第五章

第五章

「なんで野村先生が製鉄所にいるんだろう?」

「きっと、何かつらいことがあって、こっちに来たのよ。ほら、よくあるじゃない。偉い人特有の、愚痴を言いたくても言えないところ。」

ブッチャーと恵子さんは、不思議な顔をして、四畳半のふすまを見た。

「いったい、何をしゃべっているんですかね?」

「きっと、音楽関係の話とか、そういうことよ。あたしたちには理解できない、専門的なことよ。」

「その中になんで杉ちゃんが、混じっているのかな?」

「まとめるのがうまいからじゃないかしら。野村先生、ノロというあだ名を結構気に入っているみたいだし。」

「そうかああ、、、。俺よりそういうところは杉ちゃんのほうが優れてるかもしれないよな。」

ブッチャーは腕組みをした。

「ま、あたしたちにはわからないでしょうから、早く仕事に戻りましょ。」

恵子さんは切り替えが早くて、すぐに食堂に戻ることができたが、ブッチャーはまだ心配で、その場に残ってしまった。

「そんなに落ち込むな。しょうがないことだってあるさ。あんまりお弟子さんの私生活には介入しないほうがいいよ。今回は、運が悪いというか、そういうことだと思え。」

杉三が、ノロの肩を叩いた。水穂にしても今回の事件は衝撃的だった。新聞で、あの犯人の声明文が公開されていたために読ませてもらったが、こうするしか彼女を救う手立てがなかったと正直に告白しているところが、何とも哀れであり、がっかりさせたのである。

「お金があれば、何でもできる時代ではなくなったということでしょうね。僕のころは、まだ、お金が万能であるという主張が多かったですけど。」

「バーカ、お金が万能なんて昔っからそうじゃないよ。お金は、あれば便利で、ないと不便。それだけの話だよ。」

水穂が発言すると、杉三に皮肉を言われた。これに対して、反抗はできず、代わりにせき込んで返事がかえってきた。

「確かに、杉ちゃんの言う通りだと思います。私も、そのつもりで生きてきましたし。もちろん、月謝というものは必要になりますけれども、それよりももっとすごいものが、邦楽を教えるということにはあったと思うんですけどね。彼女には、それが何一つ伝わらなかったということですかね。」

「いつ頃から、ノロのところへお箏を習いに来てたの?」

ノロがため息をつくと、杉三が聞いてきた。

「ええ、小学生の時だったと思います。確か、お母様と一緒にうちの教室へ来られました。うちの教室、正式名は野村社ですが、子供さんにも教えることを始めたのは、ごく最近の事でしたので、まだ少ない子供さんの弟子として、よく覚えております。」

「何だ。子供のお弟子さんって、まだ持ってたことなかったのか。」

「そうですよ。基本的に、家元を名乗っている人に習いに行くのは、ある程度、実力ある人でないと来ないんですよ。」

「へえ!例えば、子供のころから音大の先生にピアノを習うということは、」

「まずありませんね。お箏とかそういうものは、まず師範階級の人に習いに行くことから始まって、家元に習いに行くという場合は、師範免状を貰った人が、さらに実力をつけるために習いに行くことになっています。」

「へーえ、めんどくさいねえ。はじめっから、家本先生には習えないんだね。そうなると、生徒さんは自動的に大人ばっかりか。」

「はい。少なくとも戦前まではそうなっておりました。しかし、この時代になりまして、邦楽を習いたがる人が急激に減ったため、私どもも、何か対策を取らなければということになって、初めてお箏を弾く、子供さんを受け入れることにしたのです。」

ノロは、時代の変わったことを象徴するようなことを言い始めた。

「でもお金がかかって、大変だったのではないですか?お箏って、元々、上流階級のために作った楽器ですから、入手するにもお金がかかるでしょう。かえって、洋楽のほうが安く済むと思うんですけど?」

水穂が、必ず発生してくる問題を口にすると、

「ええ、それを解消するために、私たちもかなり苦労したんですが、最近はメルカリとかいうものを使って、亡くなった祖母などの物を安く売る商売が流行っているようで、意外に高級なものが安価で買えることもあるようです。なので、私のお弟子さんの中には、必要なものはみんなメルカリで調達したという人も少なくありません。」

と、答えが出た。

「あったりまえだい。そういうものに頼らなければ、お前さんの弟子なんて、だれも来ないことを覚えておけ!」

「わかっております。私の仲間の中には、そんなインチキ商売に頼るなという家元も多くいますが、私はそれよりも、習いたいという気持ちが大事なのだと思うので、どこでお箏を購入したとか、そういうことは、あえて聞かないことにしています。」

「あ、そうなのね。よかった。それなら頭は正常だ。ちゃんと、一般人の気持ちがわかるわけだからなあ。どうも偉い人の感覚って、外れたところがあるからなあ。」

杉三は、がらがらと笑った。

「それで、お箏教室として、どんな指導をされていたのですか?」

水穂が聞くと、

「ええ、もちろん、日本の伝統ですから、それを学んでほしいという気持ちもありましたし、彼女も覚えがとても速くて、すぐに弾けるようになってくれましたから、それではと思い、古典を中心に教えてましたよ。楽譜もすぐに調達してくれましたし、何も文句なく上達してくれましたけどね。古典には、非常に奥の深い歌詞であることも多いので、そこを感じ取ってもらいたいと、稽古を続けてきましたが、まさか、こういう形でやめるとは思いませんでしたね。」

と、ノロは答えた。これが、習う側と教える側との大きなギャップなのだと思った。

「あー、そこが間違いだな。みんな、そんなに真剣に習おうとはしないから。単に、自分を癒すというか、現実社会から離れたいだけで、本当に中身を求めようなんて人はいないよ。そのくらい、わかってると思うんだけどなあ。」

「でも杉ちゃん、子供のころから習っていたのだから、ある程度続ける意思があったのではないの?」

水穂は、思わずそういってしまったが、杉三はお構いなしという雰囲気でつづけた。

「あー無理無理。子供の時は親の自慢くらいしか感じないよ。ある程度でかくなって、やっとお箏の魅力がわかったと思った時はもう遅い。その時は、既に金を稼ぐので精いっぱい。そういうもんよ、人間の人生なんて。」

「そうですね。確かにそういう理由で教室をやめていかれる方は、多いです。社会人になったからとか、親の介護がどうだとか。時にはまるでこちらが無理やり引き留めて、変な嫌がらせをするという方もいます。でも、中には本気でやりたいという方もたまにいますけど。」

「そういうやつはな。大体こうなるんだ。水穂さんみたいにここまで壊滅的な例は少ないが、多かれ少なかれ、おかしくなっちゃうもんなのよ。だから、下層階級が上流階級のものに手を出すなと、いい聞かせておかなくちゃ。これからの若い奴らには、それが一番重要だと教えることだぜ。それが一番足りないことよ。教育者の。何よりも、毎日ご飯が食えることほど、幸せなことはないんだからね。」

杉三が、水穂を指さしてそういうので、当り前の事とはわかっているけれど、自分も人生、とんでもない間違いをしていたなと、改めて感じた。いつか杉三が言っていた、

「お前もな、その顔だから、看病してもらっているようなもんだからな。それを忘れるな。」

という言葉が、一瞬頭をよぎってしまう。確かに、華岡さんのような不細工な顔だったら、ずっと放置されたままだったに違いない。

「だけど、杉ちゃん。少なくとも彼女は、杉ちゃんの言うような下層市民ではなかったと思うけどね。そこは新聞でよく報道されていたじゃないの。」

「そういえばそうだった。あの殺した男のほうが、平凡な河豚料理屋で、彼女にお付き合いを申し込まれても、断ったと言っていたな。」

水穂にそういわれて、杉三は頭を掻いた。

「だから野村先生だって悩んでいるんじゃないの。」

「そうだよな。そういう人なら、手を抜いて教えることもしないし。」

「ええ、私自身はそういう階級なんて気にしないですけど、彼女には、古典箏曲から何か学んでほしいと思って一生懸命指導してきたのに、それが通じないばかりか、この世を去ってしまうという形で終わったのが非常に悔しいのですよ。」

ノロはもう一回議題を吹っ掛けたが、

「ああ、もう、彼女が逝ったことはあきらめな。もう手の施しようがなかったんだよ。それでいいにしろ。」

杉三に一蹴されてしまった。

「それより教訓のほうを考えなくちゃ。事実には何か裏があるからな。それを取得するほうが大事なんだぜ。人間は生物的にいえば細胞とかそういうもんでできているんだろうけど、仏教では事実が人間を作ると、青柳教授が言ってた。すべて事実が積み重なってできてるってさ。だから、それを二度と起こさないようにすることが何よりも大事なんだって。」

「そうですねえ。それもわかりますよ。彼女はいつどこで希死念慮を持ち始めたのかに気づけなかったのかが、私達年長者にできなかったことでしょうしね。そして彼女が希死念慮を持ち始めたら、何とかしてそれを取りやめにするように、働きかけることもしなければなりません。それが今回の事件で一番大きな教訓だったと言えましょう。」

さすが、偉い人であり、すぐ答えが出るんだなあと、水穂は感心してため息をついてしまった。

「うちの教室にも、最近、若い方が沢山いらっしゃいますので、彼女たちの中には、意外にも居場所がなくて、教室に来ているという人もいるかもしれないですよね。そういう人に、野村社があってよかったという教室作りをしなければなりません。私も、インターネットの普及は認めますが、やはり生身の人間と接しないと、音楽は身につかないと思うのです。」

そういえば、動画サイトなどに、お箏の弾き方とか言って、説明をつけてお箏の演奏方法を投稿する人も結構いる。身近にお箏教室がない人のためにとか言って。でも、それでちゃんと弾き方が身に着くのかというと、そうではない気がする。

「そうだなあ。とにかくさ、上流でも下層市民でも、とにかくみんな苦しいからお箏を習いに来るってことを忘れないでくれよ。そして、今の若い人は、何かそういう場所がないと、簡単に命を落としてしまうってこともな。逆を言えば、それさえなければ苦労しないっていう人も多いということだけどな。」

杉ちゃん、いいことを言うが、僕みたいに、きたない人間とだれからも見られている人は、どこにも救いようはないんだよ。居場所なんて、作りたくても作れないんだ。と、水穂は言いたかったが、声を出そうと思ったところ、せき込んでしまった。

「おいおい、またやるのかよ。お前も最近、本当によくせき込むなあ。寒くなったから、そうなるのかなあ?そうだよな、先週まで夏みたいだったもんな、それが一気に真冬並みだもん、悪くなっても仕方ないなあ。」

謝ろうとおもっても咳しか出てこない。

「少し、休まれたほうが良いのでは?」

ノロに支えてもらって、水穂は布団に横になった。杉三もノロも、心配そうだけど、半分呆れているという雰囲気が見て取れたので、水穂は申し訳なく思った。


「今回の箏協奏曲は中止します!代理の曲を探しますので、希望する作曲家の名前があれば、どうぞ、ご発言ください!」

広上麟太郎はそういって、オーケストラのメンバーさんたちの顔を見ると、みんながっかりしたような顔をしていた。

「がっかりしないでください。協奏曲でなくても、すごい交響曲はいっぱいあるじゃありませんか。」

「先生、そういうことじゃないんですよ。もちろん、曲を演奏できなくなったのも、残念なことには残念なんですけど、」

一人の男性ビオリストが不満そうに言った。しかし、言いかけて黙ってしまった。

「じゃあなんですか。言ってみてください!」

「そうじゃなくて、先生のお力で邦楽家を呼び出せなかったことが悔しいのです。」

年老いたコンサートマスターが、そういった。それはちょっと、自分にとっては悔しい発言でもあった。

「先生は有名な方のはずなのに、日本の邦楽の先生には、敵わないのね。あたしたちは、みんなで新しいジャンルに挑戦できるって、楽しみにしていたんですよ。」

自分より年上のフルーティストが、ちょっと皮肉っぽく言った。彼女は、このオーケストラの中でも有名な美女で、結構発言すると支持者が多いことで有名だった。

「それにお客さんも、ベートーベンやブラームスの交響曲ばかりでつまらないと言っているじゃないですか。もう、テレビでも平気で使われているような曲もたくさんやってきたんだし。今更、そういうありふれた曲を演奏するなんてつまらないわ。」

と、彼女が続けると、周りからおおーっと声が上がった。つまり、洋楽はありふれた曲をやることに、飽きている者が多いのである。

「とにかくつまらないわよ。交響曲やるなら、ショスタコーヴィチみたいなすごいのをやりましょう。」

「ちょっと待って。」

例のコンサートマスターが発言した。

「そういう現代の曲をやるとなると、管楽器の人数が少なすぎます。二管編成では、とても足りないという曲ばかりになってしまうんですよ。」

「いやねえ、マスター。そんな嫌味。」

フルーティストは、女性らしい発言を口にしたが、

「いい加減にしないか!事実そうなんだ!そうなんだよ!」

麟太郎もやれそうな曲を思いつくままに考えたが、どれも確かに、今の二管編成では、とても足りない規模の曲ばかりだった。それも、金管楽器の数が、あまりにも足りな過ぎた。

こらだめかあ。そんなことを思った。

「それにしても、このオーケストラもずいぶんダメになったわね。広上先生なんていう、力のある人だったら、何か面白い曲をやれると思っていたけれど、ほかの先生を呼べないほど、力はないって知って、がっかりだわ。」

チェリストの、一人の女性がそうため息をついた。彼女は一応会社員であるが、音楽の知識は結構ある人だった。なので、自分の立場や実績なども知っていた。

「もしかしたら、先生、私たちの事を馬鹿にしていませんか?私たちが、オーケストラだけど、素人だからって?」

このセリフには少しカチンとくる。

「そうかもね。ただ、楽器が好きで、やってみたいと言っている人達、くらいしか見ていないんじゃないですか?だから、タクトだって、手を抜いてよいのではないかと思っているんでしょうね!」

あの、フルーティストが高飛車に言った。それと同時に周りから拍手が起きたため、彼女の支持率はとても高いことが分かった。同時に、自分が団員さんから、反感を持たれていることを知ってしまった。

「先生、私たちは、仕事をしたり、子育てしたりしながらも、音楽が好きですし、それなりに一生懸命やっています。もちろん、プロの人たちに比べたら技術も劣りますし、スピード感も出ませんが、それでも、しっかりやっているつもりですし、決して怠けたりはしていません。それなのに、先生は、私たちの意見をなぜ、反故にしたのですか?」

なんでまたそんなことを言うんだろうと思ったが、こんなにまくしたてられては、自分も力がないのかなと思った。これでは、いくら音楽を引っ張って行っても、組織のリーダーとしては、まるでダメである。

「理由なんて、ただ一つですよ。お箏の先生が、演奏したくないと言っただけの事です。それだけの事ですよ。」

「それって、先生が、説得できなかっただけじゃありませんの?やっぱり、邦楽の先生に比べたら立場は低いんですか?」

口ごもりながら、理由を言うと、チェリストの女性にそういわれてしまった。黙って言い訳を考えていると、また例のフルーティストがこう切り出す。

「あたしたちは、ただ音楽の好きな素人にしか、先生には見えないのかもしれないですけど、あたしたちはこれでも、忙しいのです。家族のためにやむを得ず仕事をしたり、育児をしたり、親の介護をしたりしながら、合間を縫って、練習に励んでいるのですよ。先生は、いつでもどこでも音楽ができる人じゃないですか。あたしたちと違って、音楽について、充分長く考えることもできるでしょう?だったら、できるだけあたしたちの要望に応えてくださいよ。あたしたちは、ただでさえ辛い思いを強いられている中で、心の安らぎとして音楽をやっているんですからね。先生はその辛い思いをしなくていいんですから、あたしたちに、よい音楽を提供できるように努めていただきたいものですわ!」

「い、いやあ。無理な要望は無理だってば、、、。」

とうとう、彼女にやり込められてしまった。

「先生も、フルートの田中さんも、けんかをするのはやめにしましょうよ。」

年を取ったコンサートマスターがそういうので、麟太郎も、フルーティストもがっかりしてだまった。

「先生、ここはもう一回、交渉に行ってもらえないでしょうか。お箏の先生にもう一度会っていただいて、私達オーケストラのメンバーも、お箏の先生と共演という初めての取り組みを、楽しみに待っていると伝えてください。」

コンサートマスターは、楽団の代表らしく、朗々と話した。そして、みんなを代表するように、

「お願いします!」

と、麟太郎に頭を下げた。

「先生、私達からもお願いします!」

メンバーさんたちも、全員頭を下げる。あのさんざん悪口を言った、女性のフルーテストや、チェリストさえも、だ。

それだけ、メンバーさんたちが楽しみにしていたんだなとわかると、麟太郎は、メンバーさんたちの懇願に、首を横に振るわけにはいかなかったのであった。



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