女媧降臨 その2
ほう、と雛花はため息をついた。ただ立っているだけでも、どことなく、彼の周囲だけ静けさ、
ちなみに
「本当、天は二物を与えずって言うけど紅兄さまには三物四物与えてますわよね、あー
「なんだか相変わらずだな、小花は。
「お久しぶりですわ、紅兄さま。いつぶりかしら」
「先月の、きみの母ぎみの
(あなたに会ったから、元気になったんです! なんて、言えたらいいんだけど!)
我ながら現金なものだと、はしたなくゆるんだ頰を隠すように、雛花は話題を
「お仕事でお忙しい紅兄さまが、なんのご用?」
「ちょっとしたお誘いをね。勉強は進んでいる?」
「皇宮書庫内にある書物は三周くらいしました。もう、
「そうか」
偉いな、と、緋色の瞳を
(嬉しいけど、複雑。こんな風に撫でてもらえるのは
かねてより悩みの種だが、逆に、そんな
(紅兄さまのお父ぎみ──荊
一連に志紅は関わっていないが、反逆者の息子として
乱の後の荊家は、当然のこと
(わたくしが
昔から、天后になりたいという雛花の夢を、馬鹿にせずに聞いてくれたのは、ほとんど志紅だけだ。最も親しい
「勉強は順調なのだけれど、……
「……雛花は本当に天后になりたいんだね」
「ええ、それがわたくしの生きる道ですもの! でも、……今のところ
「そうか」
それから、「そうだ、誘いの件」と手を打つ。
「小花。もし忙しくなければ、今日は外に出てみないか」
「え?」
そこでやっと雛花は、彼が、儀同将軍の証である、
少し話があって、と志紅は
「勉強の気晴らしにお
国内でも中心部となる四つの都のうち、もっとも大きな城市である。四季の名を
その街並みは、石の
こと、南北を
「あ。あのお
お忍びのため、簡素な
はしゃいでいるはずの
「待って
「だってあんなに肌が白くてもちもちで、頭の中に
「小花はおかしなことを言うな。それを言うなら饅頭生だと思うが」
「おかしなことってそこ!?
「そうかな。じゃあ、どうぞ」
「えっ!? いつの間に注文してらしたの?」
(すごい。まさに食べたかったのだけど、絶対、さっきの会話より前に買ってらしたわよね。昔から不思議。紅兄さまってよく気がつくというか、わたくしが言う前に、心を読んだみたいに先どって行動できてしまうのよ。……きっとみんなにそうなんだろうけど!)
常の
「ごめん、小花はもう小さい子供じゃないのに、つい、昔みたいに……。立ったまま食べるのは気になる?」
「だ、大丈夫ですわ! 違います、逆で! 美味しそうで見つめてしまっていただけ!」
慌てて一口かじると、熱々の包子には、やはり野菜や
「う。おいっしい……やっぱり勝ち組……」
思わず口許を押さえる雛花に、「よかった。でも、食べ物を褒めるのに『勝ち組』とは初めて聞いたな」と志紅は微笑んだが、そこでふと表情を
「ところで小花。最近、困ったことはない? 何か、きみの心を
「離宮の室内にカマドウマが出ました」
「そうか、カマドウマ! そういえばあの虫、小花は昔から苦手にしていたから」
「わっ、悪かったですわね
「饅頭の次は虫か。なんにでも嫉妬して楽しそうだな。でも、虫でよかった。万一、また
「? ごめんなさい紅兄さま、最後、なんておっしゃったの?」
あのバッタを数倍気色悪くしたような堂々たる姿を思い浮かべて
「けど、そうか。虫に
ふっと表情を暗くする志紅に、雛花は「そんなことないです!」と
実際、荒れた家屋の補修を手伝ってくれたり、食材を届けさせてくれたり、彼にはこれ以上ないほど絶えず心を配ってもらっている。
「虫はたまたまで……いつもは住めば都というか
南側の窓によりかかってくつろいでいると、
「陶淵明とはおいしい酒が
わたわた
「
「それはむしろ羨ましすぎて憧れるより夢の域ですもの!
「そんなことないのに。お遊びで言うのは自由だろう。他には、何がしたい?」
好きだからこそいっそう美しく感じる横顔にしばし見とれ、味などあるはずもないのにとろりと
「小花、どうかした?」
挙動不審な雛花に、志紅は
「べ、別に!? お饅頭が美味しかったなって、思っていただけですの」
「そう。じゃ、もうひとつ食べる?」
「いりませんっ。……太りますもの」
「小花なら太っても可愛いよ」
「かわっ……!?」
「うん。くるみで
「…………ちゅう」
「ははっ、今は細すぎて心配になるくらいだから似てはいないな」
とっさに受け狙いで
(って、女子をたとえるのにネズミの仲間はないでしょ紅兄さま!? たとえネズミ並みに存在感が
(わたくしだってもう、十六歳だし……少しくらい、女性
「小花、百面相」
むくれてそっぽを向く雛花の頰を指先で押して、志紅は肩を
(いたずらが成功した男の子みたいな顔)
それこそリスよろしくむーっと頰を
(ああ。……やっぱり大好きなんだわ。わたくし、このかたが)
そして
(わたくしが今目ざしているのは、
──〝ああ、不快だ。お前の首をこの場で代わりに落としても、余にはなんの利にもならぬ。せめて不在続きの天后の座をお前が埋めてみせるくらいの
かつて、床にひれ伏し額をこすりつけた雛花の頭の上から降ってきた、
日常というのは
「それにしても紅兄さま。市街って、いつもこんなものだったかしら?」
暗くなりがちな思考を追い払うように、雛花は志紅に話題を振った。ふと、
「いつもこんなもの、って?」
「なんとなく、前に来た時より活気が
きょときょとと周りを見回して、雛花は首をひねった。
最初は久々の外出にはしゃいでいたから気に
雛花の問いに、志紅はわずかに
「ああ……最近、城市には『
「え? たしかに、多いって話は聞くけれど、こんな街中にまで? まさか」
「
それぞれが文字の音と意味を指し、この組み合わせでさらに木、火、土、金、水の
しかし、名付けられることを
「春燕はまだましで、辺境は数年前から
(皇帝と天后がきちんと
よく見れば、家々には補修中だったり、屋根や
(だめね。せっかく紅兄さまとお出かけなのに。変な話題で空気を重くしちゃった)
気まずくなって、雛花はさらに話題を変えることにした。
(そうだ、
「見て、紅兄さま! 花文字のお店があるわ」
雛花は、大通りに
花文字とは、槐帝国に古くから伝わる伝統工芸で、読んで字のごとく文字を花のように
ちなみに、
実力のある令牌術士ならば、水にまつわる詩を
(令牌術の心得はわたくしにもあるけれど、あまり術がうまく使えないのよ。どうにか上達したいのだけれど……。そもそも、令牌術の中身は
物想いに沈む雛花に、志紅が「ああ、そうだ」と手を打つ。
「よかったら、久しぶりに何か書いてもらおうか? あっちの行列ができている花文字の店は、
志紅の提案に、雛花は、店先に並べられた花文字の見本を
立身出世の縁起をかつぐ
男女の神々の
「ええ……久しぶりに、書いてもらおうかしら」
「いいよ。なんて書く?」
(いつか、紅兄さまがわたくしのことをちゃんと女の子として見てくれますように、……って、きっと昔のわたくしなら願っていたわ)
一瞬だけ
「無事に女媧娘々をこの身に降ろせますように、って」
雛花がそう言った途端、志紅の緋色の瞳がわずかに
「紅兄さま?」
「さっきもそうだったけど。やっぱり、何をするにも天后の夢が最初にあるんだね、小花」
「えっ? はい。無理だ無茶だと言われ続けていますし、令牌術もろくに使えない、頭でっかちの能なしとそしられようとも、というか実際そのとおりでも、諦める気はございませんわよ」
「息をするように自虐するな本当に……。いや、それはいいとして。こんなことを言ったら、小花は怒るかもしれないけど……」
一呼吸置いて、そこで志紅は、わずかに視線を落とした。
「小花。天后になるのを諦める気はない?」
ひゅう、と
一瞬、何を言われたか分からず、雛花は
「は、はい……? ごめんなさい、よく聞こえませんでした……」
今日、本当にしたかった話はそれだ、と志紅はさらに続けた。
「天后になるために、小花がずっと努力していたのは知ってる。皇子皇女の中でも、
「どうして?」
まだ何か言おうとしている志紅を、雛花は
「いきなり、どうしてそんなことを言うんですの? 紅兄さまは、──
「小花」
「
「いやそこまで言ってない」
冷静な突っ込みが入る。ぐっと詰まる雛花に、さらに志紅は追い打ちをかけた。
「この際、きちんと話しておいたほうがいいと思って。小花、きみは天后に向いていない」
「え……」
「それできみが幸せになれると、俺にはどうしても思えないんだ」
何を言われているんだろう。雛花は、その場に呆然と立ち尽くした。よりによって、彼から、そんな言葉を。震える唇から、ようやく声を絞り出す。
「あなたからだけは、聞きたくなかった……!」
かっと頭に血が
「
「小花──」
「わたくし絶対諦めない。どんなことをしても、女媧娘々に降りていただいて、天后になるんだから!」
勢いのまま言い捨て、そのまま背を向けて走りだす。
「けど、小花、……きみは、決して天后になれないんだよ」
数秒ののち、その背に呟く志紅の
後宮天后物語 ~簒奪帝の寵愛はご勘弁!~ 夕鷺かのう/ビーズログ文庫 @bslog
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