第八章
第八章
「まったく、あの二人、絶対僕たちを馬鹿にしている。僕が歩けないからと言って、絶対見下しているんだ。もう、悔しい!たまらん!」
蘭はもし車いすでなかったら、地団太を踏んで悔しがった。
「蘭さん、怒らないで。あたしは、野村先生の意見ももっともだと思う。きっと、そういうことなのよ。水穂さんが頑としていうことを聞かない理由。」
由紀子は蘭をなだめたつもりだったが、それは蘭には通じなかった。
「だから、そういうことでしょ。蘭さん、歴史を塗り替えることは、どんな手を使っても、蘭さんにはできないでしょ?そうでしょう?」
「あのさ、由紀子さん。ちょっと協力してもらえないかな。僕はなんとかしてあいつに生きててもらいたいんだ。人間、誰でも生きようという意志さえあれば生きられるのではないかと思うからな。」
蘭は、「秘密の計画」を打ち明けることにした。こういう役目をしてもらうには、同じ女性のほうがうまくやってくれるのではないか、と、この時の蘭はそう思っていた。もし、男性であれば、この計画はうまくいかないと思う。
「協力って何よ、、、。」
「いいか、まずこういうことだ。確かに僕たちは歴史を変えるということはできないが、事情を変えるということは可能なはずだ。それはどうやって変えるかっていうと、この世には、人種とか、民族とか、壁になってしまうものはなんぼでもある。でも、それを超える手段は一つだけある!」
蘭は、長々しく何かを語り始めた。その顔は、なんだか非常に切羽詰まった顔で、由紀子は目が離せなかった。
「君は、今でも岳南鉄道で働いているの?都内の私鉄に移るとかそういう気はないの?」
「ないわ。どうせほかの地域に仲のいい女友達がいるわけでもないし、都内に恋人がいるわけでもないしね。」
由紀子が答えると、蘭はなるほどという顔をする。
「それならお願いだ。岳南鉄道の沿線には、いろんなコミュニティセンターがあるのは知っている?」
「ええ、知ってるわ。そこでフラワーアレンジメントとか、水墨画とか、いろんな講座がおこなわれているみたい。ときには、けん玉百回とか、そういう風変りな講座も行われているって聞いたことがある。もちろん、電車が近くに走っていれば、そこから歩いていく人が多いんだと思うの。」
確かに、それはその通りだった。そういう目的で練習に来る人は数多く、その行き来のために、電車を使う人は多い。
「じゃあ、その中で音楽サークルとかを利用している人も少なからずいるよね?」
「そうね。合唱なんかやっている人もいるわ。もちろん私は、音楽の知識はまるでないけど、
ときになんだか、難しい名前の作曲家の話を聞かされることもあったわよ。」
「そうだろう。その主催者というか、指揮者とか、ピアニストという人たちは、大体音楽学校出ている人であるはずだから。」
蘭はそう切り出した。まあ確かにそれはそうだ。中はそうではない人も多少いるが。
「そして、この地域は音楽って非常に偏見の強い学問だから、音楽を生業にできるのは、女だけの特権であるはずなんだ。男が、という例はほとんどない。その中の女たちには、桐朋の出身者もいるかもしれないだろ。」
蘭さんは何を言っているの?由紀子は不安になった。
「蘭さん、私にどうしろっていうのよ。理論を持ち出されても、何をしたらいいか、私、わからないわ。」
「ああ、ごめん。とにかくな、君は電車に乗っている人達のうわさ話を聞きだして、桐朋音楽大学出身者をできるだけ多く探し出してくれ。それもできるだけ美女のほうがいい。そのほうがいい。」
「何を言ってるのよ!それで何をされるの?」
「あとは僕が何とかするから、由紀子さんはそれだけしてくれればいいよ。」
悪い予感がした。蘭さんはなにを考えているのだろう?
「一体どうしたの?蘭さん。何を考えているの?何をするつもりなのか、私まったくわからないわ。蘭さんは何をしたいの?そういう女の人集めてハーレムでも作るつもり?」
「違う違う!そういう目的じゃないよ。とにかく、理論も感情もやつを助け出す手段はどこにもないということが分かったから、それ以上のものを使うんだ。それは何かっていうと、女性の愛情なんだよ。それはきっと、理論を飛び越えて、役に立ってしまう場合もあるからな。文献なんか見ればわかるだろ。例えば、美女と野獣なんかは、野獣の姿から、人間に戻れた最大の要因は女性の愛情だった。それと同じことをやらせるんだ!そういう秘密の計画なんだよ!」
「蘭さん、それはおとぎ話で、現実はそうはいかないと思うわよ。つまり蘭さんが言いたいのは、水穂さんに女の人と付き合ってもらうってことでしょ?でも、蘭さんの年齢を考えてよ。大体の人は、もう結婚して、旦那さんがいて、子供さんがいる人がほとんどよ。下手をすれば、お孫さんがいる人だっているかもしれないわ。そうなったら、不倫関係ということになってしまう。」
「まあ、それはそうだけど、不倫は文化だといった俳優もいる。それにあいつはそうならなきゃ生きようとは思わないよ。」
蘭さんが、そんなことを考え始めるなんて、、、。
人って怒りを覚えると、なんでこんな風に、おかしな方向に変わってしまうんだろうか。そこが由紀子には不憫でたまらなかった。
「蘭さん、変わったのね。」
そこだけ言うのみにしておいた。
「当たり前だい。もうあんなに年寄りたちに馬鹿にされたら、怒りたくなっちゃう。僕が歩ける男だったら、若い奴を馬鹿にするなと言って、殴ってやりたかった。ほんとに、年寄だからと言って、あんなきれいごとは言わないでもらいたいよ。年寄りは、誰のおかげでやっていけるのかそれを考えてもらいたいよ!」
たぶん、傷ついたのだなと、由紀子は思った。でも、傷ついたまま放置しないのが、男の強さでもあり、同時に弱さなのかともおもった。
「だから頼むよ。由紀子さん。合唱の指導者とか、そういう輩の学歴とか職歴をしっかり聞き取ってくれ。それに、ヴロンスキーとあだ名されるまで、美形として知られていたあいつなら、一度や二度はあいつと関係を持ちたいと思った女は、少なくないと思うんだ。それに、広上さんのいう通り、学校を揺るがす大天才と言われたなら、知らない人はいないと思うんだ。」
「それでも、水穂さんは、旧姓は右城さんで、今は磯野さんと結婚して改姓しているんでしょ?もし離婚したら、右城と再び名乗るだろうし、そうしないのは、やっぱり前の奥さんへの思いがあるはずでしょ?」
由紀子は戸籍上のことを言った。基本的に男性が、改姓するのは非常に珍しく、また難しいことでもある。
「いや、そういうことでもないんだよ。あいつの奥さんは、今頃女子刑務所で幸せに暮らしているさ。まあ、この話をすると長くなるから、今はしないけどさ。あいつも知っているんだからな。当の昔に夫婦仲なんておしまいになっている。それにあいつが磯野家に行ったのは、とにかく結納金を利用して、うちへ賠償金を支払うためでもあったから、一般的な結婚のように、愛し合っていた家庭ではないと思うよ。」
「そうなのね、、、。」
そうなると、水穂さんって本当にかわいそうな人だったなと感じ取ったのだった。
「だから、やつはとにかく不幸な人生だったということはわかるだろ?きっと愛情というものはほとんど知らないと思う。それを今から体験してもらって、少しでも長く生きてもらうようにしなければいかん。僕は、まだまだこの時点で逝ってもらいたくないんだからな!」
「蘭さんの理論は私、理解できないけど、この時点で逝ってほしくないのは私も同じ。だから、協力するわ。」
由紀子は、自身にわいてきたつらい思いを抑えようとして、涙をこらえながらそう答えた。
なんだか、大好きな王子様の花嫁の手伝い係りを命じられた、人魚姫の気持ちにそっくりだった。
結局、私の気持ちなんて考えてくれないんだ、蘭さんは。
でも、確かに桐朋出の音楽家の人たちのほうが、より彼をなんとかしてくれる可能性は持っていると理解した。
私は、もし、何かあっても、対策を提供してくれるお金も持っていない。今は、岳南鉄道にいるといっても、JRに比べたら、賃金は非常に低くなったし、一人で暮らすのにも結構きついのだ。それにまた口が増えたら、確実にやっていくことはできないだろうし。
つまり、彼を思う気持ちだけでは現実的にはやっていけないのである。
青柳教授は、自分の身分を日ごろからしっかり考えて行動しろと、いつも言っていたけど、こういうことだなと思う。
でも、なぜこんなに悲しいんだろう?
それがもしかして、蘭さんが水穂さんに見せてやりたいと言っていた、「女の感情」なんだとおもった。
そのころ、製鉄所には客が来ていた。
「そうかあ。お前も大変だな。しっかりしてくれと言っても、これでは無理か。」
来ていたのは広上麟太郎。
「どうしたんですか?広上先生。いきなり入ってきて何をするのかと思いましたよ。」
ブッチャーはそう注意をするが、
「すまんなあ、どうしてもやるせないことがあってさ。こっちまで来ちゃったよ。」
と、肩を落として話す麟太郎。
「何かあったんか?」
杉三が聞くと、
「馬鹿にされちゃったんだよ。アマチュアのオーケストラのメンバーにさ。」
と答えが返ってきた。杉三が、
「そんなバカなこと言うな。指揮者がオーケストラに馬鹿にされてたら、音楽が成り立たないぜ。」
と、高笑いした。
「そうだけど、俺は大事なことを見逃していたのかもしれないな。」
麟太郎はしんみりといった。
「どうしたんですか?広上先生。」
「いやな、こないだの練習の時に、野村先生に箏協奏曲を断られたと話したんだけどな。メンバーさんも納得したとおもったんだ。でもな、そうじゃないんだよ。みんなお箏の協奏曲なんて言ったら、ものすごく楽しみにしていたのに、どういうことだと文句ばかり言ってきて。」
「へえ、ほかの作曲家の交響曲では満足しなかったのか?」
「もう、当の昔にやりつくしたから、いやなんだって。新しいものやりたいって。」
「でも、新しい作曲家も交響曲はたくさん書いているじゃないですか?」
ブッチャーが素朴な疑問を広上さんに言った。
「うん、それがね。管楽器の人数が足りなくて、追いつかないことが多いんだ。ヤナーチェクのシンフォニエッタなんて、トランペットが12本くらい必要だろ?うちでは、12人もトランペットをやる人はいない。あたらしい曲になればなるほど、管楽器がたくさん必要になるんだよ。特に、金管がね。」
「あ、そうだね。マーラーの復活なんてめちゃくちゃたくさん金管を使うよね。それに、人数が多くないとできないし。」
杉三がすぐに口をはさんだ。
「そうだろう。だから、大体のアマチュアは、バロックか古典の交響曲しかやれないわけ。理由は人数が足りないから。ベルリンフィルのような有名なところだと、ほかの楽団から連れてくることも多いけどな。市民バンドではそれができないから。」
「そうかあ。そればっかりやっていたら、確かに飽きますね。」
「そうそう。ブッチャーいいことついてる。同じことは、音楽学校の定期演奏会なんかでも言えるよね。コンクールでもそうかな。大体賞を狙える曲は決まっているから、特に若い女の子は無理があっても大曲を弾きたがる。弾く側は必死なんだろうが、俺たちはもっと個性的なのをやってよと思うときもあるよ。」
麟太郎は、指揮者らしい話を始めた。
「そうかあ、洋楽はありふれすぎちゃって、もう飽きているんですかあ。それなら、確かにほかの分野に目を向けたくなりますよね。」
「うん。だから、それが中止になったということで、もう、みんながっかりの大連発よ。」
確かに、そのような状態ではがっかりするのは仕方ないと思う。
「だからほかのジャンルとくっついてみたくなって、邦楽の先生を探していたんですか?」
ブッチャーが聞くと、麟太郎は黙って頷いた。
「ところが、ああいう形で断られてしまったと。」
杉三が半分笑いながら言った。
「そうだな。杉ちゃん、こっちは深刻だったんだから、笑わないでくれよ。」
「でも、ノロのあの断り方はかっこよかったな。はっきりと、洋楽に助けてもらうような真似はしたくないって言ったよな。確かに、お箏で無理やり洋楽を当てはめるのも、なんか違和感あるし、沢井みたいにまったく新しくしてしまおうというのも、なんだか変な方向に行ってしまっているような気がするし。本当はそのままの形でよかったのにね。」
「うん。杉ちゃんのいう通り。邦楽も洋楽も、同じくらい繁盛してくれればよかったのに、なぜ片っぽは今にも消えそうなくらい、衰退してしまったのだろう?」
ちょっと間が開いて、杉三が頭をかじりながら、
「まあ、これは推量だが、たぶん、洋楽ばかりを推進しすぎて、できるだけ近代化しようとスピードを飛ばしすぎた政府が悪い。」
と、答えた。
「あ、そうですね。その代り日本の伝統品は全部悪いということにして。音楽だけじゃありませんよ。ご飯も、着物も、それから畳も、みんな見捨てられそうになってるじゃないですか。」
ブッチャーもそれに同意する。
「そうかあ、それに乗ってきた俺たちは、やっぱり悪人ということになっちゃうのかなあ。邦楽の関係者にとっては。」
「そうかもしれんな。明らかに認めて、あきらめろ。」
杉三が、ピシャンと言い放った。もうだめかと麟太郎はがっかりする。
「でも、なんだか、あきらめてしまったら、俺、完璧に負けのような気がする。」
「負けって、誰に負けるんだ?」
「いや、わからないけど、世間にな。」
この時、水穂が、ゆっくり目を開けた。
「あ、目が覚めたかい。よく眠ったか?」
とりあえずの挨拶を杉三がすると、
「眠った気なんてしないよ。ただ、かったるいだけだよ。」
そう返ってきた。
「なあ、お前だったら、どう思うかな?俺、邦楽関係者にしたら、邦楽をつぶした悪い奴になるかな?」
麟太郎は、水穂にそう聞いた。
「悪い奴というか、邦楽はもうつぶれるという皮肉の世界に入っていると思います。戦後は確かに洋楽のほうが、推奨されたことは、確かかもしれないですけど。」
「水穂さん大丈夫ですか?あんまりしゃべらないほうが。」
ブッチャーは心配してそう言ったが、水穂は軽く首を振った。
「お前は、音楽家として、ほら、洋楽をたくさんやってきて、どういう気持ちで演奏してきたんだ?やっぱり邦楽に関しては、抵抗感はあった?」
麟太郎がそう聞くと、
「そんなこと考える暇はなく、ただ、賠償金の督促状とにらめっこしてました。その道具として、ピアノを弾いただけです。」
としか、返ってこなかったので、またがっかりした。
「天才と言われた男が、賠償金の督促状とにらめっこねえ。お前は、何のために演奏してきたんだよ。」
「わかりません。それしかありませんから。」
それが、一番の答えなのかもしれなかった。
でも、ほとんどの音大卒者は、それを理解しないかもしれなかった。
ちょうどその時、
「すみません、ただいま戻りました。」
由紀子が製鉄所の玄関を開けて、帰ってきたのが分かった。
「はれれ?由紀子さん、蘭は?」
入ってきたのは由紀子だけであったので、ブッチャーも杉三もびっくりした。
「で、施術してくれると、天童先生は言ってました?」
「いいえ、それがだめでした。もう一回、お願いしようと思ったのに、蘭さんったら、若い奴を馬鹿にするなとか言って、帰ってしまいました。」
水穂を除いて、全員大きなため息をついた。
「それではだめじゃないですか。でも蘭さんらしいですね。そうやってすぐ逆上するんだから。」
「そうだね。すぐに頭に血が上るというか、カッとするとすぐそれだよ。あいつは。他人に暴力をふるうということはないから、まだいいのかな。」
ブッチャーと杉三が相次いでそう発言した。
「蘭のことだから、何かイベントを必ず思いつくんだけど、今回それはなかった?もう必ずそれだからさ、それでいつも騒動を巻き起こす。」
杉三がそう聞いてきたが、由紀子は他言しないでと言われていた、秘密の計画を話すことはできなかった。
その代り、切ない顔をしてがっかりと頭を下げた。
水穂さんが自分のことを見てくれているのが、恥ずかしかった。
今から、水穂さんに対して、とんでもないことをしようとしている、自分が悲しかった。本当に悲しかった。
「まあ、結局のところ、施術にはたどり着けないのは仕方ないですよ。そういう人は、人を選ばないと言っておきながら、いざ本人が来てみると、こういう人には手に負えない問題のため、施術できないなんてわがままを言いますからねえ。」
ブッチャーは現実によくある事情を話した。まあ、施術をする先生にも事情があるのだろうが、アルベルト・シュバイツァーのように、誰でも平等に施術という人は、そうはいない。
本人は医者ではないからということを第一の理由にするが、意外に医者よりも頼りにする人は多いのだけれど。
「まあ、東京にもいっぱいそういう人はいるけどさ。でも、本当にちゃんとした施術をしてくれる人は、そうはいないよ。本当に治そうとしてくれる人もいるけど、そうなると、問題が大きすぎて、学んだ技術では追いつかないんだよ。」
麟太郎もそう解説した。結局、ノロが利用しているように、肩こりを治してくれるくらいしか、効能は立証されていないのだろう。
「あ、またやる。もうしっかりしてくれよ。薬飲んで切れると、またこれだよなあ。ほんと、お前を何とかしようとする手段は、何もないのかもしれんなあ。」
杉三がまたせき込み始めた水穂の背をさすってやっていた。
「きっと、そういうことなんだろうが、何とかして元気になってもらいたいと思うのは、俺だけだろうか、、、。」
麟太郎は、大きなため息をついた。
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