第3話 再会

 夫の失踪、両親の死、林さんの事件と続けて起こる不幸についに私は疲れ果てた。産休を待たずして会社に行かなくなり、家に引きこもるようになる。食事も粗末なものばかりだ。

 そうしてずっと家にいる私だが、決して夫の部屋に入ることはない。現実に直面するのが怖かったのだと思う。失踪するまでの夫の思考をトレースするようでとにかく恐ろしかった。だから彼を探す努力も最初から放棄したのだと今になって気づいた。

 夫が姿を消してから彼の会社から全く連絡がないことも、つい最近まで全く不思議に思わなかった。考えてもみれば妙な話だ。家には帰らず会社には行くなんて。


 それでほんの僅かな希望と好奇心を胸に、私は潤の勤め先に電話をかけた。私が夫の名前を出すと向こうは聞きなれない様子で

「仁江さん、ですか。変わった苗字ですね」と。

「え?」思わず声に出る。同僚の名前も覚えてないのは、おかしい。

「同じ職場で夫が働いていると聞いてたんですが......」

「いやー私は少なくとも知らないです。ここで20年以上やらせてもらってますが」

 変だ。

「かけ間違いじゃないですか?」

 おかしい。

「絶対にいるはずなんです。調べてもらったら分かりますから」

「......分かりました、少々お待ちください」

「お待たせしました」

「こちらで社員の名簿を当たってみたんですが、仁江さんという方は残念ながらいらっしゃらないみたいですねえ」

「そうですか......」

 夫が私にどれだけの嘘をついていたのか、考えただけで吐きそうだ。


 私は潤のことをまるで知らなかったのかもしれない。そう思って大学時代の共通の知り合いに片っ端から連絡した。

 すると誰もが「仁江潤なんて人は知らない」と答える。私一人だけ気が変になったような、そんな感じだった。

 それで最後に電話したのが、篠山康太だった。一年生の頃ちょっとだけ付き合って別れた、元彼とも言い難い関係だ。なんで彼に連絡しようと思ったのか私にも分からなかった。

「急に電話してごめんね。私のこと覚えてる?穂乃果だよ」

「ああ穂乃果ちゃんか。久しぶり」

「それでいきなりなんの用事?」

「いやー大学時代の話なんだけどさ、仁江君っていたじゃない?覚えてる?」

 しばらくの沈黙。またかと思い電話を切り上げようとした次の瞬間

「ああ、あいつか。覚えてるよ」と予想外の返事。

「少人数の同じ授業とってたからさ」

「ところで穂乃果ちゃん仁江と結婚したんだってね」

「どうしてそれを知ってるの?」私は思わず聞く。

「あいつとは、色々繋がりがあってね」

 意外だ。夫から彼の名前を聞いたことがない。

「それ、もっと詳しく聞かせて欲しい」

「いいけどさ、電話じゃなくて直接会って話さない?俺暇なんだよね」

 私は迷ったが結局オッケーを出した。家に引きこもってばかりでしばらく他人と会話していない、こんな状態が続くのもよくないだろう。それに夫の問題から目を逸らし続けるのももう限界だ。


 夫が消えて一ヶ月が経ってやっと警察に捜索願を出した。彼の両親にも連絡した。手遅れかもしれないと思いながらも何もしないよりはましだという思いだった。

 約束の日に現れた篠山の姿を見て私は驚いた。上に着たニットは毛玉だらけで、チノパンにシミが無数にできている。髪は数週間洗っていないだろうという感じで、異臭がこちらにまで漂ってくる。まるで浮浪者だ。

 正直言って店の中の周囲の視線が痛い。そんな私の心情を察したのか

「久しぶりに会ってこんななりじゃびっくりするよね」と彼は力なく笑う。

「色々あってさ、今じゃ寝泊まりする家もないし」

「そうなんだ......」短い間とはいえ付き合った仲だ。私はひどくショックを受けた。

「まあ俺のことはどうでもいいさ」

「身の上話が聞きたくってここに来たわけじゃないだろ?」

「うん」

「仁江がいなくなってどれだけ経った?」

「え?」

「いなくなったんだろ、お前の家から」

「どうして知ってるの......?」

「言っただろ、俺はあいつと繋がってるって」

 そう言って篠山君はフォークを手に取り、その先端を首筋に食い込ませる。3つの棘がズブズブと皮膚の下へと沈んでいき、真っ赤な、鮮血が。

「何やってるの篠山君!」

 私が急いで止めにかかった時には時すでに遅しだった。ぷしゃあっと、シャワーのように血が降りかかる。視界が赤く染まり、私はその場で気を失った。

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