エピローグ 穢れなき供物
■
深紅が消えると同時に、
彼女の『
白い糸で覆われた部屋は元の廃ホテルの姿を取り戻し、
繭にとらわれていた美女二人は身体の支えを失って床に伏した。
深紅の存在していた痕跡が、世界からじわじわと消えていく。
ももかはそれを、ただ黙ってジッと見ていることしか出来なかった。
そうして糸が、全て消え去っていった。
―――ただ一つ、ももかの小指に巻き付いた赤い糸の切れ端を除けば。
深紅を抱きしめたことでブレザーについた血痕もそのままだ。
ももかの体から湧き出ている『霊力』が、
彼女の身の周辺にあった深紅の痕跡のみをこの世に留めてしまっていたのだ。
制服の血痕を見つめながら、
ももかは中学時代のあの日のことを思い出す。
あの日―――副担任の教師に襲われた日。
涙で制服が濡れるのも構わず、ももかを抱きしめてくれていた深紅の姿を。
ホテル内に残った人影は4つ。そのうち意識のハッキリしている者は二人だけだ。
"正常"を取り戻していく世界の中で、"異常"な出来事の
「……美桜ちゃんなんだよね?」
先に口を開いたのはももかだった。
ももかにはどうしても気になることがある。
どうしても、美桜に問いたださねば気が済まないことが。
「深紅ちゃんにあんな力を与えたのは、美桜ちゃんなんだよね?
貴女は前に言っていた……。
―――『鬼』にはそれぞれ、"目を付けた人間"のことを自分好みの命に『調理』する習性がある、って。
深紅ちゃんは、"綺麗な女の子"を『苦しめること』で、
自分好みの肉を作り上げていた。
貴女にも、"穢れた人間"を『調理』する習性がある……。
その方法っていうのは……きっと……」
弱弱しい声で語るももかの姿を見て、―――しまった。と美桜は思っていた。
深紅との戦闘中、気持ちの昂ぶっていた美桜は、
余計な口を滑らせ過ぎてしまっていた。
『貴女に種を撒いて正解だった』
『貴女が覚醒するのをどれほど楽しみにしていたと思っているの?』
美桜の企みをももかに悟らせるには、充分すぎるヒントの数々だ。
「―――人間を『鬼』に変えて、沢山の人間を食べさせること。
それが……貴女の『調理』法。
そうだよね?美桜ちゃん……。
失踪事件が起きたのは―――深紅ちゃんが何人もの美女を攫い始めたのは、
貴女が私にこう言った直後のはずだよ。
『もうすぐ私は、極上の穢れた命を手に入れる』」
「……ふふ。名探偵ね。貴女は」
ももかの問いに対し、美桜はごまかさず正直に白状した。
真っ直ぐに自分を見つめてくるももかの瞳から、目を逸らしながら。
そんな美桜の仕草を見たももかは、自分の憶測の正しさを知ると共に、
"大事なお友達"に裏切られたことがショックで、瞳に涙を浮かべた。
―――残酷な人だとは知っていた。冷酷なバケモノだと分かっていた。
それでも、私の推測が外れていて欲しかった。
貴女が、深紅ちゃんを狂わせて殺しただなんて知りたくはなかった。
「ずるいよ。なんでこんな時に限って嘘ついて誤魔化してくれないの?」
「『鬼』に関することにだけは貴女に嘘ついたことないもの。
……私の『調理』法は、貴女の推測どおりよ」
美桜の言葉を聞くなり、耐え切れなかった涙がももかの頬を伝って流れ出た。
―――この人が、深紅ちゃんを鬼に変えた。
この人さえ居なければ失踪事件の被害者は居なかったし、
深紅ちゃんだって……何も命を落とすことはなかったんだ。
"大事なお友達を傷つけられたなら、
傷つけた相手のことを許せなくなってしまう"。
……私はたぶん、この人を許してはいけないんだと思う。
「何よ、私が
……よく分からないわ。貴女の気持ちが。
貴女を苦しめてきた人が居なくなったのだから、素直に喜べばいいじゃない」
「喜べるわけ、ないでしょう?」
しつこく食い下がってくるももかを見て、
美桜はいい加減、苛立ちを隠せなくなっていた。
―――彼女から責められなくてはならない道理なんてない。
私が人を喰らうことは人間共が家畜を喰らうのと同じこと。自然の摂理だ。
大体、蘇芳村深紅はももかを傷つけ続けてきた相手じゃない。
……あの女が居なくなって、貴女だって内心では嬉しがっているくせに。
なぜそうもカマトトぶるのよ、貴女は。
「じゃあ貴女は、一瞬でも彼女を憎んだことがないと言えるのかしら?
……自分の居場所を奪い続けてきた、蘇芳村深紅のことを」
美桜は、勝ち誇ったような表情でそう言い放った。
―――私は知っている。
貴女が蘇芳村深紅のことを一瞬でも、
"世界で一番浅ましい人間"だと思ったという事実を。
あの日、私に二度目の吸血をされた際、
血液に乗って一瞬だけ流れ込んできた貴女の負の感情を、私は忘れていない。
ももかの心は『嗅覚』では悟れない。
彼女の内面を悟る手段は仕草や言動にしかない。
だが、ももかが深紅を浅ましいと思っていた事実だけは消えることはない。
彼女はきっと、綺麗ごとを並べるだけの薄ら寒い偽善者だ。
その辺によく居る嘘つきの大人と一緒だ。
これ以上私を苛立たせるようなことを言うのなら、
いっそこの場で食い殺してやろう。
美桜は鬼の右手に力を込め、その鋭い爪を光らせる。
だが―――。
「……そうだね。
一瞬でも憎んだことがないって言ったら、嘘になるかもしれない。
前原先生との一件があったとはいえ、罪滅ぼしだって意識があったとはいえ、
あの子のせいで辛い思い沢山してきたのは事実だもん」
ももかは肯定した。自分の浅ましさを認めた。
―――ほら見なさい。人間なんてこんなもの。
だったら喜べばいいのよ。彼女が居なくなったことを。
「だけど、だけどね?
私はいま、深紅ちゃんが居なくなってすっごく悲しい。
こんな風にならなくていい道があったんじゃないかな、って。
私がもっと彼女にしてあげられることがあったんじゃないかな、って。
今さらになって思ってる。
ずるいのかな?居なくなってからそんなこと思うのは。
あの子とは沢山すれ違って、こんな風になっちゃったけど、
それでも彼女は、私の親友だった。
小さい頃からいつも一緒で、姉妹みたいに育ってきた、大事な、人だったんだ。
死んでほしいとまでは思えなかったよ。
生きていて欲しかった。……たとえどれほど傷つけあったとしても。
深紅ちゃんのこと、ちょっとは憎んでたよ。
だけどそれ以上に大切だとも思ってた。
誰かを愛する、ってそういうことなんだと想う。
……助けてくれて、ありがとうね。
だけど、それとこれとは別だよ」
―――憎しみ以上に、大切だと思っていた?
あれほど自分を傷つけた相手のことを、愛していた?
そこまで深き愛情など、人間風情が抱けるはずはない。
人は皆、己のためなら平気で他人を傷つけられる『
ももかの言うことは、口先だけの偽善ではないのか?
そう考えつつも美桜は、ももかの言葉に心を揺さぶられていた。
目の前の少女がどれほど優しい人間なのか、
美桜は初めて逢ったときから知っている。
初めて出逢ったあの夜、初めて啜ったももかの血。
不味い血とともに美桜の中に流れ込んできた、清らかで暖かい、その魂のニオイ。
不味くてたまらないのに、
啜っていると酷く落ち着いて、
その心にずっと触れていたいとすら思わせる、
あの清らかな命の味を美桜は知っている。
―――私はあの夜、彼女を殺せなかった。
美桜は変身を解き、
ももかの身を裂くために構えていた鬼の右手をだらりと下ろした。
……否。その身を裂いてやろうなどと思っていたのはただの強がりで、
そんな気は最初から毛頭なかったのだ。
美桜の全身から赤色が消える。目も髪も黒一色に染まり、
右手はか細い女の腕に戻っていく。『鬼』は消え去り、黒い女が現れた。
「はぁ……」と、美桜が深いため息を吐く。
―――こんな不味そうな肉を食い殺そうだなんて、どうかしていたわ。
そう自分に言い聞かせて、
人食いのバケモノとしてのプライドを守った。
「呆れたわ。……どこまでも清らかな子。だから貴女は不味いのよ」
美桜はそう吐き捨てて、
血まみれのももかと床に伏す美女を置いて、一人、夜の闇の中へと姿を消した。
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