第2話 連鎖
潤が消えて一週間が経った。彼の消息を知らせる連絡は一切来なかった。会社や彼の両親に問い合わせたり、警察に届けても良かったが、私はなぜかそうしなかった。多分そんなことをしても夫は帰ってこないと心のどこかで思っていたのだろう。彼には彼なりの決心があって、それで私と腹の中の子供を残して消えたのだから。
怒りがなかったといえば嘘になるが、それよりも身に堪えたのが虚無感だった。夫との生活、将来、そういうものが一気に崩れ去った。きっと彼が目の前に再び現れたとしてもそれらは元には戻らない。もう手遅れなのだ。
そうやって半ば生きる屍のように日々の仕事をこなしていた私をさらに追い詰める知らせがやってきた。両親の死だ。
旅行先の湖での溺死、警察からはそう伝えられた。真夜中にボートを漕いでそのまま転覆、人気がなく発見が遅れたとのことらしい。水死体に変わり果てた両親の姿を想像して思わず吐きそうになる。
夫が消え両親が死んだ。残されたのは私とお腹の子供だけ。どうしてこうなったんだろうという疑問がどんどん降り積もって私を圧迫する。仕事中もずっとそのことばかり考えていて目の前のタスクに全く集中できない。まるで霞がかかったようだ。
そんな私の様子を見かねたのか同僚の林さんが休み時間に話しかけてきた。先輩の彼女には普段から気をかけてもらっている。
「田中ちゃん元気ないね。ちゃんと食べてるー?」
林さんは私を旧姓で呼ぶ。
「心配かけてすいません、仕事でも最近ミスが多くて......」
「別に謝ることないわよ。調子悪い時は誰にだってあるし」
「ただ私は純粋に心配なだけ。何かあったんじゃないかって」
先輩の優しい言葉に涙が出そうになる。いっそ何もかも打ち明けてしまおうかと喉まで出かかったがなんとか堪えた。そんなことは先輩は露も知らず
「私も最近なんだか体調が変なのよねー」と。
「え?」と思わず私が聞き返すと林さんは
「背中に変なできものができてね。痛くも痒くもないのがかえって不気味よね」
「ほら、痛みは体の注意警報だって言うじゃない」
「そういうのがないうちにいつの間にか手遅れになってるってのが一番怖いわ」
「田中ちゃんも気をつけないと」と警句をよこしてくる。
まるで潤のことを言われているようで私は何も返せなくなってしまう。それを見て林さんは何かを察したのか
「まぁ辛いことがあったらほんと相談してよ。話聞くからさ」と言ってくれる。しかし結局私は曖昧な返事しか返せない。
そうこうしているうちに休み時間が終わり、先輩は自分の持ち場に戻っていった。誰にも相談できないまま憂いばかりが募るようで本当に辛くなる。当然目の前の仕事にはまるで集中できない。それでさらに自分を責める。負のスパイラルだ。
どうしようもなくなった私は、全部投げ出すようにして視線を窓に向けた。わずかに社内の様子が反射して見える。それで林さんが何か必死にパソコンに打ち込んでいるのが分かった。仕事をサボっている私とは大違い。思わずため息をつく。
次の瞬間、上司が席を立つのが視界に入って私は慌てて視線を自分の持ち場に向け直す。こうやって定期的に部下の仕事ぶりを確認してくるのだ。それで私は彼が来ないようにと願いながら一生懸命仕事しているふりをする。
そうやって茫然と液晶画面を眺めていると上司が驚いた口調で
「何をやってるんだ君は!」と叫ぶのが聞こえた。
思わず声のする方向を見るとそこにいたのは林さんだった。先ほどと同じように一心不乱にパソコンに何かを打ち込んでいる。上司の声かけにも一切反応しない。何かがおかしい。
そのうちだんだんと林さんの腕の動きが激しくなり、キーボードを叩きつけるようなものになっていく。周囲の人が力づくで止めようとするがひどく抵抗される。見かねた上司が社内警備に連絡しようとした次の瞬間
「ドンッ」林さんの頭が液晶画面に思いっきり叩きつけられた。
真っ赤な血が割れた液晶の上をツーっと伝っていく。あまりの状況を前にして私は自分の意識が遠のいていくのを感じていた。
「林さんは一体何を書き込んでいたんだろう?」
それが自分の記憶にある最後の思考だった。
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