第1話 赤月がのぼる夜 (4)
■
「魂を喰らうとお肉が消えてしまうのが難点ね。まぁ、4頭も残れば十分かしら」
『頭』という、人間に対しては中々使わないだろう単位で獲得した食料を数える女の人に、私は震え上がった。
4頭。この屋敷には、私と新田くんと筋肉の人と紫髪の人とポニーテールの人の"5人"で踏み込んだ。
今しがた私の目の前で消えていった新田くんを除けば、当然私も勘定に入っているということになる。
「……それにしても不思議ね。外で私が感じた気配は、"4つ"だったと思うのだけど」
女の人が、ベッドに近づいてくる。
「こ、来ないで……」
「イヤよ」
死の気配を放ちながら、ゆっくりと私に近づいてきたその女性は、ベッドに身を乗り出して、その吐息が感じられる距離にまで身を寄せてきた。
そうしてしばらく、じっと私の顔を見つめている。この人は―――いや、この『鬼』の人は、一体なにを考えているんだろう?
何時牙を剥かれ、食い殺されてもおかしくない状況の中で、私は場違いにも、その女の人の容姿に見とれてしまっていた。
くっきりとした目鼻立ち。その顔立ちは美術品のように整っていて、この世のものとは思えないほど美しい。
彼女の顔は、今まで私が見てきた全ての女の人の中で、最も美しい顔なんじゃないかとすら思えた。
長いまつげに覆われた、冷淡そうな切れ長の瞳で私を観察し終えた女の人は、
「……変わった人ね、貴女。
「えっ……?」
ウソ。いま私、ニオイ嗅がれてたの?
私は羞恥で顔が熱くなるのを感じながら、身を捩って女の人から距離を取ろうとした。
しかし、そんな私の動きは女の人に腕を掴まれて制止させられる。
「ダメよ。逃げちゃイヤ」。天使のように優しい声で、女の人が囁いた。
腕を拘束されたまま、私の身体がベッドに押し倒される。
さっきの新田くんと同じ動きだけど、女の人が狙っているのは私の貞操ではない。
血肉だ。食料として私を求めている。……ある意味、新田くんと一緒で"カラダ目当て"だ。
首筋に、彼女の歯が当てられる。私はついに食べられるのだと思い、命を失う覚悟を決めた。
チクリ、と。
電撃のような痛みが首筋に走った。液体が首を伝っていく感覚が遅れてやってくる。、流れた血が、首を伝ったのだ。
その血液がベッドのシーツに落ちようとした寸前、女の人が私の首にキスをして、その雫が落ちないよう啜った。
ちゅ。ぢう。ずぅ、ずぅ。
女の人は淫らなリップ音を立て、私の血を貪る。
このままミイラにでもされてしまうのかと思いきや、彼女はベッドから身体を起こした。
両足で私の腹部に跨り、馬乗りの姿勢のまま、その綺麗な顔に恍惚を浮かべ、私を見下ろしている。
唇の端に残った血を、彼女は赤い舌でチロリと舐めとった。
その仕草が私に、いやらしい未知の感情を引き起こさせる。
なんでだろう。ドキドキ、する。
「……ふふ。ふふふふふふ。あはははははははははははは!!!」
突然、肩を震わせて笑い出した女の人に、私は困惑した。
「不味い!不味いわ!貴女の血!
こんなに不味い血を啜ったのは産まれて初めてよ。……喰らう価値もない。失せなさい」
「え……?え……?」
上手く状況を飲み込めずに居る私の身体をベッドから起こさせ、女の人は部屋の入り口へと私を突き飛ばした。
突き飛ばされた私は、取りあえずブラウスのボタンを止めなおし、ブレザーの襟を正した。
「あ、あの……いいんですか……?私、このまま帰っても」
「二度も同じことを言わせないでくれる?……殺してしまうわよ」
ギロリ、と殺気を帯びた視線で射抜かれ、怖くなった私は急いでその家を出た。
新田くんたちと一緒に辿ってきた暗い廊下を手探りで歩き、玄関から家の外へと出る。
正門を出て、家の前の坂道を小走りで降りきった時、私は息を切らしながら坂の上にある赤い屋根の家を見つめた。
空に浮かぶ赤い満月が、その家の屋根を不気味に照らし出している。
噂じゃない。あの屋敷には本当に居たんだ。ホラー映画に出てくるような人食いのバケモノが。
辺りが夜の闇に覆われていることを無性に心細く感じた私は、母の待つ家へと帰るため、まだ震えている脚を無理やり動かして、その場から走り去った。
■
その夜は眠ることが出来なかった。
家に帰った私は、遅い時間に帰ったことを母に不思議がられた。
「友達と遊んでたの」と誤魔化してそそくさとシャワーを浴び、ベッドに就き、頭から布団を被った。
布団に包まっていると、心細さが和らぐ気がする。
幼い頃から、怖いことや辛いことがあると必ず、私はこうして頭から布団を被ってかたつむりになるのだ。
ベッドに就いてまず一番に考えたのは新田くんたちのことだった。
新田くんはきっと明日、学校には来ない。そのうち捜索願が出されて警察が調査を始めることだろう。
今夜を境にバンドメンバーと共に行方不明になったとすれば、真っ先に疑われるのは私のはずだ。
私が彼らと今夜行動を共にしていたことは、深紅ちゃん……蘇芳村さんが良く知ってる。
事情聴取になった場合、私は今夜起こったことを上手く説明できるだろうか?
『バケモノが襲い掛かってきて新田くんたちを食い殺した』っていうしかないけど、信じてもらえないに違いない。
それどころか、新田くんたちを惨殺した犯人として投獄されてしまう可能性だってある。どう転んでも逃げ場などない。
あの人たちはサイテーな人たちだった。だけど、何も命まで奪われる謂れはなかったはずだ。死んでいい人間なんて、この世に居ない。
『バケモノ』なんて居ない方が良かったのかな? でもそれだときっと、私は彼らに酷く傷つけられることになっただろう。
男の人に押さえつけられたとき、『助けて』って願ったのは私だ。『バケモノ』はある意味で私を助けてくれたのだ。
だけど……。だけど……。
次の日の朝、私は目の下に濃いクマを作りながら、朝の支度をしていた。
朝食のトーストを齧りながら、一睡も出来なかった頭を少しでも覚まそうと、コーヒーを啜る。
全部、夢なら良かったのに。
新田くんたちが私を襲ったことも、あの屋敷のバケモノが、新田くんたちの命を奪ったことも。
足元ばかりを見つめながら、学校へと続く長い階段を上る。
登校中は人と目を合わさないようにするのが私の中学時代からの癖だ。
校門に立って挨拶をしている先生の声に釣られて目線を上げると、こちらを見ていた男子の集団と目が合った。
確かあの子達は……同じクラスの子だ。
男子の集団は私と目を合わすなり、パッと目線を逸らす。
―――そんな反応で、私は自分がヘンな目で見られているのだと分かった。
昨日の新田くんの言葉が脳裏に蘇る。
『ウチのクラスじゃ有名だよ?東雲さんの
今の男の子も、私の事をヤリマンだと思ってるんだろうか?……地元の子達みたいに。
それが嫌で、せっかく遠くの高校に入ったというのに。
地元の
この
最も、蘇芳村さんが同じ高校に入学した時点で分かりきっていたことだけど。
私は他人の目線が怖くなって、再び俯いた。
教室に着くと、蘇芳村さんがギャルっぽい友達に囲まれながら教壇の目の前で笑い声を上げていた。
スマホを片手に、youtubeかなにかの動画を見ているらしい。
蘇芳村さんと目を合わせないようにして席に就くと、隣にある新田くんの席が目に付いてしまった。
いつも私より早い時間に着て、他のクラスに行って友達とお話ししている新田くん。
新田くんの机には鞄が掛けてあった。もしかして、彼は今日も登校しているんだろうか?
……全部、私の夢だった可能性も、まだあるんじゃないだろうか?
そんなことを考えていた私の机の上に、蘇芳村さんが堂々とお尻を預けてきた。
「あれ~?東雲さ~ん?なんで今日パンダみたいな顔してるワケ?動物園にでも行ってきた?」
「ちょ、ちょっと寝不足なだけ……だよ」
「ふーん。てっきりヘッタクソな化粧でもしてきたのかと思った~。きゃははははは!」
と意地悪な言葉を投げかけて去っていこうとする。
本当に、意地悪な子になっちゃったな。蘇芳村さん。
昔は、こんなこと言う子じゃなかったのに。
「あ、あのさ。深紅ちゃ……蘇芳村、さん」
「あ?」
私が呼び止めたことで不機嫌そうな顔をする蘇芳村さん。
そんな彼女に一瞬ひるみそうになったけど、私は言葉を続けた。
「新田くん……は、その、今日は、学校に来てるの?」
机に、鞄があるのだ。
私は昨日の晩から願って止まなかった展開を、期待せずには居られなかった。
昨日の出来事は全て夢で、新田くんは無事に学校に来ている。そんな都合のいい展開を。
しかし、蘇芳村さんの口から返ってきたのは、
「は?誰それ?そんな奴ウチの学校に居ないっしょ?」
という、予想だにしない言葉だった。
「……え?」
「アンタ、寝ぼけて幻覚でも見てんじゃないの?」
「……蘇芳村、さん!?新田くんだよ?新田流介くん!私の隣に座ってた子!覚えてるでしょ!?バンドやってる子だよ!」
「はぁ?だからそんな奴このクラスに居ないって言ってんじゃん!頭おかしくなったんじゃないのアンタ」
なんで?
私の頭に浮かんだのは、新田くんと蘇芳村さんが喧嘩でもしていて、蘇芳村さんが新田くんのことを『居ない人』扱い
でもしてるんじゃないかという考えだった。
「ね、ねえ皆!新田流介君のこと、知ってるよね?」
私は声を張り上げたけど、クラスの皆は私の事を見て怪訝そうな顔をしている。
「ほら、皆そんな奴のこと知らないってさ」
蘇芳村さんがあきれたような顔で私を見ていた。
……本当に?クラスの皆すら、新田くんのこと知らないって言うの?
"学校に来てない"とか"今日は見てない"とか、そういう反応ならまだ分かる。
でも皆知らないなんてそんなのオカシイ。
これじゃ……。これじゃまるで、
"新田くんの存在がこの世から消し去られてしまった"みたいじゃない。
「第一さぁ。アンタの隣の席に座ってるのって、新田とか言う奴じゃなくて赤月さんでしょ?三日前に転入してきた……」
「赤月……さん……?」
深紅ちゃんの口から。知らない人の名前が聞こえてきて困惑する。
三日前に?転入してきた?
そんな人のこと、私は知らない。
三日前だって、私は休まずに学校に来ていたのに。
転入生なんて目立つ存在、なおさら忘れるわけがないのに。
「あら、皆さん騒がしいわね。どうしたのかしら?」
その声を聞いた瞬間、私は固まってしまった。
聞き覚えのある声。透き通ったような、天使の声。
う、嘘だ……。
忘れるはずが無い。忘れられるはずもない。
この声は……。あの屋敷の、女の人の声だ。
昨日の凄惨な光景がフラッシュバックする。
反射的に、手足が震え、冷や汗が出る。
声が聞こえてきたのは私のすぐ後ろ。振り返って見ると、そこには見間違うはずもない、あの綺麗な女の人の姿があった。
この学校の制服を着て、赤メッシュが入っていたはずの髪を黒一色に染め上げ、何食わぬ顔で女子生徒面をしている。
「ごきげんよう。東雲ももかさん」
長い睫毛の奥の瞳は、黒く染まっていて、赤く光ってなんかない。
「あ……あぁ……貴女、なんなの……?なんでここに居るの……?」
その右腕は色白で、赤黒くもなければ鋭い爪も備わってない。
「あらあら酷い言い草ね。もしかして、私の事を忘れてしまったのかしら?
だったらもう一度、自己紹介をしなくてはね」
その顔は―――私が今まで見てきたどんな女の人よりも美しいと思えるほどで。
「私は美桜。転入生の―――
その心はきっと、私が今まで見てきたどんな人のものよりも、残酷に違いなかった。
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