第4話 忌子

 警察に事情聴取された帰り、精根尽き果てた私は家の玄関で倒れ込んでしまう。取調室では「彼については何も知らない」としか答えようがなかった。向こうは夫と篠山の関係について聞きたがっていたようだが、そんなもの私が知るわけがない。

「俺はあいつと繋がってる」篠山の最期の言葉がリフレインする。繋がっているとはどういう意味だろう。ただの知り合いというわけでもない。因果めいた何かで関係付けられている、そういう感じがする。

 そこまで考えて背中に寒気が走る。ただの印象の問題じゃないかと私は直前の思考を振り払う。玄関で寝ているわけにもいけない、重たい身体を引きずって洗面所に向かう。

 すると、部屋の奥の方から電話の音がする。留守電だ。「ピーという発信音の後にお名前とご用件をお伝えください」


 上司からだった。「最近欠勤が続いてるが大丈夫か」「会社のみんなも心配してるぞ」とその種の言葉が続いた。

 それを聞いて私はうんざりする。労いの言葉は結構だが、私はそれに応えられる状況では全くない。

 機械のボタンに手をかけ、電話を切ろうとした次の瞬間

「林さんについて伝えなければいけないことがある」と、電話の先の上司が言う。

 思わず手を離し私は続きの言葉に耳をすます。林さんがどうしたと言うのだろう。

 すると

「あの日、仁江さんが会社に来なくなった前日。林さんの事件があっただろう」

「彼女が取り憑かれたように書き込んでいた内容、私も一瞬見ただけだから全部はわからないが」

「「仁江薫は忌子」という言葉が目に入って」

「仁江なんて名字早々あるもんじゃない、それに仁江さん子供できたって言ってたろ」

「もしかしてと思って」

 恐ろしさのあまり私は電話を切った。仁江薫、私と夫が子供につけようとした名前。男の子でも女の子でも良いように二人だけで考えた名前。なぜ林さんがそれを知っていて、忌子だなんて酷いことを。


 結局その夜は眠れなかった。篠山さんの言葉、林さんの言葉、頭の中をぐるぐる回りながら、夫のことをまるで知らなかったという確信が不気味に膨らんでいく。午前四時を回った頃、私は失踪後ずっと入らないできた夫の部屋についに足を踏み入れた。綺麗に整頓された部屋だ。彼の性格をよく表している。すると私は夫の携帯と財布が机の上に並べて置いてあるのを見つけた。携帯も財布も持たずに消えたのかと思いながら、スマートフォンの暗証番号を打ち込む。結婚記念日では通らず何度か別のものを試して最後に夫の生年月日を入れると通った。

 もしやと思ってLINEのアプリを開く。会話の履歴に何人もの知らない女性の名前が並ぶ。悪い予感が的中したようだ。

 そこから見える彼の交際関係はそれはもう悲惨な有様だった。複数の女性との肉体関係を匂わすやりとり。放射状の愛。そんなフレーズが頭に浮かんだ。

 私は潤の名を騙ってそのうちの一人とコンタクトを取ることにした。復讐というよりも仁江潤という人物にもっと深く迫りたい、そういう気持ちだった。


 翌日向こうから返事が返って来た。向井直子という女だ。失踪後連絡がないので心配していたという。白々しい、と思いつつその気持ちを抑えて私は返信する。

「最近仕事が立て込んでてね。連絡なしでごめん」

「それで急に悪いんだけどさ、今週末どっかで会わない?」

「直子の都合に合わせてで良いから」

 潤は彼女のことを下の名前で呼ぶらしい。本当に最悪の気分だ。


 数日後、約束の時間に現れた私を見て、向井直子は何かを悪いことを悟ったような顔をしていた。「まさか奥さんがいるなんて」とは彼女の言葉だ。夫は向井と会うとき結婚指輪を外していたらしい。

 潤と知り合ったのはちょうど今から一年前、高校の同窓会で会ってからとのことらしい。夫は私の存在を隠して彼女に近づき、高校時代からずっと好きだっただのなんだの適当なことを言って男女の仲にまでこぎつけたのだ。実にありそうで他人事のような話だ。自分に降りかかるまでは。

 向井の言うところによれば、夫は基本的に優しく礼儀正しい人物とのことだった。ただ子供を産む産まないの話になると豹変し、経済的に子供を出産するのが難しいといくら説明しても言うことを聞かなかった。そんな潤の態度に疲れたのか、二人の関係は少しずつ疎遠なものになっていき、それが彼が失踪するまで続いたということらしかった。

「正直あなたが羨ましい」と彼女は言った。

 潤の子供を産める私のことが羨ましいと。なんて身勝手な言い方だろう。潤を私から簒奪しておいて。でもそんな怒りの感情はおくびにも出さず。

「でしょうねぇ」と愛想笑い。


「ところで私の家に行きませんか?面白いものがお見せできますよ」そう提案してきたのは彼女からだった。

「面白いものって?」私は当然そう聞いた。すると

「うちの家に幽霊が出るようになったんですよ。潤さんと知り合ってからずっとです」

「そっちの家の悪い気がこっちにまで流れ込んできちゃったみたいで嫌なんですよね」

「責任取ってもらうっていい方は変かもしれないですけど」

 本当にどうしようもない女だ。幽霊に何にでも呪い殺されればいい。が、夫と何か関係があるかもしれないとも思い、渋々承諾した。


 向井直子の家はそう遠くはなかった。車で20分程度走らせた先にある古びた一軒家。手入れされていない庭は雑草だらけになっており、他も一歩間違えれば廃墟という感じの外観だ。確かに幽霊が出そうな雰囲気はある。

 最初に足を踏み入れたのは向井で、その後に私が続いた。

「いろいろあって汚いかもしれないですけどご容赦ください」と彼女が言う。確かに部屋のいたるところにゴミが散乱し、足の踏み場があるかどうかも怪しい。壁には見たこともない紋章らしきものが無数に刻まれている。「あれ何なんですか?」と聞くと「魔除けですよ魔除け、あれがないと幽霊で酷くなりますから」とのこと。ゴミだめの部屋と壁にびっしり書き込まれた意味も由来もわからない紋章。よくないものを招き入れるには格好のシチュエーションかもしれないなと恐怖を通り越して私は笑ってしまう。

「で幽霊は一体どこに現われるんです?」と奥の方にいる向井に聞くと返事がない。慌てて前の方に向かったが彼女の姿が確認できない。それで部屋中探してみても彼女の姿はない。眼に映るのは気味の悪い紋章ばかり、クラクラしながら家の中をさまよい歩いていると祭壇らしきものが食卓の上に置かれているのに私は気づく。祭壇の上に奉られているのは、写真だ。暗くてよく見えないが女の顔のようなものが写っている。それを見て何故か私は猛烈に怖くなり写真を手にとって破り捨てた。すると次の瞬間突然背後から全裸の老婆が襲いかかってきた。顔をよく見れば私の死んだ母親のそれだ。腹は妊婦のように醜く膨らみ、両目は白濁しきっていて何も見えていないように見える。何故母親の幽霊がこんなところにと私が困惑している間にも、幽霊は私を攻撃するのをやめない。そうこうしているうちに私は母の幽霊にマウントを取られる格好となり、母の口から鼻から目から黒いタール状の何かが垂れ、私の胸、首、顔を黒く汚していく。ゴボッゴボッと黒い粘液を口から垂らしながら母の幽霊は「仁江薫は忌子だ」「仁江薫は忌子だ」とひたすらにぶつぶつ繰り返す。ここでも子供の名前だ。

「仁江薫は私の子供です。誰に何と言われようとも私の子供なんです」と私が言い返すと

 幽霊は急に苦しんだ様子になり、胸から首、口へとゴボッゴボッと液体が上がってくる音がしたかと思うと口から、黒いタール状の液体がドバドバドバって一気に私の顔に降りかかってきて。それ以降の記憶は今もない。

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ラディアル・ラブ @blue_panopticon

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