「月が綺麗ですね」なんて思わないで。
星陰 ツキト
月明かりのもとで
___僕は、「月が綺麗ですね」という言い回しが嫌いだ。
――
――――
―――――――
愛する人とふたりきりで歩く夜の浜辺。
僕と君以外は誰もいない。
ザブン、ザブンとゆったり打ち寄せる波の音以外、何も聞こえなくて、僕と君との間にも会話はない。
そこにあるのは、空高くから僕たちを見下ろす、満ちかけている月だけ。
時折、海風が僕たちの髪の毛を揺らしては去っていく。
腰より下まである長くて艶々した黒髪が、君の背中で揺れる。
幾重にも重なった君の衣服の裾が、君が一歩踏み出すたびに、砂浜をかする。
隣を歩く君に対する想いが高まる僕。
いよいよ愛してるよ、と君に言いたくなるけれど、臆病な僕は気恥ずかしくて違う言い方をしようと考える。
見上げた先に輝く月は、たしかに綺麗だ。
けれど、「月が綺麗ですね」と言うことが、君に愛を伝えることだとは僕は思えない。
だから僕は、ほかの言い方を考える。
___月が綺麗ですね。
たしか、この言葉が"愛してる"という意味をもった発端は、夏目漱石が「I love you. は、月が綺麗ですねとでも訳しなさい」とか言ったからだっけ。
これはいい。別に、これはいいんだ。
でも、現代の人間が何も考えずにこれを使うのはあまり良い気がしない。
「月が綺麗ですね」なんて言葉で告白する人は、ストレートな言葉で言えない僕みたいなただの臆病者としか思えない。
どうして、夏目漱石はアイラブユーをこのように訳したかなんて知らないし、知りたいとも特に思わない。
けれど、僕はこう思う。
月は昔から、和歌にもよく登場してきた。
月は、"遠くの人どうしを結びつけるもの"であった。
月はどこからでも見えるから、月を見て「ああ、あの人も今頃、同じ月を見ているだろうか」なんて、遠く離れた愛する人に思いを馳せる。
だから、月が綺麗だと思うことがアイラブユーに通じるのは、今は会えない愛する人と、月を見ることだけによって唯一、繋がることができるからなのではないか。
もちろん、ただ単に夜空で光輝く月が美しいというのもあるだろうけれど。
「月が綺麗ですね」と言ったことのあるどれだけの人が、自分なりの考えを持って言っただろう。
まあ、そんなこと僕にはどうでもいい。
とにかく、自分のすぐ横にいる、毎日のように会っている恋人とか、または恋人になりたいと思っている人に「月が綺麗ですね」、なんて言うのはあまりにも滑稽だと思う。
電話とか、手紙で言うならまだしもね。
もちろん、月を見ながら。
だから僕は安易に「月が綺麗ですね」なんて言いたくない。
実際、君は僕から遠く離れた場所にいるわけじゃなくて、僕のすぐそばにいるわけであるし。
とは言え、冒頭でも言ったように僕は臆病で、勇気がない。
愛してる、と率直に伝える勇気がない。
ふと隣を見ると、月が照らす君の横顔が目に入る。
ああそうか、僕だけじゃなくて、月もこの美しい君を見ているのか。
途端に、月も君に恋してしまうんじゃないかと不安になる僕。
アイラブユーと伝えようと決心していたのに、それがみるみる月のせいで打ち砕かれてゆく。
そんな僕のざわついた心の中など露知らず、僕たちを照らし続ける僕のライバル、月。
だからきっと、僕のアイラブユーは、「あなたを独り占めしたくて、月さえ邪魔だと思ってしまいます」だな。
なんという言葉でアイラブユーを伝えるかは決まったものの、不安で、それを君に伝える自信がない僕。
そこで、臆病な僕はあることを思い付く。
そうだ、君に少し探りを入れてみればいいんだ、と。
月をどう思うか探りを入れてみればいいんだ、と。
ほら、君がある男の人に好意を持ってるかもしれないときに探りを入れるみたいに。
あの人、格好良いよね。って言ってみて君の反応を見るときみたいにね。
「ねえ、あのさ。
月が綺麗ですね。」
僕がぎこちなく発すると、君はこちらに顔を向けて、微笑んだ。
「君でも、そんな言葉を使うんだね。」
ははっと面白がるように笑った君。
月も、この美しい君を見てる。
どうか、僕だけの前にしてよ。そうやって笑うの。
「それで、月を君は綺麗だと思うの、どうなの。」
君の返事が待ちきれなくて、思わず急かす。
余裕がない僕を、月が嘲笑ってるようで情けなかった。
「君は私に、私が君を愛してるかどうかを聞いてるってことでいい?」
少し恥ずかしがりながら顔を正面に向け直す君を見て、はっとした。
そうだ、この言葉は「愛してる」っていう意味になっちゃうんだった。
頭の中がパニックで、そんなことも失念していた。
「ううん。
ただ単に、月が綺麗と思うかを聞いてる」
胸に秘めた、この言葉の意図は言わなかった。
君は特に残念な素振りをするわけでもなく、こたえた。
「綺麗だけど、
君の方が綺麗、かな。」
しゅうん、と風船のように語尾がしぼんだ。
僕は心の中で思わずガッツポーズをした。
月め、僕は君に勝ったぞ。
月を見上げると、「別にお前なんかと争ってない」と言われているようで少し腹が立ったけど、上機嫌な僕にはなんてことなかった。
「ねえ、」
僕が震える声で控えめに声をかけたら、君は再び僕の方に顔を向けた。
あともう少しだけ、勇気を出すんだ、僕。
「僕、君をひとりじめしたくて、月さえ邪魔だと思ってしまうよ。」
「それが、アイラブユー?」
「うん、僕の君だけへのアイラブユー」
「月に嫉妬でもして、私の気持ちを試すために『月が綺麗ですね』なんて言ったの?」
「うん、まあね。」
やっぱりね、とけらけらって笑う君。
「君のことだから、『月が綺麗ですね』なんてむやみやたらに使い古された言葉、使うはずないのにって思ってたけどそういうことだったのね」
「うん」
「私は君を、愛してるよ」
そう言って、いたずらっぽく僕を見る君には、なんでもお見通しで、僕にはかなわないみたいだ。
なんだか悔しいけれど、もう時間切れだね。
「じゃあ、ね。」
「うん、またね。」
僕は立ち止まり、君は歩き続ける。
君はゆっくりと、僕には見えない空中の階段をのぼっていく。
月が綺麗ですね、なんて言葉、嫌いだ。
人々がなんにも考えずに使いまくる言葉だし、何より月は君を僕から無条件に奪うんだもの。
そんな僕のライバルを、綺麗だなんて言えるわけない。
背中の黒髪が儚げに揺れるのを見て、涙がこぼれそうになる。
僕は、すでに遠く離れた君に向かってぽつりと呟いた。
「さようなら、かぐや姫。」
もう完全に見えなくなってしまった君。
ただひとり、月明かりのさす砂浜で力なく佇む僕。
ああ、君が月にいるなら、月を綺麗だと言うのも悪くないかもしれない。
「月が綺麗ですね」
僕の小さな声が、波音のなかにむなしく消えた。
「月が綺麗ですね」なんて思わないで。 星陰 ツキト @love-peace
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