第四章
第四章
数日後。杉三と蘭が晩御飯を食べている丁度そのときであった。
「おーい、杉ちゃん、いるかあ。いたら、又風呂貸してくれないかなあ。」
「華岡だ。あーあもう、こんなときに、こっちに来るかなあ。もう、ほんとにタイミングの悪いときにやってくる。」
蘭は大きなため息をついた。
「まあ、しょうがないな。来ちゃったものはしょうがない。こんな寒い中で、外に出しておくわけにもいかん。いいよ、入れ!」
杉三がでかい声で応答すると、入れという言葉を聞く前に、華岡はもう部屋に入ってきていた。
「お、おう、杉ちゃん優しいなあ。ほんと、外はこごえるような寒さだぞ。頼むから風呂貸してくれ。さんざん悩み過ぎて、もう疲れちゃった。疲れたときは、ちょっと頭を冷やせと人は言うが、俺は、頭をあっためたい。」
「ああいいよ。多分さ、お風呂沸かして、そのままつけっぱなしで忘れてたから、きっと沸きすぎだよ。薄めなきゃ入れないから。ちょっと、工夫してみてくれ。」
杉三が、カレーの残りがあるかどうか、確認するために冷蔵庫を開けながらそういうと、
「ありがとうな。あーあ、もう。何だか、風呂に入らせてもらうのも、もうしわけないよう!そのくらい切ない一か月間だったよ。」
と、首を振り振り、浴室に向かっていくのだった。
「あーれれ。どうしたんだろう。馬鹿に元気がないねえ。何かあったのかなあ?」
「まあ、どうせ事件が解決しなくて、愚痴をもらしに来たんだよ。」
蘭は一般的なことを言った。まあ、いつも華岡が来訪する理由は大体それであるが。
「そうだけどさあ、それにしては度が過ぎてるぜ。今までにない落ち込みようだ。きっと何かあったんだよ。絶対。」
「どうせ大したことないよ。あいつのことだもん。でかいことじゃないのに、ああして大げさな顔して、風呂に入りに来るから、いい迷惑だ。」
「じゃあ、蘭の悩んでいることは、大したことになるのかいな?」
杉三がからかうように言うと、
「大したことというか、いつまでも頭の中から離れないで、ずっと悩んでるんじゃないか!もうからかうのもいい加減にしろ!」
と、蘭はでかい声で言った。
「ほらあ。そうだろう。それと同じくらい、華岡さんだって悩んでいるんだ。悩んでることをくらべっこしてならんぞ!」
杉三にいわれても、蘭は気が晴れることはなかった。
「悩み事は悩み事だ。」
「そんな風に、自分が誰よりも一番悩んでいるって顔をしているから、人間、いつまでたっても諍いがなくならないんじゃないのかよ!人の悩みを聞くってことも大事だぜ。その中から、解決のヒントがもらえることは結構あるよ、そのためには、まず、自分の悩みは持ち出してはならんぞ。」
勿論、それはそうだ。でも、華岡と自分がこの悩みについて共有しあうことは、先ずないのではないかなと、ある程度予測できた。
「杉ちゃんのいう事も間違いではないよ。でもさ、華岡と僕は根本的に悩んでいることが違うんだから、きっとな、御互いの主張を言い合うだけで、その全部がわかるということはできないよ。杉ちゃんは、読み書きできないから、そういうことを知らないだけ。誰でもわかると思っちゃうの。」
「悪かったねえ。どうせ馬鹿だからさあ。馬鹿なりに理解しようと思ってそういう方法を取っているのだが、悪いか?」
「ま、このはなしをしても、わかるはずがないな。もう、それはやめにしよう。」
蘭は、しんみりした顔でそういったが、
「そうかい。でもな、今日の悩みの内容は、いつもとはちょっと違うと思うよ。その証拠に、華岡さんがいつも風呂に入っている時に歌っている、炭坑節が聞こえてこない。」
と、杉三の声がそれを打ち消す。
「そういえばそうだなあ、、、。」
確かにそうだ。いつも華岡は、風呂に入るときは、大きな声で炭坑節を歌うのが常だ。もう、風呂中につきがーでたでーたー、つきがーでたー、よいよい、なんてでかい声が鳴り響くことが多い。意外にそれが威勢のいい、ベルカントだ、なんて評されたこともある。
「と、いうことは、やっぱり、、、。」
やっぱり何かあったんだろうか?ちょっと雰囲気違ってたな、と蘭も思い返すところがあった。
「あらあ、絶対裏でなにかあったな。もしかしたら、かわいい女の子にフラれたとか?」
「そのくらいだったら、いいよなあ。僕が悩んでいることとは、比べ物にならない。」
またそういうことを言ってしまう蘭であった。
「だからあ、くらべてはいかんよ、くらべては。」
「うるさい!」
と、蘭が言ったときに浴室のドアが開いた。
「あーあ、でたでたあ。いい気持ちだったぜ。四週間ぶりに風呂にはいったけど、いい気持ちだったよ。杉ちゃん、ありがとうな。」
「おう、いいってことよ。そこへ座りな。」
「あとは、美味しいカレーが楽しみだなあ。」
勝手に座る華岡に、
「四週間ぶりとは、不潔だなあ。やっぱりいつもと変わってないじゃないか。」
と、蘭は呆れていった。
「勘弁してくれよ。ずっと警察署に泊まり込みで、捜査していたんだぞ、こっちはあ。」
「で、悩んでるって何を愚痴りに来た?もうさ、僕らも忙しいんだから、手っ取り早くいいな!」
蘭が、そういうと、杉三が華岡の目の前に、カレーの皿を置いた。
「ま、積もる話は食べてからにしようぜ。まず、腹一杯食ってから、ゆっくり話してくれよな。」
「おう!」
華岡は、匙を受け取って、カレーを口にした。しかし、その味に感激して、男泣きに泣き出してしまった。
「うまいなあ。この、カレーがうまいという気がしていれば、あの女の子も死なずにすんだのではないだろうか。カレーの味もわからなかったのだろうか、あの子。」
「変なこと言うなあ。もっとしっかり話してくれよな。あの女の子って誰だよ?」
「おう、まだ事件の詳細は極秘なんだけどさ、少しずつ公開しようと思っているんだけどね。」
華岡は、一息ついて、やっと悩みをかたりはじめた。
「あのなあ、この間、大渕で若い女の子の死体が見つかったのを知ってるな。遺書もないし、かといって、犯人の手がかりも出ないので、事件は未解決になってしまうのかと思われたが。」
「なんだ、結局また事件の話か。お前の話はいつもそれだよな。」
蘭は、予想が当たったため、この先華岡が何を言うのか、なんとなくわかってしまったような気がして、そういった。しかし、華岡は話をつづけた。
「それがな、昨日、吉原港に近いところで若い男の死体が見つかった。死因は真河豚の刺身を食べたことによる中毒だ。例の女の子も真河豚による中毒で死亡しているので、もしやと思ったけど、彼女と血縁関係は全くなかったし、彼女の家族も面識はなかった。女の子の家庭は、ものすごい金持ちで、日常的に真河豚を食べるような家庭ではない裕福な家庭だった。家族も、こんな貧しい職人の男と知り合いになる理由なんて思いつかないって言っていた。学生時代の同級生とかでもなければ、会社の同僚でもなくつながりはなにもない。単に、女の子がSNSで知り合っただけのことだ。」
なるほど、よくある事件というか、最近それを利用した凶悪な大量殺人があったばかりだ。確かにあれば便利なSNSだが、やっぱりコミュニケーションの道具には、不向きなところもある。こうして悪用されると、規制する法律が少ないので、どんどん泥沼になってしまう恐れがある。
「それがなんだって言うんだよ。ただ、不倫関係にでもなって、ご両親にとがめられて、無理心中でもしたんじゃないのか?」
と、蘭はいったが、華岡の話は続く。
「いや、男が直筆で描いた遺書がでたので、はっきりした。いいか、パソコンではなく、直筆というのがポイントだぞ。筆跡鑑定もしっかりできている。大学ノートにしっかりとつづられていた。」
確かに直筆であれば、犯人が心中に見せかけるために、偽装工作したということはまずない。
「それによると、とんでもないお嬢様の女の子が、名もない河豚料理人の自分に、SNSで声をかけてきたことにさんざん悩んだそうだが、彼女の強引さに心引かれて付き合うことにしたそうだ。あるとき、彼女に真河豚を料理してもてなしたところ、うちの家族に食わせるんだと言って、一匹譲れと言い出した。もちろん、料理に問題があるが、べつの店で料理してもらうからよい、なんていうので、おかしいなと思いながらも一匹譲った。すると、翌日に女の子本人が真河豚を食って死んだと知った。単なる事故だとおもったが、彼女がずっと前から自殺したいと、盛んに口にしていたのを思い出した。冗談だと思って聞き流していたが、冗談ではなく、本気だったんだとそこで初めて知った。俺は彼女を止めてやれなくて、本当に悪いことをしてしまい、後悔しきれないので、俺も逝きます。と、書いてあっただよ。」
「切ない話だねえ。でも、そいつはまだ偉いよ。ちゃんと彼女を止められなかったってわかってるんだし、それを決着つけるために、おんなじことをしたんだから。ただの自己本位の殺人鬼とはちがうよね。そして、本来であれば、彼女をとめてやるべきなのもしっている。」
華岡が事件の全容を語ると、杉三もそれに同調した。
「でもさ、杉ちゃん。彼女だって他の大人に相談することは、できなかったのかな?ほかにだれか家族とか、学校の先生とか、いなかったんだろうか?」
「あ、無理無理!特に若いのは、自己主張なんて、よほどでない限りしないよ。日本人は、家族のためをおもってがまんする文化があるからね。家族のために、わざとぶち当たらないで、自ら悪い方に飛び込み、平和を保とうとする種族なの。相談なんてな、よほどの馬鹿じゃない限りしないよ。まして、優等生なんてな、親と会話なんて全くするわけないだろうし、親も先生も敵視するほうが多い。だから、そういう全然わからないやつの方をかえって信じちゃうもんなのよ。身近な大人なんて、役にたつもんじゃありません。ま、今回のことは、確かに切ない事件かもしれないが、どっちもどっちの話だから、そうするしかなかったと思って、いい加減にあきらめな。」
「そうかあ。そうだよな。杉ちゃんがそうポンポンいってくれて嬉しかったよ。まあ、そういうもんだと思うことにする。俺、この事件を担当したとき、本当に切ない事件だとおもって、もう泣いてないてどうしようもなかったんだ。部下にはばかにされるしさ。でも、理由がはっきりしたから仕方ない。まあ、今回は仕方ない事件だと思い、俺はそれでも生きていくさ!」
華岡は、納得してくれたようだったが、蘭はどうしても納得できなかった。
「でもよかったねえ。男のほうが、快楽殺人者じゃなくてさあ。そこがなんだか、神様がくれた贈り物ってかんじだなあ。」
「そうだなあ。女の方も、自殺するのはよくないが、男の方も殺人を後悔するというしっかりとした良心をもっている。それはわかる。だから、二人とも悪い人間ではないってことさ。善良なやつ二人がそういうやり方で苦しみから逃げたってことだ。ある意味、究極の愛かもしれん。うーん、若い二人の、純粋な、でも間違った愛情かなあ。」
「多分、女は事件として明るみにすることは、してもらいたくないと思ってたんじゃないかな。でも、男の方は、周りに気がついてもらいたかったんだよ。つまり、女はよいうちのお嬢さんだが、深刻な悩みをもっていたんだな。きっと、そういう子が悩むことって、僕らからみると大したことじゃないだろうけど。いわゆる金持ち病だよな。メンデルスゾーンみたいにな。」
杉三は、からからと笑った。
「確かに、悩めるということは、あるいみ金持ちの特権でもあるよなあ。」
華岡の発言に悪気はないが、蘭はそこにはかちんときた。
「ちょっと、杉ちゃん。」
「我慢しなよ。人の話と自分の話を結びつけて、勝手に怒り出すような真似はしてはいかん。」
杉三に言われても蘭は怒りを止められなかった。いや、怒りというより悲しみというほうがよいだろう。最近は、原因もかなりわかってきているからである。
でも、ここは親切な華岡だ。それ以上蘭を叱るようなことはしないで、彼なりに優しくこういった。
「蘭、お前もさあ、それじゃあ悩んでいること、話してみたらどうだ?俺は刑事として、犯罪の最大の予防策は、それしかないとおもうぞ。まあ、ワクチンみたいに誰もが効くというわけではないけどな。」
でも、目の前に杉ちゃんがいる以上、また説教されるのかと怖くて、言えなかった。
「お前、水穂さんのこと考えてたの?」
華岡に聞かれて、蘭は黙って頷いた。
「図星か。きっとな、あいつはお前が自分のことで悩んでると、金持ち特有の、憐れんでやっている、みたいな優越感がみえちゃうんだよ。それが辛くて製鉄所に来てもらいたくないんだよ。それ、俺もなんとなくわかる気がする。」
「それに、蘭はものすごい金持ちであり、母ちゃんは、天下の母御前と呼ばれたほどのすごい奴なんだし。そんなに恵まれた奴に、心配されても、かえって笑いものにされているみたいで、嫌な気がするよねえ。」
華岡と杉三は相次いでそういうが、蘭は、それでも不満なままであった。
「答えはそうかもしれないが、心配してはいけないのかい?あいつが、フランスから帰ってきたときいたので、久しぶりに会いにいったけど、なんだか白髪が一気に増えて、もう、疲れ切っていたという感じだったよ。また何かしでかしてきたのかなと、正直心配でたまらなかったよ。」
蘭は、心配そのものの気持ちを、自身で表現したつもりだったが、
「まあな、確かに毛染めは疲れるよな。俺もたまに、床屋でやってもらうんだけど、結構体力使う。やってくれる人には気を使うしね。もともと、体力のないあいつのことだし、毛染めするのも難しいよ。」
と、いう華岡に邪魔されてしまった。
「へえ、華岡さん、毛染めしてるの?」
「ああ、一応、若い部下にばかにされないようにな。」
そういう華岡は、染めても染めなくても、たいして顔つきも変わらないのではないだろうかと思われるのだった。
「ま、華岡さんが、毛染めしても変化は別にないが、水穂さんが白髪になると、容態が悪くなったとわかっちゃうのはなぜだろう?」
「杉ちゃん、それは言わないでくれよ。つまり水穂さんがよほど綺麗といいたいんだろ、俺はやっぱり、ヴロンスキーには敵わないのかあ。」
「バーカ。あんな不倫男とは一緒にすんな。あんなだらしない男とは偉い違いだぞ!」
そういって、がらがら笑う杉三や華岡をみて、やっぱり話しても無意味だったなあと蘭は思うのだった。
「結局、僕はさ、水穂にも杉ちゃんたちにも邪魔な存在になってしまうのかな?」
「なんないよ。お前は、また何か必要になるときも来るよ。その時が来たら大いに活躍すればいいのさ。それが来るのを待っている気持ちでゆっくりやれや。」
華岡は、そう蘭を励ましたが、蘭はさらに落ち込んだ。
「たとえば、経済的に力になればいいじゃないか。これから、また難しい治療が必要になったら、お前は惜しみなく金を出してやれよ。」
「いや、それもどうかと思う。今は、僕より波布のほうが、よりあいつに接触して何か提供してやっているような気がする。」
「波布?あ、曾我正輝ね。」
蘭が正直に本音を言うと、華岡も説得するように言った。
「まあでもな、ここは曾我に任せたほうがいいと思うよ。確かに、あいつは、一時期不法な思想に凝り固まっていたこともあったから、ちょっと俺たちがマークしていた時期もあったにはあったけど、少なくとも今は、法に触れることはしていないよ。あいつはお前よりも年上だし、いろんな企業を買収して、必要な人に必要な支援もしているし、支持者だって、たくさんいるだろ。時には、そういう強い者の力を借りることだって悪いことじゃない。それに、どうしても資本主義に固まると、生産性のない人は見捨てられちゃうことが多いだろ。セクハラとか、パワハラとか、なかなか人間として扱ってはくれなくなるじゃないか。そういう人はやっぱりああいう思想を持っている人のほうが、手を出しやすいということは確かにあるぞ。」
「何だよ華岡。お前までそんなこと言うのか?そんなことに拘らずに、だれでも同じように扱われる権利はあるはずでは?」
「蘭は、ドイツで非難してたから、そういうきたないところは見ないで育ったのが、幸運だったね。基本的にヨーロッパの社会では、だれでも同じ人間としてみるからね。でも、日本ではそうじゃないぜ。誰でも同じなんて、水穂さんに言ってみな。血だらけの手で、ぶん殴られること請け合いだ。」
華岡の代わりに、杉三がそう答えた。
「うん、俺も杉ちゃんの言う通りだと思う。犯罪を調べるのは、日本の悪い面をほじくり返すようなところがあるからな。そうなると、よくあるのよ。仕事の能率がよくない従業員を、自殺に追い込んで殺しちゃったとか。それはやっぱり、金儲けを優先させる、資本主義の悪いところでさ、日本ではそれが染みついてるから、水穂さんみたいな人はどうしても、非難の目が行きやすいのよ。だから、それを割と持ちにくいってのは、その正反対である、共産主義者のほうが多いのよ。」
「そうそう、それに、蘭の家は昔から高級な紙ばっかり作っていたんだし、当然相手にしていたのも金持ちばっかりだろうからね。それよりも、地べたを走り回って生きてる人間に目を向けてきた奴のほうが、意外に親切な時もあるよ。」
華岡と杉三は、蘭にとっては聞きたくない話を始めた。
「まあ、大体のやつは、金持ちか貧乏かのどっちかに偏って、互いに目を向けるなんてしないからね。まずはそこを否定することから、始めないとね。」
「そういうこった。蘭は、今は休む時だと思ってゆっくりやれ。」
杉三たちがそんな結論を出してくれたが、蘭は、地獄に落ちたような、そんな気持ちになってしまったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます