだ、人間は」

この町の良い思い出は、あらかた嫌な思い出に塗り潰されている。特に七夕祭りは、始まって終わった場所だから。

故にあやなは、あの祭りが鬼への献上祭であると知っていても、赴く気にはなれないのだ。

…最も。

彼女の思い出なんて、とっくに壊れていて朧気で、鮮明に思い出せるものなどひとつ位しかないのだが。

注いだ安酒を一気に飲み干す。

「あーあ、なくなっちゃった」

乱暴に徳利を置くと、窓際にしなだれかかる。

桟から顔と腕だけ出して、懐かしそうに灯りを眺めた。

くらい闇は心地良い。

彼女はそういうモノだからだ。

でも、あの灯りは――彼女にとっては、獲物でしかないはずなのに。

霞のような記憶の断片が、告げている。

「ばっかみたい、あいつもあたしも。どう足掻いたって戻れやしないのにさ、すがっちゃって」

灯りを、引き裂く、真似をする。

「喰い散らかしたいよねえ、人間なんて、ぜーんぶさぁ…」

何の躊躇いもなくそうできたらどんなに、

どんなに、

「ああ!やってらんない、来るんじゃなかった。何で毎年来ちゃうかな、あたしは。

……追加、酒のつい…、」

振り返って。

あやなは気づいた。

「……人間?」


人間だった。

花模様の浴衣を来た、栗色の髪の少女。

滴が、障子を少し開けて、覗いている。

「………」

あやなは物珍しそうに人間を見る。ここに人間が来るなど本来あり得ない、のだが。

恐怖からか驚きからか微動だにしない少女に近づき、あやなはすぱんと障子を開けた。

「へえ、この店、人間の踊り食いコースなんてあったんだ?でも頼んでないし、正直趣味じゃないんだよね」

少女は、あやなの顔を見上げる。

長い黒髪、はだけた浴衣。額に生える、鋭い両角。

明らかに、人間ではない。

だが滴は怯えるでもなく、場に合わないようなことを言い出した。

「お姉さん、私のお兄ちゃん、知りませんか」

「…は?」

あやなは怪訝けげんに聞き返した。

人間とは、鬼を見れば怖がって腰を抜かすものではなかったか?

「お兄ちゃん、知りませんか」

怖がらないのも当然だった。滴はよく分からないものは怖くもないし嫌いでもなかった。

少女は、闇が怖かったわけでも、一人が不安だったわけでもないのだ。ただ、

ただ最愛の兄を一人にするのが、怖かっただけで。

「…肝の座ったお嬢ちゃんねぇ、あんた。あたしの頭のこれは見えてんのよね?」

あやなは自身の額の、赤く細い二本の角を指差した。

「見えてます。お姉さん、鬼さんでしょ」

滴はどうということもなく答える。

「そうよ?あんたら人間を、頭から食べるのが大好きな鬼。あんたのことも食べてしまう、かもよ?」

「食べられるのは困ります。滴、お兄ちゃんに会わないと」

滴にとって。

怖いものというのは、もっと別のものだった。

平然とした滴の態度に、あやなは舌打ちをする。

「つまんないわね、あんた。更に気分が悪くなったわ。…ほら、さっさと逃げなさいよ。あんたのお兄さんなんて知んないわよ」

「…食べないの?」

少女は無邪気に首を傾げる。

「趣味じゃないっつってんでしょ。それとも食べて欲しいの?」

「食べられるのは困ります。でもお姉さんさっき、人間なんて全部食べてやりたいって言ってた」

「うるっさいわね、盗み聞きなんて趣味の悪いガキだわ。……あのね、あたしはお嬢ちゃんみたいのは興味ないの。いー顔した男を苦しめて食べるのが楽しみなの!」

「いい顔…お兄ちゃんみたいな?」

「知らないわよそんなの、とりあえずさっさと失せなさい!本当に食らうわよ!」

激昂するあやなに対し、滴はどこまでも冷静に返す。

「お姉さん、どうして滴みたいな子は食べられないの?」

その言葉は、何故か消えかけた記憶に突き刺さった。

「食べられないなんて、…言ってないでしょ」

「違うの?」

少女の深い藍色の瞳が、何か……ひどく、懐かしい色に見えた気がした。

「…どうでもいいでしょそんなこと」

少女は変わらず無表情だ。あやなは、自分よりもこの少女の方が、得体の知れない何かのように思えてきた。

「うん、どうでもいい。今、大事なのはお兄ちゃん。知らない、ですか?」

「だーから知らないっての!」

「…でも」

少女は初めて、その顔に表情らしきものを映した。

「こっちに行ったの、お兄ちゃん。きっとこの旅館の中にいるんです」

少女はあやなには本当に興味がないらしく、躊躇いなくふいっと背を向けて廊下に出ていく。

「探さないと。おかあさんが、目を醒ましちゃう…」

「……………」

あやなはこの数十年で初めて、言い様のない感情に襲われた。

この少女は恐れを感じてない。

きっと兄とやらを探して、この旅館の中をさ迷うだろう。

しかし閑古鳥が鳴いてるとはいえ、この旅館の客は自分のような、いや自分よりも容赦のない化け物ばかりだ。

…いや、何を考えてるんだ。

別にこのちんまいガキがどうなろうと知ったことではない。

知ったことではないが、………そう、例えば、客ではなくここのオーナーに見つかったりしたら、それは―――。

それは。

それは最悪の再演refrainだ。

「…っ、待ちなさいよお嬢ちゃん!」

少女を追って廊下に飛び出す。

幸い、少女の後ろ姿はまだ廊下の端にあった。

少女は振り向く。

「何ですか、お姉さん」

「……ついでよ、ついで。もう酒がないから注文しに行くの。ついでに出口まで送ってってやるって言ってんのよ」

少女は首を傾ける。

「私、帰るんじゃありません。お兄ちゃんを…」

探さないと。

少女は幾度目か、うわごとのように繰り返す。

「…いないわよ」

あやなはそう言ってやった。

「あんたのお兄さんって人間でしょ。人間はここにはいないの。人間のいるとこじゃないの。分かったら早く帰んなさい」

「…………」

少女は未だ首を傾げ、何か言いたそうにしていたが、やがて頷いた。

「分かりました。私の、勘違い。お兄ちゃん、いないんですね」

何だかまるでロボットのような娘だ。

子どもらしくない口調も相まって、薄気味悪い……人間らしくない。

ますます食欲をそそらないわね、とあやなは小さく呟いた。

「…私、滴です。お姉さんの名前、何ですか」

少女……滴はあやなを真っ直ぐ見て尋ねる。

「人間に名乗るなんて馬鹿げたことしないわよ」

そう言い捨ててやると、滴は平然と言い返す。

「人間に協力するの、馬鹿げたことじゃないですか?」

「………………」

本当にムカつくガキだ。人間の少女ってこんなだっただろうか?

「…あやな、よ。ここを出たらすぐ忘れることね」

「あやなお姉さん。覚えました」

忘れろと言ったのに覚えました、とは。

ただでさえ混沌とする頭が、さらに苛つきで茫洋とする。

「人の名前、忘れるのはだめです。お兄ちゃんから教わりました」

その言葉がまた刺さる。

忘れるのはだめ。大切なことは、忘れるのはだめ。

……分かっているわよ。分かっていたのよそんなことは…!

必死で怒りを抑える。

少女の首を引きちぎりたい衝動を鎮める。

この少女はやたら勘に障る。

だけどこの少女を殺したら、それこそ何かが、また終わるのだとも分かっていた。

「……人じゃないわ、あたしは」

そう言うのが精一杯だった。

「人じゃなくてもです」

滴は初めて、うっすらと微笑った。

鬼を前にして笑うなど正気ではない。

ただ、ようやくあやなは理解した。

この滴という娘は、自分のような化け物をなめているのではなくて。

滴にとっては、人じゃないということは、嫌う理由にはならないのだろうと。


きっと鬼にありがちな気まぐれという理由で、あやなは闇夜に舞う花びらのような、小さな背中を追いかけた。

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