第七章

第七章

「座ってください。」

ノロに促されて、蘭と由紀子は椅子に座った。天童先生が、二人の前にカモマイルティーと呼ばれる甘い匂いのするお茶を出してくれた。二人は、それぞれの名を名乗ってかるく自己紹介すると、にこやかに二人の前に座って、話を聞くわと言ってくれた。

「では、ゆっくり聞きましょう。もし、言いたくなかったら、言わなくても結構ですので無理せずゆっくり話してみてください。」

なんだか取り調べを受けているみたいだったが、蘭はとにかく自分の聞いてもらいたくて、嗚咽しながらも話し始めた。

「はい、先生も広上さんから聞いていると思いますし、何よりも、本人に会っていらっしゃるから、わかると思うんです。あ、あの磯野さん、つまり磯野水穂さんの事です。」

蘭は、一生懸命自分なりに文章を作りながら話してみた。

「だ、だからあいつには生きてもらわなきゃなりません。広上さんをはじめとして、あいつに弟子入りを志願した若手のピアニストもいるんです。あの、この間ですね、富士市の主催イベントで、音楽まつりというものがありまして、その時、広上さんと一緒に共演したピアニストが、あいつに、弟子入りを申し込んだのに、あいつときたら、レッスンの前日に倒れたりして、満足にレッスンもしてやれなかったし、彼の本番だって、見に行ってやれなかったんです。だから、言ってみれば、あいつは職務放棄しているようなものじゃないですか。だからちゃんと体を治して、ものじゃないですか元の職場へ戻ってもらわなきゃ。それを何とかして手助けしてやりたいと思うんですよ。それなのに、あいつときたら僕が提案した病院も何も全部拒絶して、僕の話を聞いてくれないんです。だから、相談に来ました、、、。」

ノロは時折相槌を打ちながら、蘭の話を聞いてくれた。由紀子は心配そうに蘭を見ていた。

「しかし蘭さん、なぜ、彼を音楽界へ戻そうとするのですかな?何か理由がおありですか?それとも彼自身がそうなることを嘱望しているのですか?」

ノロは、一生懸命話ている蘭に質問した。変なところをやりでつつかれたような、そんな感じの発言だった。

「決まっているじゃないですか。もちろん、水穂だって音楽の世界にいたいと思いますよ。

勿論、今みたいに、布団に寝てばかりいる生活は、あいつにとって退屈でしょうがないでしょう。それに、少しでも冷たい風が吹いたり、ちょっと天候が不安定になれば、すぐせき込んでしまうのも嫌でしょうしね。せき込むのを止めるために、すごい怖い夢を見て、唸らされるような、危ない薬を毎回飲まされるのも嫌で、眠った気がしないってさんざん言ってます。それじゃあ、何の意味もないじゃありませんか。だから、天童先生の氣功というものを使っていただいて、彼を何とか楽にしてやっていただけないでしょうか!」

「あたしからも、お願いします!」

蘭が一生懸命頭を下げて懇願すると、由紀子も同じようにして懇願した。ノロも天童先生も、二人が真剣にお願いしているのを見て、とても感動的なようだったが、すぐに大事なことを言わなければならないなと、互いに頷きあって、次のように切り出した。

「蘭さんも由紀子さんも、よく聞いてください。あなた方はまだ若いから、こういう話はなんだかうるさいなと思うかもしれないが、大事なことだから、よく聞いてほしい。」

ノロは、真剣な顔をして話し始めた。

「結論から言いましょうか。水穂さんは、あなた方の助けがほしくないのです。だからあえて食べ物を拒否しているし、治療を受けようとしないんですよ。」

「つまり、わざとそうしていると?あいつは、自ら悪くなるほうを選んでいるということになるのですか?」

「そうですよ。そして、本人が、何よりも明確に逝くことを望んでいます。潔く、消えてしまいたいと思っているのでしょう。なぜなら、強い人に援助してもらいながら死を迎えるほど、恥ずかしいことはありませんからね。それは、どこの国でも関係なく、迫害されてきた人であれば、だれでもそう思うと思いますよ。」

「あたし、なんとなくわかる気がします。征服者の手にかからないで死んでいきたいということですよね。ほら、無理矢理白人との同化を勧められて、集団自決したインディアンの逸話とかよく聞きますものね。」

由紀子はなかなかの歴女であった。そういう歴史的なことは少しだけ知っている。もちろんそれが実生活で何の役に立つのかを聞かれると、そんなことはめったにないと言えるのだが。

「うん、明らかに人種的に違うというわけではないが、ほかの日本人と同様に扱われてこなかったということは、共通していると思うよ。君はよいところをついているね。」

ノロは由紀子の事を誉めてくれた。

「しかし、それでは納得できません。いくら事情があったとしても、大体の事は過去のものになっているじゃないですか。今はそんなことに拘らなくてもいい時代なのではないでしょうか?」

蘭はまだ、その事実を否定したが、

「それはね、教育現場を知らない偉い人の建前よ。現実はそんなことないわ。ほんのちょっとした違いのせいで、とんでもないいじめにあって、挙句の果てに自殺にまで追い込まれた例は、本当に数えきれないほどたくさんあるのよ。」

天童先生は蘭に優しいけど諭すような言い方で言った。

「みんな豊かすぎるから、ちょっとでもできないことがあると面白がって、からかってしまいたくなったり、逆にみんな貧しいと、ちょっと豊かなところがある人をねたんで暴行したりするのよ。だから人間が集まると、必ず何か犠牲者が出るようになっているの。そこをどうやって乗り切るかが、今、一番難しいかもしれないわね。昔の人がやっていた守り方では通用しなくなっているから。」

「蘭さん、先生のいう通り、そういう人ってのは、どこの国家にもいるでしょう。そういう人がいないと国家というものは発展しないのよ。あたしたち日本でも、いくら単一民族と言っても、そうやって細かい階層を作って、差別するのよ。」

なんで由紀子さんは、納得してしまうんだろうか。

由紀子さんまで、無神経だ!

「で、でも僕はやっぱりそういうことは過去の物であったと信じたいのです。そうじゃなくて、あいつに、もう出身階級で悩まなくていいのだということを伝えてやりたいのです。口で言ったって、全くわかってもらえないことは知ってますから、まずはあいつの体を治すことを手伝ってやって、それを通してあいつがもう何も気にしないでいいのだと思いなおしてもらいたい。それはいけないんですか?」

「蘭さん、果たしてそういう思いを持っている人は、何人いるでしょうか。そこをよく考えてごらんなさい。ほとんどの人は、彼をどう見るでしょう。たとえあれだけ綺麗と言っても、同和地区から来たと言えば、途端に態度を変えたり、悪いけどそういう人とはお付き合いできないと言って、去っていくでしょう。その時、彼はどうなるでしょうか?きっと深く傷ついて、より悪化していくことでしょう。同和問題とはそういうことです。そして、それを何よりも本人がよく知っている。だからこそ、これ以上生きたくないと思っているのだと思います。なぜなら、彼のような人は、たとえどんなに長く生きたとしても、あなた方が獲得できるような幸せというものは、獲得できず、一生寂しい人生を送るしかできないからですよ。もうじき、年号も変わることは知っていますね。明治維新の時もそうでしたけど、新しい政権ができて、より暮らしが楽になると思ったら、解放令反対一揆などのように、新たな迫害を受けるようになってしまって、結局、何も幸せにはなれませんでした。次の年号でもたぶんそうなるんだろうと、水穂さんたちは予測している。だから、潔く、同和地区の出身者として、新しい時代を見る前に逝きたいと思っていると思います。」

蘭がそういう疑問を話すと、ノロは丁寧に解説してくれた。でも、明治維新の時の事を話されても、蘭はそんなときと今は違うんだとしか言いようがなかった。

「今は違うなんて大間違いですよ。今は古い思想と新しい思想が混乱しているから、逆に、若い人は判断がつかなくて、結局死んでいく人だって少なくないのですよ。」

天童先生、それはわかるけど、

「じゃあ、たった一人でも、信じてくれる人がいれば、また違うんじゃないですか?周りから迫害されたとしても、一人だけ信じてくれる人がいて、それで生きてこられたという、偉人の話はたくさんあるでしょう!」

と、蘭は言い放った。

「いいえ、それは一人では生きていけないとはっきりわかっていた大昔の話。今は、ほとんどのことはスマホがしてくれるし、人なんていなくても生きていけると豪語している人はたくさんいるわ。それに、他人の援助を受けないでも大体の人は暮らしていけると思い込んでいるから、わざわざ迫害された人のもとへ行こうなんて言う態度をとる人はどこにもいないわよ。」

天童先生は、治療者らしくない話を始めた。

「じゃあなんですか?先生は社会的に弱い人を治療してあげているのではないんですか!」

「弱い人じゃなくて、あたしたちは悩んでいる人の相手をするのが仕事。もちろん、過去に親からひどいこととかそういう人の施術もしたことあるけれど、大事なものは本人の意思であって、あたしたちは、ただ、その苦しみのメカニズムをとってあげるだけ。あとの生活は本人がするの。それい、法律には逆らえないし。同和問題はある意味国家が作ったものでもあるからね。」

天童先生まで、そんな無責任なことを言うのか、、、。あいつは、永久に救われることもないのかな。

「せめて、あいつを楽にしてやっていただけないでしょうか?それさえもできないのでしょうか?」

「無理よ。彼の持っている問題は、個人的にどうのこうのではいかないのよ。解決するには、国会に訴えなくちゃ。それにあの体では、施術に耐えられる体力もないと思うわよ。だって、考えてみなさいよ。八十を過ぎた野村先生が、持ち上げられるほど、げっそりと痩せていたのよ。」

蘭は、がっくりとテーブルの上に顔をつけて男泣きに泣いた。

「蘭さん。蘭さんが友達を思う気持ちはわかるけど、でも、無理なものは無理ってあきらめなきゃダメなのよ。」

そういう由紀子も、発言こそしっかりしていたが、その気持ちは本心ではなくて、どこかで食い止めてほしいという気持ちが見て取れた。

「私も、全く違う事情ですが、彼の気持ちもよくわかります。私も、邦楽が洋楽の力を借りないと、繁盛しないといわれてしまうと、若い頃は何だこの野郎!みたいな気持ちで戦ってきましたが、いずれも勝利したことはありませんでした。邦楽は、今は歳よりだけのものになってしまったようです。沢井が登場して以来、よく似た作品が多数作られるようになりましたが、それは果たして邦楽と言えるのかというと、そうではありません。沢井は、確かに若い人には良いのかもしれませんが、日本の音楽がああいう、マフィアの決闘を連想させるような、気持ち悪い曲と定義されては困る。やむをえずそうなるのなら、私はあえて消滅したほうが余程よいのではないかと思うのです。だから、無理に洋楽関係者に手を差し伸べられても、そのようなことには絶対に乗らないことにしているのです。」

「すごいですねえ。野村先生。私も、そういう潔い態度が身に着けられるようになりたいものです。私なんて、まだまだこれでいいのかと、踏ん切りがつかないことが、沢山あります。」

由紀子は、ノロのその演説を聞いて、感動しているようであったが、蘭はどういうわけかその気にはならなかった。それよりも、

「音楽と人間は違います。混同しないでください。邦楽は確かに消滅するかもしれないけど、人間は消滅させたら、罰せられます。」

という言葉を使ってしまったのである。

「ですから、水穂さんはそこも考えているのでしょう。そして、自分を正直な男のまま、死にたいと、はっきり誓いを立てていると思いますよ。」

「それに、彼にとって、これから先、明るい未来が待っているかというと、そうでもないことのほうが多いと思うわ。普通のであれば、幸せに結婚なんてこともできるかもしれないけど、彼はそうじゃないことのほうが多くなる。それも、今の時点ではっきり知っている。」

ノロや天童先生が、優しく説明してくれるのに、蘭はなぜかその主張を受け入れる気にはならなかった。あきらめるなんてどうしてもできなかった。

「みんなあきらめろと言いますが、僕はどうしてもできません。僕は可能であれば、あいつが生きている限り、何かしてやって少しでも楽にしてやりたいと思います。」

「蘭さん、もう彼には、そのようなものを受け取るほどの体力すら、ないのよ。あとは静かにお迎えを待たせてやるのが一番なの。わかってあげて。」

天童先生が、優しく蘭を説得してくれたが、蘭はどうしてもわかってやることなんてできなかった。それどころか、水穂を一日でも長くこっちの世界にいさせてやること、つまり迎えが来るのを一日でも長く遅らせてやる方法ばかり頭をよぎっていた。

「それにしても、大した若者と言えますな。自分の運命をしっかり受け入れて、それに対して何も文句も言わないんですからね、顔だけではなく、頭もしっかりしているのでしょうね。」

先生、それは逃げというものではないでしょうか。それなら、本気でぶつかっていくべきではないでしょうか。それなのになぜ、大した若者と言えるのですか、、、?

蘭は、どうしても疑問ばかり考えてしまう。

「とにかくあいつを、一日でもこっちに、」

「蘭さん、それはもうあきらめて。明らかに認めて。わかる?そういうことなのよ。蘭さんがやるべき一番最上のことは、彼ができるだけ未練を残さずに逝けるように、応援してやること、そうでしょう?そうしないと、今度は彼のほうが負担になってしまうわ。」

「蘭さん。本当に、あたしも天童先生のいう通りにしようと思うわ。あたしはもちろん、先生方みたいに年齢も行ってないし、まだ誰かが亡くなるってことには直面したことないけれど、先生方の言う通りにして、できるようにしてみる。まだ、若造だから、時折間違ったことしちゃうかもしれないけど、それはすぐに水穂さんに謝るようにする。謝って解決することもできなくなるかもしれないけど、」

「うるさい!どいつもこいつも!なんで誰もわかってくれないんだろう!」

蘭は怒ってテーブルをバンとたたいた。

「怒らないでよ。一番つらいのは水穂さんなのよ。だからあたしたちは、それを軽くしてやることじゃないの!」

「うるさい、なんで年寄りはそういう聖人君子みたいなことを平気で言えるんだ!そしてなんで若いからっていって、そう馬鹿にするんだ!」

「馬鹿になんかしてないわ。教えてくれているの。ヒントをくれているの!戦時中の事を考えればわかるでしょう!」

なんだかこうなると、蘭よりも由紀子のほうがしっかりしているような気がする。彼女のほうが、10年以上離れているのに、なぜわかるんだろう。

あ、もしかして!

と蘭は思った。

これを使えば、あいつは少しだけでも、こっちにいてくれる気を起こしてくれるのではないだろうか!

もし、これが成功すれば、あいつが苦しむことも少し減るだろうし、少しだけでも回復しようと努力するかもしれない。

よし、この作戦を決行しよう!と蘭は決めた。

とりあえず、その日は、天童先生とノロに向かって礼をして、由紀子と一緒にそそくさと天童先生宅を出て行った。

「水穂さんもいい友達をもって、幸せですな。あそこまで、ここにいてほしいと願ってくれる友達は、そうはおりませんよ。」

「ええ、最近の若い人は、人付き合いが淡白で、割と深い関係になる人は少ないと思われますが、そうじゃない人もいるんですね。私、初めて知りました。」

ノロと天童先生は、二人が帰っていく様子を見ながらそう話し合った。

「雨がやみませんね。」

不意にノロが言った。

「そうね、今年は極端に暑く成ったり寒くなったり、本当にわけのわからない天気が続いて。皆、何かしら苦労を抱えやすい天気と言えるわ。そのせいかしら、うちに施術を申し込んでくる人の平均年齢がどんどん下がっているのよ。」

「もしかしたら、助けを求めたり、助けたりするのはタブーになっているという思想が影響しているのかもしれないですね。何でも自分でやれなんて、到底できるはずないんですけどね。」

そういいながらノロは、邦楽が外国の音楽に助けてもらわないと、だれも見向きもしないという現状を、何とかしようともできない自分に、ちょっとだけ腹が立った。

「天童先生、私たちは何を間違えたんでしょうか。近代国家のために猛スピードで走りすぎた事でしょうかね。」

「わかりません。私の意見では、日本人特有の負けず嫌いと、忍耐力を変なほうへ使ってしまったのかだと思います。」

ノロは、出窓から、暗くなってきた空をみあげた。

「もう私たちが理想としていた若い人たちは、どこかへ行ってしまうのでしょうかね。彼のような形で逝けるのなら、まだ、よいのかもしれないが、最も困るのはそのような優秀な子が、世の中に見切りをつけて、命を絶ってしまうことです。それだけはどうしても、勘弁してもらいたいのに、どうしても、それが伝わらない。本当にそこが辛い。」

「そうですねえ。この間、河豚料理で自殺した女の子も、先生の理想とするタイプに近かったのでしょう?」

「天童先生、私たちはいじめの対象になるものを提供しているのでしょうか。古い楽器を習っているとなると、もうそれだけで面白がって、同級生にからかわれるそうです。私たちは、若い人に笑われるような、そんな文化になってしまったのでしょうかね。」

天童先生は、少し考えて、こう答えた。

「いいえ、きっと、どこかでそういう文化を好きになってくれる若い人はいると思いますよ。そのためには、入り口を作らなきゃね。」


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