第2話 魔女のささやき (3)


「美桜……ちゃん?どういう意味……なの?」


ももかの声―――砂糖菓子のように甘いアニメ声が、美桜の耳奥で響く。

もはや我慢の限界だった。全校生徒が300人余りにも上る高等部の学び舎―――多くの人間に囲まれた環境の中に、美桜は朝から居る。

ここ3年ほど、人里を離れて生きてきた。こうして久々に大勢の人間に囲まれてみると、免疫が薄れたせいか、食欲が昂ぶってきて仕方が無い。

朝から耐え続けてきた衝動を、もはや抑えることが出来なかった。


美桜は腕力に物を言わせ、ももかの制服の上着を無理やり剥ぎ取る。

襟を掴んで力任せに引っ張ると、ブチッ!と音を立ててボタンが弾け飛んだ。

露になったももかの首筋―――昨日の噛み跡を色濃く残す柔肌を見て、美桜は生唾を飲み込んだ。


「やだ、なにするの!?美桜ちゃん!」


混乱するももかは涙目になりながら、"お友達"の名を呼んでその行為をやめさせようとした。


「いや!いやだ!痛いよ、離してよ美桜ちゃん!こんな、こんなことしないで……!」

「貴女に拒否権などないのよ」


馬乗りになったままの美桜は、ももかの両腕を片手で束ねて掴み上げ、床にグイと押し付ける。

そうしてももかの首筋に唇を近づけ、そっと口付けるように柔肌に牙を立てた。


「ぐぅっ!あ……あぁ……ぁ……!」


痛みに喘ぐももかの様子などお構いなしに、美桜は容赦なくその生き血を啜る。

この女の血は相変わらず不味い。肉だって食えたものではない。

それでも、沸き起こる食欲を押さえ込むには十分だった。

いや、むしろこの不味さこそが良い。

食欲を抑えるための"ダイエット食品"として、とても良い。


遠目から見ればいかがわしい行為をしているかのように映る、二人のシルエット。

そうしていると、コツ、コツ、と廊下を歩く靴音が階段の向こうから聞こえてきた。


誰かが、近くに来ている。

そう悟ったももかは、美桜に血を吸われながら、その人物がこの廊下を通りすがるのをじっと待った。

やがて突き当たりの曲がり角から一人の女性教師が姿を現す。

―――美術の先生だ。仮にも教師なら、この光景を見てすぐに止めに入ってくれるはずだ。

ももかは救いを求める亡者のように、美術教師のほうへと手を伸ばした。


「助けて!!先生!!先生!!」


―――しかし、どれほどももかが叫ぼうと女性教師は二人の間に割って入ることなどなかった。それどころか、何食わぬ顔で二人の横を素通りしていく。

ももかの表情が、絶望に染まる。見捨てられたのだ。先生に。

教師のその素振りは、まるで美桜とももかの姿が"見えていない"かのようだった。


「先生!待ってよぉ!見捨てないでぇ!」

「んふ……うふふふふ。可愛らしい……可愛らしいこと。あなたがどれほど助けを呼んでも無駄よ。私達の姿はいま、誰にも見えていないもの」

「どういう……意味……?」


美桜は一旦身体を起こすと不敵に笑い、泣きじゃくるももかに言い聞かせた。


「私は人の認識を操ることが出来る。『鬼の幻惑』能力を使ってね。この能力を使って、私たち『鬼』は永い歴史の中、人を惑わせ陰に隠れながら生きてきた」


『鬼の幻惑』。人の、認識を操る能力……。

美桜の言葉を聞いた瞬間、ももかの頭の中で、全ての謎が繋がっていった。

「それじゃあ……貴女が3日前に転入してきたことになってるのも、皆が新田くんのことを覚えていないのも……」


ぴかぴか。ぴかぴか。

突如目に飛び込んできた稲光に怯み、ももかは言いかけた言葉を呑んだ。

やがて、ピシャァン!と落雷の音が遅れて響き、校舎全体を微かに振動させる。


美桜は雷が落ちる間、見開いた黒い目で、ももかの瞳をずっと覗き込んでいた。

やがてその整った口の端を吊り上げて、目は笑わないまま口角を吊り上げた、邪悪な笑みを浮かべる。

目元までくしゃりとさせて、柔和な笑顔を浮かべていた人物とは、別人のように。


「ふふっ……そう、そうなの……。

やはり貴女には、私のチカラが通用しないのね。

……稀に居るのよ。そういう『素質』を持った人間が。

そうか。……だから夕べ、貴女の気配ニオイだけは感じとることが出来なかったんだわ」

「じゃあ、や、やっぱり、貴女は……貴女は……。

昨日のバケモノ、なんだ……っ!」


美桜の正体を悟ったももかは、その身をガクガクと振るわせ始めた。

何せ正真正銘の人食いのバケモノに押さえつけられ、いつ殺されてもおかしくない状況のまま、血を吸われているのだ。

恐怖に歪み、いまにも泣き出しそうな表情のももかを見て、美桜は愉悦を感じていた。


「貴女の血は不味い。もっと醸成させなくては、飲めたものではないわ。だから私の事を憎んで、怖がりなさい?

―――恐怖、絶望、憎悪、強欲、嫉妬……ありとあらゆる負の感情こそが、人を極上の肉へと変える最高のスパイスになる。

私の好きなお肉とは、負の感情によって穢れきった人間の血肉よ?」


美桜は再び、ももかの顎の下に唇を近づけ、キスをするように牙を立てる。

美桜のリップ音が響いた後、ももかの首筋から血が滴り落ち、水色の下着の、その肩紐の一部分に小さな赤い染みを作った。

首筋から肩にかけて、赤い滝が出来上がる。その血を舐め取った美桜が微笑んだ。


「不味い。不味いけど、食欲を抑えるには丁度いい味ね。

ダイエット食品にうってつけよ。貴女は。


……昨日の肉も中々だったけど、私は……もっと美味しいお肉を食べたいのよ。

さっき貴女に話した通り、私はこだわりが強いから……。

ねえ誰がいいと思う?この学校の中で、誰が一番穢れた人間だと思う?

……教えてよ。お友達のよしみで、ね?」


ももかの胸元に顔を埋め、その身に抱きつきながら美桜は残酷な質問を放つ。

ももかより20cm以上身長の高い美桜がももかに覆いかぶさり、淫靡な上目遣いを投げた。

ももかは思った―――あぁ、このヒトは魔性の女だ。

甘えるような声。上目遣い。愛らしさを突き詰めたような仕草の数々で、恐ろしさを突き詰めたような言葉の数々を放つ。

彼女の放つ言葉はまるで、御伽噺に出てくる魔女が放つソレのように、恐ろしさと冷たさに満ちていた。


もしも御伽噺の魔女が世界で一番の美貌を持っていたならば、『美』という概念に執着を抱かないはずだ。

姫の美貌に嫉妬することもないだろう。ただ、自分とは魔逆の―――『美』の対極に在る『醜』へと憧れを抱き、思いを馳せるようになるのではないか?


欲を満たした者には退屈が訪れる。退屈は人を狂気へと導く。

世界で一番の『美』を手にし、それに飽きた魔女は、ただ退屈を埋めるためだけに真逆の『醜』をかき集め、弄ぶのだ。


美貌の魔女が、鏡に問う。

―――ももかよ、ももかよ、ももかさん。


「ねえ私に教えてよ?




……この学校せかいで一番、浅ましい人間はだぁれ?」





 昨日の凄惨な光景は、夢なんかじゃなかった。

そして、さっきまでの私が見ていた"育ちのよさそうな美人のお友達"は、全部彼女の演技の賜物だった。

そんなショックな事実と、彼女の牙からもたらされる痛みがい交ぜになって私をいたぶる。目尻に雫がたまっていくのを、私は感じていた。

……辛い。もう、声を上げて泣いてしまいたい。


「……痛いでしょう?苦しいでしょう?早くこの責め苦から開放されたいでしょう?」


天使のように、透き通る声。聞いていて安らかな気持ちになるほど優しげな声色で、美桜ちゃん……いや、赤月さんは私に問う。

飴と鞭。その優しい声色は、飴なのだ。

私を屈服させ、支配するために放たれた、優しい飴玉。


『開放されたいでしょう?』だって?

そんなの、当たり前だ。痛いし苦しいし、それに怖い。


だったら、『一番浅ましい人間』が誰かを答えれば彼女は私を解放してくれるだろうか?

一瞬、そんな考えが頭をよぎったけれど、私は瞬時に自分の考えを否定した。

そんな問いに答えるわけにはいかない。答えればきっと、その人は必ず、赤月さんに食べられてしまう。

バンドの人たちみたいに四肢をもがれ、首を跳ねられ、新田くんのように魂まで喰らわれてしまう。

そんなの、絶対ダメだ。


「答えなさい。さもなければ、このまま貴女を食べてしまうわよ?」


そう言って赤月さんは私の首に立てた牙を、より深く突き刺した。


「がぁっ!?あっ、あっ、あっ、あっ……」


さっきより増した痛みに、私は喘ぐ。

我慢していた涙が、否応なく私の頬を伝っていく。

弱気になった私の頭の中に、一人の女の子の姿が映しだされた。


中学の頃、私を『ヤリマン』だと蔑み、意地悪ばかりをしてきた女の子。

高校生になってなお、私を孤独の檻に閉じ込めておこうとする女の子。

つい先日には、新田くんに私を犯させようとすらした、あの女の子。


「蘇お……」


ついにその名前を言いかけて、私は寸前で踏みとどまった。

違う。彼女は確かに私に意地悪ばかりするけど、だからといって赤月さんなんかに食べさせて良い訳がない。

私は必死で、頭の中の”彼女”との良い思い出を記憶のなかから探り当てる。


家が近所で、昔から一緒に居ることの多かった女の子。

小学生の頃、作文を書く授業で私を題材にしてくれて、その文中で私を『親友』だと評してくれた女の子。

小学校の卒業式の日、『中学生になってもずっと仲良しで居ようね』と言ってくれた女の子。

私が先生に襲われた日、大人の男性に勇敢に立ち向かって、私を助けてくれた女の子。


そうだ。彼女は本当は優しい子なんだ。今は擦れ違ってしまったけど、あの子は私の大事な親友……だった子だ。

私なんかよりよっぽど多くの友達が居る。私なんかよりもきっと、生きる価値がある。


「答えろ、と言っているのよ?……そんなに死にたいのかしら、貴女」

「い、や、だ、っ……絶対に答えない……!貴女なんかに食べさせない……!」


誰かの死を願ってしまうくらいなら、いっそのこと、私が死んでしまったほうがマシだ。


赤月さんはそれからもしばらく、私の肌を引っかき、より深く牙を立て、私を責めたけれど、それでも、誰の名も答えようとしない私を見て、ついに諦めてくれた。


「……優しいのね。だから貴女は不味いのよ」


そう言って彼女は私の身体から身を剥がし、ズタボロになった私を放って、廊下を去っていった。


朦朧とする意識の中、私は肩紐の外れかけた下着とクシャクシャになったブラウスの襟を正して、彼女が私の身体に残していった数々の傷痕を指で撫で、痛みに喘いだ。

指先で噛み跡や爪痕に触れるたび、惨めな気持ちがこみ上げてくる。

私は廊下で一人、声を抑えて泣いた。


遠くから、新たな足音が近づいてくるのが聞こえた。

赤月さんが帰ってきたのかと思って、私は一瞬身体をビクッとさせたけど、

曲がり角から姿を現したのは保健室の先生―――吉田先生だった。

吉田先生は、床に這い蹲る私の姿を見るなり、慌てて駆け寄り、私に声を掛けてくれた。


そんな先生の様子を見て、赤月さんの幻惑がもう解けてしまっているらしいことを悟った私は、誰かに見つけてもらえた安心感からか、ふっ、と意識を飛ばしてしまった。

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