第六章
第六章
その日は雨だった。冬というのになぜか生ぬるくて、寒いという言葉は出なかった。道行く人は口々に、梅雨みたいな天気だねといい、テレビでは、これからこういう気候が当たり前になっていくだろうと、偉い人が予言していた。同時に自律神経がおかしくなって、肩こりや、頭痛などの不快な症状を訴える人が後を絶たないというニュースも盛んに報じられた。
こんな時に、クリスマスソングが流れ、クリスマスツリーが点灯しているのも、なんともおかしな光景だった。もしかしたら、十年後は、日本もオーストラリアみたいに、サンタクロースがサーフボードに乗ってやってくるかもしれないね、なんていう冗談まで流れた。
そんな中。
製鉄所では、水穂が今日もというか、いつも通りにせき込んでいた。もう、せき込むのは、当たり前の行事になっているが、今回というか、今年はいつまでも寒くならないというのが堪えたらしく、特にそれがひどいような気がした。
「もう!大丈夫ですか!朝にたくあん一切れ食べただけで、もういいなんて言うからそうなるんですよ!」
ブッチャーが一生懸命説得して、背中をさすったりたたいたりしているが、今日の天候は、ブッチャーにも堪えた。ブッチャーは休みたいという気持ちにもなったが、水穂に休む暇を取られているような気がした。
水穂本人は、とにかくせき込み続けるので精いっぱいで、ブッチャーを気遣うなんてもってのほか、返答することすらできないのだった。その水穂をみてブッチャーは、自分の姉のことを思い出すのだった。姉は、何か言いたくても、自分の感情すら調整できなくて、結局何を言いたいかわからなくなり、ひたすらに死にたいと騒ぎ立てるしかできないのだった。いくら両親が静かにしろといったって効かない。土下座して懇願しても同じ。一度だけであるが、殺してやりたいと両親も、ブッチャー自身も思ったことがあった。そうしてくれれば、もちろん犯罪者となってしまうが、被害者が病人、特に精神疾患であれば、世間の目はまた違うことは知っていた。つまり、世間の目は被害者ではなく、殺人者に同情してくれる。特に、病人が働き盛りであるべき人間であれば、殺人者のほうが、甘やかさなかったという意味で、正しいということになる。
水穂さんも、そういうことになるのだろうかと、ブッチャーは考えてしまった。きっと、一昔だったら、害獣退治の英雄として、崇められる可能性もある。今だってたぶんそうだろう。害獣が、水穂さんのような人から、精神障碍者に変わっただけのこと。それだけである。
と、その時。急にけたたましくせき込む音がした。それが今まで以上に大きな音であったために、ブッチャーははっと我に返った。慌てて布団のほうを見てみると、布団の片隅に水穂がうつぶせになってせき込んでいて、畳は赤く染まっていた。
「あーあ、またやりましたか。二度も三度も畳を張り替えても、すぐに元に戻ってしまうんですねえ。これじゃあ、畳屋さん、商売大繁盛だ。」
ブッチャーは、彼を抱え起こして、口元についた鮮血をタオルで拭いてやった。
「ごめんなさい、すみません。」
やっとそれだけ、言葉にしてくれたかあと、ブッチャーは大きくため息をついた。なんだか、苦しんでいた彼に、今までのことを口にすると、ぶん殴られるような気がした。それではいけないと思えるのなら、まだ正常な人間に区分してくれるかなと思った。
「謝って済む問題じゃないですよ。理由だってはっきりわかるじゃないですか。たくあん一切れ食べただけで、もういいなんていうから体も弱りますよ。」
「どうしても、何も食べる気がしなくて。」
「だからねえ、、、。あーあ、杉ちゃんみたいになんでも作ってやれればいいんですけどねえ。
俺、知らないんですよ。杉ちゃんが作ってくれた、蕎麦掻っていう、非常食。」
本当にそうだった。せめて蕎麦掻のつくり方を、文字に書いて記録してくれればいいのに。でも、杉ちゃんにはできない。図書館に行って、本で調べてみても、作り方を掲載している本はどこにもなく、ただ、江戸時代に非常食として食べた食品としか記述されていない。確かに、非常食はいろんなものがいろいろあるから、もう蕎麦掻は必要ないと思われているのだろう。逆を言えば、杉ちゃんがなぜ、こんな無名な食糧のつくり方を知っているのだろうか?そこが不思議だった。
「水穂さん、止まらないようなら薬飲みましょうか。あんまり使いたくないとは思いますが、このありさまでは、永久にせき込んで止まらないような気がしますよ。」
ブッチャーはそういうが、返事の代わりに、咳が返ってきたものだから、
「もう、とにかく休みましょう。変な天気だし、確かにおかしくなりますよ。俺ももう、疲れてしまって仕方ないんですよ。」
と、枕もとにあった吸い飲みに、例の白い粉剤を入れて、洗面台から持ってきた水で溶かし、水穂の口元へもっていってやった。全部中身を飲みほすと、咳の数は減少していき、次第に静かになった。
でも、この後に何が起きるか、ブッチャーは知っている。
「また怖い夢見て唸りだすんですね。どんな夢を見ているんですか?大学の時に、とんかつ屋に無理やり連れていかれて、凶器のとんかつを口に押し込まれて、拷問されたときのこととか、そういうことを思い出すんですか。それとも、大津波が起きたとか、そういう天災の夢ですか?」
語りかけても、眠ってしまったのか、反応はなかった。
ちょうどこの時。
「すみません、大人数で押しかけてしまって、申し訳ないのですが。」
一人の若い女性の声がする。
「はい、なんでしょう?」
「水穂さんいらっしゃいますか?もしよろしければでいいのですが、お会いしたいのですけど?」
「そうねえ。今は遠慮していただけないかしら?申し訳ないけど、今朝からずっとせき込んで大変だったのよ。」
「今朝からっていつからですか?」
「ええ、朝ごはん食べたときはまだよかったんですけどね。日が出てきて、暖かくなってきたら、急にせき込み始めて。いま暑いくらいでしょ。それに便乗して、すごいありさまだったわ。」
恵子さんが説明している。相手の女性は、由紀子さんだとすぐにわかった。でも、これではお会いしたいなんて、言えるはずもないなと思った。
とりあえず、畳に流れた血液は、ぞうきんで拭いて始末した。
でも、なんだか、由紀子さんにこの光景を見せてしまうことは、本当に恥ずかしいというか、申し訳ない気がしてしまった。
そういえば、大勢ですみませんと彼女は言っていた。ということは、ほかにも誰かいるということだろうか?
「すみません、顔を見るだけでもいいから、あわせてもらえませんか。もう、僕も一人で部屋の中に閉じこもってあいつのこと考えると、どうしようもなく悲しくなって、たまらなくなるのです。けっして、感情的なことはしませんので。」
「ばか。しないといっても、してしまうのがお前だろ?」
つまり、大勢というのは、杉ちゃんと蘭がやってきたのだ。どうしてこんなタイミングの悪いときに、蘭さんが来てしまうのだろうか?また、ああだこうだと嘆いて帰っていくに違いない。少なくとも、単独ではなく、由紀子さんや杉ちゃんが一緒に来てくれたというのが救いだったというか、ありがたいことだった。
これはなんとかして追い出さなければならないな。事実そのものを伝えたら、間違いなく蘭さんは会わせてくれと言い張り、さらに騒ぎを大きくするだろう。それを考えたブッチャーは、一生懸命追い出す文句を考えていると、
「おい、具合どう?」
いきなりふすまが開いて、蘭の姿が見えた。ブッチャーはそんなに時間がたってしまったのかと驚いてしまう。
もう、答えを考えるのは無駄だとわかったので、ブッチャーはまたがっくり肩を落とした。杉三がそれを察したのか、ブッチャー気にするなと言ってくれたのが幸いであった。
「眠っているの?」
蘭がそう語りかけても、反応はなかった。そこへちょうど、遅れて入ってきた由紀子が、
「蘭さん、たぶんやっと眠れたんだと思うから、今日は眠らせてあげましょ。」
というが、蘭は、そうだねとは言ったものの、茫然としたままであった。
「蘭さん、帰ったほうが良いのではありませんか?」
由紀子にそう言われても、
「そうだけど、、、。」
蘭はその場を出たくないという気持ちを口にすることはできなかった。
と、その時、水穂が苦しそうに唸り始めた。
「おい、どうしたんだお前、眠っているのではないの!」
思わず蘭は、水穂に聞いてしまうが、もちろん返答は返ってこない。
「いや、大丈夫だ。たぶん、これ薬のせいだから。もう何回もおんなじことやっているし、10分くらいで元通りになるよ。」
さらりと、杉三が説明すると、
「睡眠剤よね。あまり強いものを使うと、かえって悪い夢を見ていやだったといってた人の話を聞いたことがあったわ。杉ちゃん、これ、なんて名前の薬?」
由紀子がそう聞いてきたが、
「うーん、僕は読み書きができないので。」
この場合には仕方なかった。
「これですか?」
ブッチャーが、白い粉の入った袋を差し出したが、袋には全く名前は書いておらず、副作用などを示す説明書などもない。ただ、鎮血薬としか説明はされていなかった。そんなわけだから、なんだか危ない薬だなと、全員わかった。水穂はさらに唸り続けていた。
「おい、しっかりしてくれよ。これじゃあ、薬飲んでも意味ないじゃないかよ!」
思わず蘭は水穂に詰め寄った。しかし、
「余分なことはしないでください。せき込んだらこれを使うしかないんです。これじゃないと、止められないんですから。畳を汚されて、張り替えることになるよりは、まだましでしょ!」
と、ブッチャーに言い返されてしまう。
「畳なんてまた張り替えればそれでいいだろう?畳屋さんだって、つぶれたわけではないし、電話すればすぐに来てくれるのでは?」
「金銭感覚に鈍いですね。蘭さんは。畳を張り替えたら、お金がかかります。すぐに、ホイホイ言わないでください。」
「蘭は金持ちだし、今までに大きな挫折をしたこともないから、そういうことが言えるんだ。
そのうち、初めて大きな挫折がやってくる。今がその時なんじゃないのか?うまく乗り越えないと、メンデルスゾーンみたいに、初めての挫折でぶっ壊れる羽目になるぞ!」
ブッチャーと蘭がそう言い合っていると、杉三が二人をからかうように言った。
そのうち、水穂の唸りは止んで、また元通りに眠り始めた。たぶん、これでは眠った気にはならないだろうなと蘭は思った。
「まあ、薬よりも、シャクティーパットのほうがよかったことは確かかもしれないな。ほら、あの、頭を触って、エネルギーを抜き取るとかいうやつ。」
杉三がふいにそう発言する。
「杉ちゃんそれはシャクティーパットではないわよ。それを言うなら氣功でしょ。悪いひとたちの武器とは違うんだから、一緒にしないでね。」
急いで由紀子はそう訂正するが、
「へえ、氣功というものが、富士にもあるんですか?確か、東京へ行かないと受けられなかったような気がするんだけど、、、。水穂のやつ、どこでそんなものを受けていたのでしょう?」
すぐに蘭が割り込んだ。
「ええ、受けたというか応急処置的にやってもらっただけのことです。先日郵便局へ行ったときに、水穂さん、力尽きて倒れてしまったそうですが、その時に天童先生という女性の肩が、気分を落ち着けてくれたそうです。」
ブッチャーがそう説明すると、蘭は何か決断した。
「よし、もう一回呼び出そう!」
「またシャクティーパットをさせるの?」
蘭の決断に杉三がまた揚げ足をとった。由紀子はすぐに違うでしょと訂正したが、
「だけど、シャクティーパットって、医者が見るとどうなるんだろうね。体がよくなるという根拠なるものはあるんかいな?」
杉三は腕組みをしてため息をついた。
「あるんじゃないかしら。中国でずっと続いてきている、伝統的な治療法でしょ。もし、効果がないんだったら、四千年も続いてきたりはしないわよ。」
「そうだよ。由紀子さんのいう通りだ。最近は薬と併用する例もある。杉ちゃん、その天童先生の連絡先は知っている?」
蘭は一度決めてしまうと、融通が利かないというか、水穂の言葉で言えば、人のいうことを聞かなくなる傾向があった。それに、人に対して何かしてやりたいという気持ちになると、どうしてもそこを止められないというおかしな癖もある。そうなると、かえって止めないでいたほうが、良い結果になるとブッチャーは長年の付き合いで、知っていた。
「あいにくねえ、僕は読み書きができないので、記録なんて知らないよ。」
「あ、俺知ってます。ほら、富士郵便局、いわゆる本局がありますよね。そこのすぐ近くですよ。ただ、看板も何も出していないので、見逃してしまうかもしれないですけど。」
杉三の話に、ブッチャーもすぐ手助けをした。
「ええ、わかります。そういうところって、偏見を避けるために、大っぴらに看板を構えることはしないのよ。でも、連絡先は掲載しているかもしれないわ。ちょっと私のタブレットで、調べてみましょうか。」
由紀子は持っていたA4サイズのタブレットを出して、検索欄に、氣功、天童先生と入力してみた。すると、「天童治療院」と書かれたホームページがみつかった。そこを開いて、表示されていた地図も開いてみると、確かに本局の隣にあると書かれていた。
「あ、ここに住んでいるようです。電話番号も、ここにあるわ。ちょっと、かけてみましょうか?」
由紀子は、スマートフォンで電話を掛けようとしたが、
「いや、直接行こう!こういう人はいつまでたっても出てくれない人が多いから、直談判したほうがいい!」
蘭は出かけるしたくを始めた。
「だから、何かやっているかもしれないだろ?こういう治療というのは、一人につき、一時間とか二時間は軽くかかるもんだよ。」
杉三がそういうと、
「だけど、それはインチキ商売が多いということもあるんだよ!真偽を確かめるためにも、直接行ったほうがいいんだ!」
蘭は、杉三にそう言い返した。
「苦しんでいる人間が一人いるんだからな!インチキなんかに会わせるもんか!」
「わかったわよ。蘭さん。じゃあ、私が運転していくからちょっと待ってて。たぶん、この地図によると、本局の近くだし、さほど遠いところではないわ。」
由紀子は、車を出すからと言って部屋を出て行った。
「じゃあ、俺と杉ちゃんは、連絡のためにここに残るよ。水穂さんのこと、放っておけないからさ。」
ブッチャーがそういうと、蘭はじゃあそうしてくれといって、部屋を出て行った。
同時に水穂が再び、苦しそうに唸り始めた。ブッチャーも、これはまったくかわいそうすぎると思ったし、スピリチュアルなんてなんの役にも立たんと吹聴していた杉三も、シャクティーパットが必要だなんて言いだすのだから、よほどひどかったのだろう。
なんとかしてやりたいなと思いながらも、何もできないのが素人である。そのためには、金を払って偉い人に何かしてもらう必要がある。そして、素人にできることといえば、その金を提供してやることである。できることならそんなもの。でもそれは時に、ものすごい生きがいになることもあるし、逆にものすごい空虚感をもたらす場合もある。今ここでブッチャーが感じていたのは、後者のほうだった。
一方、蘭と由紀子はとにかく車を走らせて、本局のあたりに行ってみた。この辺りは民家がたくさん立っていて、特に商売をしていそうな家は見当たらなかった。しかし、一階の一部が、変に突き出ている家を発見した。表札には「天童」とあった。
「ここですかね。」
「そうね、行ってみましょう。」
二人は、とりあえず、本局の駐車場へこっそり車を止めた。一度、郵便ポストへ手紙を出しに行くふりをして、不審者ではないようにして、すぐにその家に直行した。
由紀子は恐る恐るインターフォンを押すと、
「あら、京子さん?お時間はこの時間であってるけど、日付は明日よ?一日間違いできちゃったの?」
ずいぶん明るい声でそういう返答が返ってきた。声を聞いただけではかなり若い人のように見えたが、ガチャンとドアを開けて出てきたのは、中年のおばさんだった。
「あら、なんですか。あなたたち。新規でご希望のかたですか?」
「あ、あの、その、ぜひやってほしい人が一人おりまして、お願いに来ました。何回も電話したんですけど、いつも出てくれなくて。だったら、直接お願いしたほうがいいと思いまして。」
蘭が、口ごもりながら言った。
「そうでしたの。それはごめんなさい。私も筋金入りの機械音痴なものですから、しょっちゅう電話やメールもほったらかしにしてしまうんですよ。お隣にいらっしゃる方は、奥さまですか?それとも、妹さんですか?」
「いや、いやあ、その、、、。」
蘭はさらに混乱してしまったが、彼女はにこやかに笑って、いいんですよ、ゆっくりで。と言ってくれた。
と、その時。奥の部屋から、ノロこと、例の野村勝彦先生がやってきた。
「どうしたのですかな。なんだか騒がしいので見に来たのですけれども?」
「あ、野村勝彦先生!」
蘭はまたもっと驚いてしまった。野村先生は、テレビなどで報道されていたことも多いので、顔はよく知っていた。由紀子も、先日駅でお会いした、ちょっと住む世界が違うのかなと思われる、お爺さんだと分かった。
「一体どうしたのですかな?」
「先生こそなぜここにいらっしゃるんですか?」
由紀子は、思わず聞いてしまう。
「あ、失礼、ちょっと隠れさせてもらっているのです。あの広上という指揮者がしつこいものですから。何度共演はしないといっても、まったくわかってくれなくて。しまいには、どこに泊まっているのかも突き止めてくるものですから。」
なるほど、広上さん。これではまるでストーカーだよ。と、蘭はおもった。
「それより、お二方はどうしたのですか?」
先ほどの女性に効かれて蘭は、
「はい、僕の親友に、シャクティーパットをしていただ、、、。」
と言いかけて、自分がとんでもないことを言ってしまったことに気付き、
「も、申し訳ありません!失礼な発言して!」
と、頭をごちんごちんとげんこつで叩いた。まったくなんで大事な時になると、変な単語を口にしてしまうのだろう?杉ちゃんみたいにべらべらとしゃべれたらいいのになあ、なんて思う。
「正確に言うと、氣功を施術してもらいたいんですよ。その相談に来たんです。」
こういう時には、女性のほうがしっかりしているのだろうか?いや違う。女性は、愛する人がいると雄弁になるのは確かだけど、普段であればもっとパニックになることが多いのである。
「わかりました。中へ入ってくれませんか。」
と、中年の女性はそういった。
蘭も由紀子も怖がりながら中に入った。
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