重荷を背負った少年

そこからは怒涛の日々だった。


いつのまにか僕らは名前で呼び合うようになったが、なぜか僕だけがずっと「木谷」のままだった。


ベースとギターはノボルが持っているのを僕と紀恵が借りて練習した。ドラムセットはさすがにノボルも持っていなかったので、聡は駅前の音楽スタジオでの練習時には休憩なしでぶっ続けの練習をしていた。中学ぶりだというのに、とても上手に思えた。

僕がやっとFのコードをきれいに出せるようになったとき、ノボルは僕以上に喜んでくれた。


週三回通っていた塾も、半分以上は遅刻するか、欠席した。親にはクラスの友達と勉強すると嘘をつき、練習時間を確保していった。ノボルは規則的に週に二度、学校を遅刻した。少し遅刻する程度ではなく、お昼休みに入るまで来ない日があったが、担任は何も言わなかった。僕の家の小さな庭の青々とした草花が少しづつ育っていくのを、僕は毎朝横目に学校へ行った。


ギターの上達には、それ以上に犠牲を払った。中間テストは庭の草花とは違い、真っ赤に染まっていた。

 「あ、いたいた。去年の文化祭ぶりに来てちょっと迷っちゃった」

毎日顔を合わせているはずの母が場違いな学校に来るまで、三者面談だったことをすっかり忘れていた。

教室には三者面談用の机が三つ、二席が隣り合わせで一席と向かい合うかたちで並べられ、残りの席はすべて後ろに寄せられていた。

「では、木谷さん。はじめましょうか」と先生が僕にしか伝わらないくらいの刺々しさで母親を迎えた。

「先生いつもありがとうございます。どうですか?最近の息子は?」

「息子さんから、中間テストの結果は聞きましたか?」

心の準備もないまま、最悪の時間が始まった。

「ええ、いつもより少し悪かったと聞きました。具体的に何点とは、聞きませんでしたが」

「そうですか」と言った先生は睨みつけるように一瞬僕に目を配った。

「実はですね、全教科ほとんど三十点前後だったんですよ」

「ええ! そんな……毎日遅くまで友達と勉強していると聞いていたのですが……」

「そうですか。実は、四月に転校してきた嵐山ノボル君という生徒がいましてね、どうも嵐山君にそそのかされて、毎日ギターを弾いているそうですなんですよ」先生は前かがみになり深刻そうに語る。「この大事な時期に……」と続けると、そのまま下を向いて沈黙を作り出した。

「……ちょっと、どういうことよ! 説明しなさい!」隣に座っている母が、距離感を気にせず大声で怒鳴った。

「……本気でやってるんだ。夏に大きな大会があって――」僕の話を遮って母がまた大声で怒鳴りだす。

「現実を見なさい! そんなの勉強からの逃げでしょう? この時期になって、何をやっているのよ!」

「まぁまぁお母さん。落ち着いて下さい」先生もここまで母が大声で怒鳴るとは思ってもいないだろう。

「木谷君、お母さんの言う通り、この時期には勉強から逃げ出す生徒が結構いるんだよ。君も勉強が辛いからって、逃げてしまっては、今後の人生を棒に振ってしまうよ?」

「そうよ、もうそのギターなんてものはやらせません。これからは毎日すぐに家に帰って勉強よ」

僕は二人から罵られたのにも関わらず、いや、罵られたからこそか、思ったより頭は冴えていた。

「……違うよ。僕は逃げてない」反抗心で言ったわけではなく、心から違うと思った。

「今までずっと勉強してきた。ずっとずっと勉強してきた。そんなずっとやってきた勉強をやらないんだよ? それが逃げのはずないだろう? 何も考えず勉強した方がどんなに楽か。勉強をやらないことがどんなに怖いか――」

「それならなんでちゃんとやらないのよ!」母が遮って怒鳴る。

「自分で考えなきゃダメだって思ったからだよ!」母の怒声を上回る大声がでた。

「勉強はちゃんとします。でも、夏まで、夏の大会が終わるまではやらせてほしいんだ」

僕は母親を見つめて素直な気持ちを話した。「今まで、母さんや父さんのいうことを聞いて、勉強頑張ってきて、それでいいと思っていたんだ。このまま良い大学を目指して、一流企業に就職を目指すことが一番いいと思っていたんだ。けど……」

「そうよ。それの何がいけないのよ?」と母は怒りを交えながらも不思議そうな表情に変わっていった。

「ちゃんと自分の意志を持つことが大切だって思ったんだ。ノボルはそれを持っている。僕は、そんなノボルと一緒にいたいんだ。そうすれば、僕も何か変わりそうなんだ。僕は変わりたいんだよ。母さん」

「何を言っているのか全然わからないわ。どういうことよそれ」

「うーん。あとはご家族の問題だと思いますので、家庭でゆっくり話し合ってください」と先生は匙を投げた。「そうします」と僕は足早に教室を後にした。人目を気にしない母のヒステリックな声が聞こえなくなるまで――みんなの待つ駅前のスタジオまで駆けた。


六畳くらいしかないスタジオの密閉された空間は異様な光景だった。ノボルが急に吐血したようで口からぽたぽたと血を流し、片膝を床に着き、手についた黒い血を眺めていた。紀恵が泣き叫ぶ。

「どうしたんだよ一体!」

「き、急に、ノボルが血を吐いて……」聡が動揺しながら言った。

「とにかく救急車だ――」


無我夢中で救急車の手配を行い――数分で駆けつけてきた救急隊員のおかげで、すぐにノボルは病院で治療を受けることになった。救急車の中では気が付かなかったが、この病院は学校から徒歩二十分のところにある県内有数と評判の病院だった。

『集中治療』の薄気味悪いランプが光る手術室の前で、僕ら三人はソファに横並びでノボルの治療を見守っていた。紀恵の啜り泣きと、パタパタと呑気に聞こえる看護師の小走り音だけが聞こえた。

しばらくすると、四十代半ばの品の良さそうな女性がこちらへ向かってきた。

「ノボルはこの治療室でしょうか?」と女性は僕らに向かって話しかけてきた。

「……そうです」と聡が小声で返す。

「ありがとう。皆さんノボルのお友達ね?ノボルの母です。いつもノボルをありがとう」と心配している気持ちを押し殺して――それでも僕らにはそれが伝わってはいたが――深々と頭を下げた。

「ノボル君、急に血を吐いて……」と紀恵が小刻みに吃逆をしながらそのときの状況を伝える。

「そう…もう限界なのね…」と言いながら、ノボルの母は不気味なランプに目を配った。

「どういうことですか?」と僕は『限界』という言葉に引っかかった。

「ノボルね、声ががなってるでしょう? 喉頭がんていう、喉の癌のせいなのよ。」

「え?」「嘘ですよね?」と聡と紀恵が同時に口を開く。僕は声も出せなかった。

「本当なの。癌の治療のために、名医のいるここまで北海道から引っ越してきたの。ノボルの父もね、三年前に喉頭がんを発症して、去年の夏に喉頭がんで亡くなってしまったの。気づくのが遅かった。気づいてあげられなかった。ノボルも……」そういうと淡々と話していたはずの声が少し揺らいだ。

「主人は煙草とお酒が大好きな人だったから。歌もね。その話も聞いてない?」

「聞いてないです」と僕は言った。

「主人はそこそこ売れてたバンドマンだったの。本当にそこそこだけどね。ノボルはそんな父親のことが大好きだった。いつも一緒にいた。一緒に居すぎたのね。ノボルは主人の吸った煙草の副流煙と、同じように歌っていたせいで、父親と同じがんになってしまったの。声ががなってるのも、主人の遺伝かと思ってたわ。だけど、違ったの。なんで気づかなかったのかしら」

「そんな話……」とまた吃逆をあげながら紀恵が泣いた。

「高校一年のはじめから二年生の夏まで、ほとんど入院している主人のところまでお見舞いに行っていたわ。学校もろくに行かずに。そのせいで、どんどん友達も離れていったみたい。あとで聞いた話なのだけど、あいつと話すとがんが移るって、いじめられていたらしいわ。そんなところ、微塵も出さずにノボルは笑顔で父親に毎日会いに行っていた――主人が亡くなるとき、ノボルはバンド甲子園が復活するニュースを知ったわ。実は第一回バンド甲子園の準優勝者が主人のいたバンドだったの。主人が成し遂げられなかったバンド甲子園で優勝するから、だからまだ生きろって、優勝する姿みろってずっと叫んでた。主人は「それは楽しみだ」って、ノボルよりも歪んだ声で小さく言って微笑んだの。それから微笑んだまま亡くなったの」と言いながら音も立てずに涙を一粒こぼしていた。大人が泣く姿に慣れていないのと、話の内容に僕は大きく混乱した。

「主人が亡くなって、少ししてからノボルも喉頭がんだって気がついたの。ノボルの方が主人よりも早いタイミングで患っていたようなのよ。五年も前。声変わりしたタイミングとちょうど重なったせいで、声の調子になんの疑いもなかった。進行はだいぶ進んでいて、これはもう北海道では診られないと言われて、名医のいる病院――つまり主人の亡くなったここの病院に通うことになったわ。週に二回午前中に検診と、週に三回午後検査があるのだけれど、ノボルは午後の検査には全然来てくれないって、さっきお医者さんから怒られちゃった」

ああ、だからノボルは学校を遅刻しても、先生は何も言わなかったのか。

「ノボルは私にも隠していたけれど、なんとなく気づいていたわ。毎日病院に通っていると嘘をついていることに。気づいていながらも、息子の命よりも、息子のやりたいことを優先させるなんて、馬鹿な母親よね。でも、あの子の表情をみていると、友達ができて、バンドが出来てとても嬉しいと思っていることがひしひしと伝わってくるのよ。そして、父親との約束を守るために、バンド甲子園で優勝するんだってことも――でもね」というと僕たちを真っすぐ見つめた。

「もうこれ以上バンドを続けさせることはできないわ。もうこれ以上ノボルは歌わない方がいい。あなた達には本当に感謝しているわ。一緒にバンドをやっているメンバーでしょう? ノボルを良くしてくれてありがとう。」というとノボルの母は再び深々と頭を下げた。

「今日は私がついているから、あなた達はもう帰っても大丈夫よ」

「……わかりました」と僕は不安で満たされた頭を垂れてお辞儀をした。


病院を出ると、今の気持ちには似合わないほど透き通った空気が全身を巡った。

「もうダメかもな。ノボルがあんなだし、バンド……」と聡が小声で呟くと、そこからは誰も口を開かず別れていった。

家に帰ると、母親から三者面談の続きを爆音で聞かされた。頭には何も入らず、終わった後はそのままアンプを抜かれたギターのように眠った。

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