第2話 魔女のささやき (1)
静まり返った教室の中でキュ、キュ、という水性ペンの走る音が響いていた。
ホワイトボードに先生が書き殴っている数式。それをノートになぞっているこの時間が、私は好きだ。
授業中でなら、蘇芳村さんのように普段から騒がしい生徒たちにも、私のように普段からおとなしい生徒たちにも、平等に静寂が訪れる。
ホワイトボードに書かれた文字をノートを取り、先生の話を聞きながら、その内容を自分なりに噛み砕くことに思考を費やす。
余計な言葉の要らないこの静かな時間は、私みたいな―――いわゆる陰キャの人間にはある種心地の良い時間だった。
……普段ならば、そう感じられたはずなのに。
私の隣には今、絶世の美女が居る。
つまらなさそうに頬杖をついて授業を聞いているその姿は、往年の人気女優のようにアンニュイで、カメラのシャッターを切れば、それだけで芸術品に出来てしまえそうなほど様になっている。
そんな美女が、昨日私のクラスメイトを食い殺し、あまつさえ私の命を奪おうとしたバケモノだというのだから気が気じゃない。
3秒後には『お腹が空いたわ』なんて言ってこの教室に居る生徒たちをムシャムシャと食い殺してしまうかもしれない。
そんな緊張感に苛まれた私は、彼女の仕草の全てを、警戒しながら見守っていた。
彼女が頬杖をつく。
頬杖を解く。
あくびが出そうになって口元を抑える。
足を組む。一度組んだ足をまた組みかえる。
口元を隠して考え事に耽る……かと思えばただ単にあくびが出そうになったのをまた抑えただけだった。
やがて、私が彼女のことをチラチラと見ていたことに彼女のほうも気づいたようで、私達は自然と目を合わす形になる。
そのまま目を離してしまったら、即座に食べられてしまうような気がした私は、まるで蛇に睨まれた蛙のように、彼女の目を見つめたまま、固まってしまった。
そして彼女はそんな私の事をしばらくじっと見つめていて―――ニッコリと笑って私に手を振った。
美人の笑顔
それは、今日の数学の授業で私が学んだ、大宇宙の真理を示す方程式だ。
「おい赤月。この問題解いてみろ」
授業中にも関わらず私に手を振っていた赤月さんに気を悪くした先生が彼女を指名する。
赤月さんは余裕の表情で席を立ち、ホワイトボードの前に向かったが、私が見ていたところ、彼女は授業が始まってから一切ノートを取っていない。
あくびばかりしていたところを見ると、まともに授業を聞いていたのかすら怪しい。
そんな赤月さんの授業態度を先生も悟っていたようで……明らかに赤月さんに恥をかかせようとしているみたいだった。
水性ペンが小気味のいい音を立て、ホワイトボードの上を滑っていく。
赤月さんはスラスラと澱みなく問題を解き、正解に至るまでの式を書き示し、答えを導き出した。
「ちっ……正解だ。席に戻れ」
当ての外れた先生はバツの悪そうな顔で赤月さんに命じる。
微笑みながら席に戻っていく彼女の姿を、私を含めたクラスの何人かは、尊敬の眼差しで見つめていた。
彼女の名前は
■
昼休みになると転入生である赤月さんの席には人だかりが出来ていた。
彼女の聡明さは午前の授業で証明されている。その上、飛び切りの美人だ。
男女問わず、彼女と仲良くなりたいと望む者は、クラスのそこかしこに居た。
「ねえねえ、赤月さんって前はどこの学校に居たの?」
「ミッション系の学校よ」
「休みの日とか何してるの?」
「読書をしたり音楽を聴いたり……かしら。たまにギターを弾いたりもするわ」
「赤月さんすっごい美人さんだよね!芸能人で言うと『Marino』に似てる!」
「ありがとう。よく言われるわ」
「赤月さんは身体洗うときにどこから洗う派?」
「……ドサクサに紛れてセクハラするのはやめてくださる?」
赤月さんに質問の数々を投げかけるクラスメイトたち。
私も、彼女に聞いてみたいことがある。
昨日の出来事は、なんだったのか?どうして貴女が3日前に転入してきたことになっているのか?
彼女が本当のことを話してくれるかは分からない。聞いてもはぐらかされるかもしれない。
それでも、一度だけでいいから聞いてみたかった。
とりあえず今、人だかりの中心に居る赤月さんに話しかけるのは至難の業だ。
そう判断を下した私は、彼女に問いかけるのをとりあえず後回しにすることに決めた。
彼女が同じクラス―――しかも、私の隣の席に居る以上、話しかけるタイミングは他にいくらでもある。
一旦食堂に向かうため、席を立とうとした私の耳に、聞き馴染みのある声が飛び込んできた。
「ねえ、赤月さん。アタシたちと一緒にゴハン食べようよ」
……
彼女達は俗に言うパーリーピーポーと言う奴で、昔風に言うならヤンキーだ。
そんな彼女達のことを怖がっているクラスメイトも少なくない。
蘇芳村さんが言葉を発した瞬間、赤月さんを囲っていた人だかりはまるでモーセの海割りのように一斉に裂けて、
赤月さんと蘇芳村さんが顔を見合わせられるよう整列した。
蘇芳村さんは、綺麗な女の子に目がない。
今蘇芳村さんの隣に立っている二人のうちの一人―――佐藤さんも、入学当初は大人しい見た目をした女の子だった。
黒い髪を肩まで伸ばしたセミロングの髪形。当然その髪にはヘアカラーなんて入れられておらず、さらさらの髪は清楚な印象を周囲に与えた。
そんな佐藤さんも蘇芳村さんと仲良くなるたびに、蘇芳村さん好みの女の子に変えられていった。
『さとぴーはさぁ。素材が良いんだから、ショートも似合うと思うよ』
『さとぴー、髪とか染めてみたら?ウチの学校、禁止されてないっしょ?黒髪ってケッコー重い印象になっちゃうんだよねぇ』
『さとぴーさぁ、化粧とか興味ない?アタシが教えてあげるよ』
蘇芳村さんに言葉巧みに言い寄られるたび、佐藤さんはファッションを蘇芳村さんに寄せていった。
そうして今や茶髪のショートボブにばっちりメイクを決めてきた蘇芳村さん好みの出で立ちで、蘇芳村さんの隣に居る。
蘇芳村さんは、綺麗な子を自分色に染め上げるのがたまらなく好きな人なんだ。
そして彼女の毒牙は今、赤月さんに向けられようとしている。
「ね?一緒に屋上行こう?屋上。アタシのパシリがもうすぐ20個限定のパン買っててくんの。それ食べながらお話しようよ」
赤月さんの机にひじを預け、甘い声で囁く蘇芳村さん。
「ごめんなさいね。私、今日は東雲さんと一緒にお昼を食べる約束なのよ」
しかし赤月さんはそう言って、蘇芳村さんの毒牙をかわすのだった。
……え?東雲さんって、私?
いやいやいや。そんな約束してないよね!?
赤月さんが席を立つと、周囲の人だかりがモーセの海割りのように一斉に裂けて、
赤月さんが私の隣まで来れるよう、一斉に整列をする。
何が何だか分からない私の目の前に、赤月さんの高い背が迫ってきた。
こうして彼女の隣に立つと、彼女の身長がいかに高いか分かる。170cmはありそうだ。
下手な男子よりも背が高い。
「東雲さんはいつも、どこで昼食を取っているの?」
「えと……食堂、です」
「そう。私、食堂の場所をまだ知らないのよ。エスコートしてくださるかしら?東雲さん」
「は、はい……こっち……です」
赤月さんを連れて教室を出ようとする私。
後ろのクラスメイトたちから『赤月さんを独り占めするな!』という非難の視線を感じる。
人気者の転入生を独り占めしているのが、私みたいな変な噂を持つ女だから、皆の非難も倍々だ。
教室を出る際、「チッ!」という大きな舌打ちが聞こえてきた。
それが恐らく、蘇芳村さんのものだろうということは容易に想像できた。
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