女媧降臨 その2

 ほう、と雛花はため息をついた。ただ立っているだけでも、どことなく、彼の周囲だけ静けさ、おだやかさで満ちる気がする。柘榴ざくろのごとき深い緋色の瞳がそうさせるのだろうか。

 ちなみにかいていこくの軍事は、大きな四つの軍団をばんとしている。すなわち、左右それぞれの龍武軍、りんぐんだ。さらに、それぞれの軍団は二つ、四つ……と枝分かれしていくが、志紅の地位である『儀同将軍』とは、上から三つ目に大きな集団の長。彼は、異例のじやつかん十九にして、二千人の兵を率いる、名実ともに軍のしゆつがしらなのだ。

「本当、天は二物を与えずって言うけど紅兄さまには三物四物与えてますわよね、あーうらやましい……」

「なんだか相変わらずだな、小花は。め言葉として受け取っておこう」

 あいさつがわりにこうれいの嫉妬を並べる雛花に、慣れた調子で軽やかに流しながら、志紅は柔らかく笑った。

 心地ここちよい低さで、穏やかなのにひどくあまい声。己の名を呼ぶすべての声の中で、この青年の──「小花」という音の響きが、雛花は最も好きだった。

「お久しぶりですわ、紅兄さま。いつぶりかしら」

「先月の、きみの母ぎみのちんこん以来かな。元気そうで安心したよ」

(あなたに会ったから、元気になったんです! なんて、言えたらいいんだけど!)

 我ながら現金なものだと、はしたなくゆるんだ頰を隠すように、雛花は話題をらした。

「お仕事でお忙しい紅兄さまが、なんのご用?」

「ちょっとしたお誘いをね。勉強は進んでいる?」

「皇宮書庫内にある書物は三周くらいしました。もう、おもだったものは全部あんしようできます」

「そうか」

 偉いな、と、緋色の瞳をなごませて髪をでてくれる志紅に、雛花はほのかに頰を染めた。

(嬉しいけど、複雑。こんな風に撫でてもらえるのはおさなじみの特権だけど! 彼の中で、わたくしはいつまで『小花』──ちいさな子供のままなのかしら)

 かねてより悩みの種だが、逆に、そんなさいなことで気をめるだけ幸せなのかもしれないと思い直す。──彼のぞくけいは、かつてそうぜつぼつらくっているのだ。

(紅兄さまのお父ぎみ──荊せいさまがほんくわだしよけいされた大事件、〝けいらん〟……よくぞここまで陛下やしよこうしんらいを取り戻して出世されたわ。紅兄さまが、どれだけがんってきたか、わたくしもよく知っているもの)

 一連に志紅は関わっていないが、反逆者の息子としてぞくちゆうの対象となり、危うくもろともに処刑されるところだった。それなのに、父を奪われたことをうらみに思うでもなく、槐帝国に尽くす彼の忠義は本物だ。

 乱の後の荊家は、当然のことれいぐうされ、さらに彼が周囲から受けてきたいやがらせの数々は、雛花の受けるそれの比ではなかった。だから、志紅の今の地位は、じゆんすいに彼の実力と、積み重ねてきた努力のたまもの。

(わたくしがてんこうを目指すのは、そんな紅兄さまのお役に立ちたいから。……でも)

 昔から、天后になりたいという雛花の夢を、馬鹿にせずに聞いてくれたのは、ほとんど志紅だけだ。最も親しい異母兄あにですら、「天后とは大きく出たな!」と笑い含みだったのである。もっとも、その理由は分かっている。

「勉強は順調なのだけれど、……れいはいじゆつは相変わらずさっぱりで。一応、使えはするけれど、りよくがぜんぜん……。先ほども、修練になるかと樹海産の石碑を写していましたの」

「……雛花は本当に天后になりたいんだね」

「ええ、それがわたくしの生きる道ですもの! でも、……今のところじよにやんにやんが降りてくださる気配はありませんわ」

「そうか」

 を張った後で、ぽそぽそ素直に付け足す雛花に、志紅はしようした。

 それから、「そうだ、誘いの件」と手を打つ。

「小花。もし忙しくなければ、今日は外に出てみないか」

「え?」

 そこでやっと雛花は、彼が、儀同将軍の証である、とらかたどったすいはいぎよくを身につけていないことに気づいた。

 少し話があって、と志紅はげつりようもんの奥を指さす。そのさらに先にある、を示して。

「勉強の気晴らしにおしのびで。門衛には俺がうまく言っておくから」



 かいていこく首都、しゆんえん

 国内でも中心部となる四つの都のうち、もっとも大きな城市である。四季の名をかんする州都として著名な他の都、しゆうじやくとうえんは、それぞれ帝国の三方ににらみをきかせるがごとく配され、中央の春燕を守っていた。

 その街並みは、石のじようへきに設けられたこうろう、赤や青のかわらが目もあやな白い家々など、かいや樹海に隔てられた遠い西方に至るまで様々な文化のえいきようをうかがわせる。

 こと、南北をつらぬき大路を囲む市場は、春燕の名所として知られていた。

 さけかすんだわたがに、牛の乳をで固めてくるみやみつを加えたもちなど、ところせましと立ち食いの店がのきを連ねる。

 みちばたに石を積んだ急ごしらえのかまどに、大人のたけすほど山と積まれた蒸籠せいろから、いい香りを含んだ湯気がもうもうとただよってきた。

「あ。あのお饅頭まんじゆうしそうで羨ましいですわ」

 お忍びのため、簡素なうすみどりじゆくんの上からそでなしの木綿のはんてんを羽織り、白木のかんざしで髪を結った雛花は、てんしようの売る包子パオズに目を留めた。

 はしゃいでいるはずの台詞せりふに、となりを歩くこうが軽く額を押さえる。

「待ってしよう。美味しそうは分かるけど羨ましいって何」

「だってあんなに肌が白くてもちもちで、頭の中にのうこうなかみがぎっしりまってたら、きっと饅頭界の出世頭なんだわ。いいわね人生楽しいでしょうね」

「小花はおかしなことを言うな。それを言うなら饅頭生だと思うが」

「おかしなことってそこ!? こうにいさまって変なところでりちですわよね」

「そうかな。じゃあ、どうぞ」

「えっ!? いつの間に注文してらしたの?」

 したての包子をひょいと手渡してくれる志紅に雛花が驚くと、志紅は「ずっと蒸籠を見てたから、食べたいのかと思って。それに、少し寒かったし」と肩をすくめた。

 真中まんなかにぽつんと赤いの実が飾られた包子は、ほこほこと手の中で湯気を立て、思わず雛花は見入ってしまう。

(すごい。まさに食べたかったのだけど、絶対、さっきの会話より前に買ってらしたわよね。昔から不思議。紅兄さまってよく気がつくというか、わたくしが言う前に、心を読んだみたいに先どって行動できてしまうのよ。……きっとみんなにそうなんだろうけど!)

 常のくせくつになって、動きを止めた雛花の様子を、志紅は違う意味に取ったらしい。

「ごめん、小花はもう小さい子供じゃないのに、つい、昔みたいに……。立ったまま食べるのは気になる?」

「だ、大丈夫ですわ! 違います、逆で! 美味しそうで見つめてしまっていただけ!」

 慌てて一口かじると、熱々の包子には、やはり野菜やぶたにくあんがぎっしり詰まっている。もっちりした皮の甘みと、餡からにくじゆうの具合がぜつみようだ。

「う。おいっしい……やっぱり勝ち組……」

 思わず口許を押さえる雛花に、「よかった。でも、食べ物を褒めるのに『勝ち組』とは初めて聞いたな」と志紅は微笑んだが、そこでふと表情をくもらせる。

「ところで小花。最近、困ったことはない? 何か、きみの心をわずらわせるような……」

「離宮の室内にカマドウマが出ました」

 そくとうする雛花に、志紅はいつしゆん黙り、思わずといった風にした。

「そうか、カマドウマ! そういえばあの虫、小花は昔から苦手にしていたから」

「わっ、悪かったですわねおくびようもので! こわいものは怖いのですもの! でも、あれだけあしが長くてしゆんびんちようやくできるなら、さぞ気持ちがいいでしょうね。勝ち組だわ……」

「饅頭の次は虫か。なんにでも嫉妬して楽しそうだな。でも、虫でよかった。万一、またみような嫌がらせを受けてでもいたら、……ゴミを処分する手間を考えないといけないから」

「? ごめんなさい紅兄さま、最後、なんておっしゃったの?」

 あのバッタを数倍気色悪くしたような堂々たる姿を思い浮かべてぶるいしていた雛花は、志紅の低い呟きを聞き逃してしまった。しかし彼は、「いや?」ととぼけてしまう。

「けど、そうか。虫におびえないといけないほど、やはり今の離宮暮らしはつらいんだね」

 ふっと表情を暗くする志紅に、雛花は「そんなことないです!」とあせった。彼は、雛花の離宮暮らしを、かねてから気にんでいるのだ。

 実際、荒れた家屋の補修を手伝ってくれたり、食材を届けさせてくれたり、彼にはこれ以上ないほど絶えず心を配ってもらっている。を投じての小離宮の建て替えや新しい使用人の雇用までもひんぱんに打診されていて、そのたび雛花は「大丈夫ですから!」としてきた。誤解を招いては申し訳ない。

「虫はたまたまで……いつもは住めば都というか埴生はにゆう宿やども我が宿というか! ほら、『なんそうりてもつごうせ、ひざるるの安んじやすきをつまびらかにす』……、ってこんろんえいせんとうえんめい』も言っているじゃないですの!」

 南側の窓によりかかってくつろいでいると、せまい我が家の心地ごこちのよさが実感できる、という意味だが、自分の家を膝を折ってやっと身体が収まるほどの狭さと表現する破格のぎやくっぷりが雛花のお気に入りなのだ。

「陶淵明とはおいしい酒がめる気がするんです、まあわたくしはなんですけど!」

 わたわたつのる雛花にしばらくぜんとしていた志紅だが、やがて苦笑した。

けんきよだな、小花は。すぐそばにある槐の後宮は、たまよそおゆかと言われるほどなのに。ごうしやな調度や美しい内装にあこがれない? たとえばこうの居室に入って、あかい絹の寝台にころんでみるとか」

「それはむしろ羨ましすぎて憧れるより夢の域ですもの! もうそうにしたって皇貴妃なんておそおおくて。きっと毎日、きんらんの襦裙を着て、たくいっぱいにごちそうを並べて。ほかほかのお饅頭も食べ放題……なんて暮らしがわたくしに似合うわけがないから、やっぱり匂いだけで十分です。きらきらのしようは着るより着られそうですし」

「そんなことないのに。お遊びで言うのは自由だろう。他には、何がしたい?」

 わいい後宮ごっこの想像をして笑い合いながら、隣を歩く青年の顔を、雛花はちらりと盗み見る。

 好きだからこそいっそう美しく感じる横顔にしばし見とれ、味などあるはずもないのにとろりととうみつじみて感じる低い声を聞く。そのたびに──どきどきと胸が高鳴る。

「小花、どうかした?」

 挙動不審な雛花に、志紅はいぶかしげに首を傾げた。

「べ、別に!? お饅頭が美味しかったなって、思っていただけですの」

「そう。じゃ、もうひとつ食べる?」

「いりませんっ。……太りますもの」

「小花なら太っても可愛いよ」

「かわっ……!?」

 ちよくせつな単語に、ぼっ、と顔から火を噴く雛花に、志紅は穏やかに付け足した。

「うん。くるみでほおぶくろをぷっくりさせたリスのようになると思う」

「…………ちゅう」

「ははっ、今は細すぎて心配になるくらいだから似てはいないな」

 とっさに受け狙いでしてしまう機転を雛花は呪った。実際、リスがちゅうと鳴くかは知らないが。

(って、女子をたとえるのにネズミの仲間はないでしょ紅兄さま!? たとえネズミ並みに存在感がうすくて色気がないって意味だとしても、って自分で言ってて傷ついたわわたくしの馬鹿! もう! ほんとに、このド天然兄さまはわたくしのこと妹だとしか思ってない!!)

 い上がったところを、無自覚だからこそ適切に叩き落とされ、雛花はがっくりと肩を落とした。

(わたくしだってもう、十六歳だし……少しくらい、女性あつかいしてくれたっていいのに)

「小花、百面相」

 むくれてそっぽを向く雛花の頰を指先で押して、志紅は肩をらして笑っている。

(いたずらが成功した男の子みたいな顔)

 それこそリスよろしくむーっと頰をふくらませていた雛花だが、志紅の顔を見上げていたら、心臓がまた、ことことと音を立て始めた。

 どうしようぐんとして訓練にのぞむ厳しい表情も見たことがあるし、とてもかっこいいけれど。こうして親しいあいだがらにだけ少し気の抜けたところを見せてくれる瞬間が、一番。

(ああ。……やっぱり大好きなんだわ。わたくし、このかたが)

 そしていくとなく憧れを自覚するたび、幼い頃から引きずり続けた恋心が、しくしく痛むのだ。

(わたくしが今目ざしているのは、しようがいこんでつらぬく国守のてんこう。紅兄さまのお嫁さんになりたいなんて、本気で思っていたのは昔の話なのに。はあ、駄目ね。いい加減、あきらめなきゃいけないって分かっているでしょう)

 ──〝ああ、不快だ。お前の首をこの場で代わりに落としても、余にはなんの利にもならぬ。せめて不在続きの天后の座をお前が埋めてみせるくらいのがいは見せよ〟

 かつて、床にひれ伏し額をこすりつけた雛花の頭の上から降ってきた、ていの冷ややかな声が耳によみがえる。ほうぎよしてなお、その言葉はじゆばくのようにこころに絡みついて離れない。

 日常というのはこわれやすい。いい意味でも、もちろん悪い意味でも。雛花はそれをよく知っていた。今も隣で笑う彼を、あと何回、こうしてそばで見られるのだろう。

「それにしても紅兄さま。市街って、いつもこんなものだったかしら?」

 暗くなりがちな思考を追い払うように、雛花は志紅に話題を振った。ふと、の様子がいつもと違うことに気づいたのだ。

「いつもこんなもの、って?」

「なんとなく、前に来た時より活気がとぼしいような気がいたしますの」

 きょときょとと周りを見回して、雛花は首をひねった。

 最初は久々の外出にはしゃいでいたから気にからなかったが、てんを持つ商店はともかく行商や露天商も少なく、買い物をする人々はどこか浮き足立って見える。

 雛花の問いに、志紅はわずかにまゆを寄せて視線を落とした。

「ああ……最近、城市には『こんとん』がよく出るから、それでだろう」

「え? たしかに、多いって話は聞くけれど、こんな街中にまで? まさか」

じよにやんにやんが天后をお選びにならず、かれこれ二十年だ。軍もれいはいじゆつも警護にしんしているが、それでも少しずつしんにゆうしてくる数は増えている。こればっかりは仕方ないさ」

 とうげんという巨大な一枚布の世界において、横糸はいん、縦糸はよう

 それぞれが文字の音と意味を指し、この組み合わせでさらに木、火、土、金、水のさいもんようが織り上げられ、さらに五彩の組み合わせでしんばんしようが成る。神々の付ける名によってばんぶつが定まる、このことわりいんようさいと呼ぶ。

 しかし、名付けられることをこばみ、その布からこぼちたものは『渾沌の魔』と呼ばれ、樹海や砂海からあらわれては桃華源をらしに来る。魔はばけものの形を取ることもあれば、たつまきしんのような天変地異を起こす場合もあった。

「春燕はまだましで、辺境は数年前からとうてつの害にあえいでいる。とうばつしようにもそんな大物、陛下お一人では手に負えなくてね」とため息をつく志紅に、雛花は胸が痛くなった。

(皇帝と天后がきちんとそろっていれば、渾沌の魔は韻容五彩の布目をかいくぐって来られない。今は皇帝陛下だけで国を支えているに等しいもの。きちんと治世をするためには、早く皇統の誰かが天后にならないと……)

 よく見れば、家々には補修中だったり、屋根やがいへきが大破したところもある。皇宮にこもったままでは実感しがたいせいの実情に、雛花はまゆをひそめた。

(だめね。せっかく紅兄さまとお出かけなのに。変な話題で空気を重くしちゃった)

 気まずくなって、雛花はさらに話題を変えることにした。

(そうだ、なつかしいといえば)

「見て、紅兄さま! 花文字のお店があるわ」

 雛花は、大通りにかかげられた飾り看板を指さして声を上げる。

 花文字とは、槐帝国に古くから伝わる伝統工芸で、読んで字のごとく文字を花のようにいろどったものだ。名前や詩句などを、しんじゆうや花鳥など、えんのいい紋様で飾り立てる。文字が力を持つ桃華源において、一般的でれいげんあらたかなおまじないだ。

 ちなみに、しゆぎようによってふつや女媧の力をわずかばかり借り、詩などのことばによって文字の力を使する人々のことを『令牌術士』という。大多数は皇宮に勤めているが、まれに野に下る者もいる。

 実力のある令牌術士ならば、水にまつわる詩をぎんじればかれに水が湧き、火にまつわる詩をたきぎとなえればほのおを発す、という。

(令牌術の心得はわたくしにもあるけれど、あまり術がうまく使えないのよ。どうにか上達したいのだけれど……。そもそも、令牌術の中身はぶんに縛られるし、大きなことは数名がかりでやっとできるかできないか、なのよね。天后なら、詩どころか、文字をひとつちゆうに書くだけで、天からたきのような雨を降らせ、地をも貫く火柱を立てることもできるというのに)

 物想いに沈む雛花に、志紅が「ああ、そうだ」と手を打つ。

「よかったら、久しぶりに何か書いてもらおうか? あっちの行列ができている花文字の店は、退たいえきした令牌術士がやっているらしい。簡単な願い事なら叶うかもしれない」

 志紅の提案に、雛花は、店先に並べられた花文字の見本をながめた。縁起のいい『喜』『福』などの字や、ありがちな個人名の上でおどる、色とりどりのうめたん

 立身出世の縁起をかつぐきんでいうろこを縁取ったこい、富のしようちようである古銭、成功を祈る船。

 男女の神々のしんであるとされる黒白の蜥蜴とかげ。そして、彼らの本性とされる、銀のたてがみを持つこくりゆうの伏羲しんくん、金のたてがみのはくりゆうである女媧娘々──。

「ええ……久しぶりに、書いてもらおうかしら」

「いいよ。なんて書く?」

(いつか、紅兄さまがわたくしのことをちゃんと女の子として見てくれますように、……って、きっと昔のわたくしなら願っていたわ)

 一瞬だけよぎったらちな願いを、雛花は即座に頭のかたすみに追いやった。

「無事に女媧娘々をこの身に降ろせますように、って」

 雛花がそう言った途端、志紅の緋色の瞳がわずかにかげった気がした。

「紅兄さま?」

「さっきもそうだったけど。やっぱり、何をするにも天后の夢が最初にあるんだね、小花」

「えっ? はい。無理だ無茶だと言われ続けていますし、令牌術もろくに使えない、頭でっかちの能なしとそしられようとも、というか実際そのとおりでも、諦める気はございませんわよ」

「息をするように自虐するな本当に……。いや、それはいいとして。こんなことを言ったら、小花は怒るかもしれないけど……」

 一呼吸置いて、そこで志紅は、わずかに視線を落とした。

 せいかんな顔にどこかものげな色が差し、雛花がいぶかった時だ。


「小花。天后になるのを諦める気はない?」


 ひゅう、とをざらついた空気が通りすぎていく。

 一瞬、何を言われたか分からず、雛花はどうもくした。

「は、はい……? ごめんなさい、よく聞こえませんでした……」

 今日、本当にしたかった話はそれだ、と志紅はさらに続けた。

「天后になるために、小花がずっと努力していたのは知ってる。皇子皇女の中でも、こんの学問を特にきわめ、れい作法やおんぎよくくする者を神々は好むけいこうにあるから。でも、もうそろそろ天后を目指して長い。見切りをつけるころあいかもしれないと──」

「どうして?」

 まだ何か言おうとしている志紅を、雛花はさえぎった。

「いきなり、どうしてそんなことを言うんですの? 紅兄さまは、──おうえんしてるって、努力しているわたくしがいいって!」

「小花」

しんしようたんどころか岩石をまくらに竹炭をかじって日々はげみ、地べたをいずり回って血ヘドいて眼からけつるいを流しているわたくしが気に入ってるんだって、おっしゃったじゃありませんの!」

「いやそこまで言ってない」

 冷静な突っ込みが入る。ぐっと詰まる雛花に、さらに志紅は追い打ちをかけた。

「この際、きちんと話しておいたほうがいいと思って。小花、きみは天后に向いていない」

「え……」

「それできみが幸せになれると、俺にはどうしても思えないんだ」

 何を言われているんだろう。雛花は、その場に呆然と立ち尽くした。よりによって、彼から、そんな言葉を。震える唇から、ようやく声を絞り出す。

「あなたからだけは、聞きたくなかった……!」

 かっと頭に血がのぼり、雛花はしようどうてきに叫んでいた。

うそつき!」

「小花──」

「わたくし絶対諦めない。どんなことをしても、女媧娘々に降りていただいて、天后になるんだから!」

 勢いのまま言い捨て、そのまま背を向けて走りだす。くつの先が小石をばすかすかな音にまじり、志紅の引き止める声がしたが、意識の外に追い出した。


「けど、小花、……きみは、決して天后になれないんだよ」

 数秒ののち、その背に呟く志紅の柘榴ざくろの瞳にひらめくほの暗いものに、駆け去った雛花は気づかなかった。

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後宮天后物語 ~簒奪帝の寵愛はご勘弁!~ 夕鷺かのう/ビーズログ文庫 @bslog

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