通過点にさせない。ここが到達点(ピーク)だ。

冨田亮太

ギターを背負った少年

早朝の静けさの中、実家に帰った僕は玄関の年老いたドアをぎぎぎと開け、どうか誰も起きませんようにと願いながら、またぎぎぎと閉めた。


数年前に帰ってきたときは帰省する日程を母に伝えたばかりに、大勢の親戚が集まったせいで全く寛げなかったことから、今回の帰省は家族に伝えずにきた。


ベッドに小さなテーブル、それとCDコンポしかないシンプルな部屋。数年前と変わらぬ自分の部屋に安心し、一直線にベッドへ倒れこむと、何かが腰にあたる感触がした。

手を伸ばすと、コンポのリモコンだった。ボタンに手が触れてしまったのか、コンポから大音量のロックミュージックが鳴りだす。

僕はひどく動揺し、心臓が大きく膨張した。

音量に驚いたこと以上に、コンポに入っていた音楽に驚いたのだ。

急に目頭が熱くなり、溢れる涙をとめることができない。それでも、流れる音楽を止めることも、音量を小さくすることも僕にはできない。

あの頃を思い出すだけで今の僕には精いっぱいだった。


二十年前、あの頃が到達点(ピーク)だったと――


高校三年の四月。ギターを背負った男が僕のクラスに転校してきた。野山から下りてきたばかりのようなボサボサの髪、僕らと同じく進学校らしい清潔な紺色のブレザーに身を包んでいるはずが、後ろに背負ったギターケースのせいで転校初日とは思えないほどしわだらけになっていた。シャツの第一ボタンを外し、ネクタイは緩められひん曲がり、シャツが微妙にズボンからはみ出し、絶妙な腰パン具合により着る人間が変わるとこうもだらしなく見えるのかと思った。担任が自己紹介を促すと、彼は咳を一つ立ててから切り出した。

「嵐山ノボルっていいます。北海道からきました。この学校には軽音楽部はないと聞きました。今年の夏、全国バンド甲子園で優勝することが目標です。そのために軽音楽部を設立します。だれか一緒にバンドやりましょう。よろしく」

同年代にしては、やけに歪のかかったしゃがれた声で、聞き取るために多少の集中力が必要だった。

「馬鹿がきた」小さい声で誰かが言った。数人の笑い声も混じる。

先生が動揺しながら、

「は、はい。嵐山君に拍手。我が校は勉学に重きを置いているから、慣れないこともあるかもしれないけれど、分からないことはどんどん周りに聞きなさい。それでは後ろの席、木谷君の隣の席に座りなさい。木谷君、嵐山君に休み時間、学校を案内してくれたまえ」と言うと、数人のクラスメイトがまた笑った。

不自然に空いている隣の席にどんな女の子がくるか期待していたが、現実は少年誌から出てきたような現実離れした男だった。

「嵐山ノボル。ノボルって呼んでくれ」そう言いながら握手を求めてきた。

「僕、木谷。よろしく」そう言って握手した嵐山の手は熱く、強くかった。


一限目が終わり、休み時間になると唐突に嵐山が話しかけてきた。

「木谷君、バンド、興味ない? 音楽興味ない?」

嫌味のない満面の笑みを久しぶりにみた気がした。

「興味ないよ。ウチ進学校って知って転校してきた? 東大を目指す生徒がバンバンいる中で、この大事な時期にバンドやるなんて自殺行為だよ」と僕は知ったような口を言った。僕の学力では、東大はもちろん早慶も危ういというのに。

「それは知ってるよ」と嵐山は急にきょとんとした表情で言った。

「そういうことじゃなくて、木谷君はバンド興味ない? って聞いたんだよ。この学校がどうのとかじゃなくて」と彼は少し怒りを交えたように言った。初対面の人に急に迫られたからか、僕は混乱して、顔が熱くなった。

「ぼ、僕自身のことを伝えたんだよ」と言い捨て、恥ずかしくなり席を立ち教室を後にした。初対面の嵐山に僕という人間を一瞬で見抜かれた気がした。夢を持つことに恥ずかしさを感じ、親と先生の言うことを聞いて、いい大学に入って、いい企業に就職するのが一番いいことだと何の疑問も持たずに生きていること。けれど、進学が現実に近づくたびに、学校中が同じ方向を向いて生きていることに気味の悪さを感じ、疑問を持たないことに疑問を持つようになったことに。

休み時間に嵐山を案内することはなかった。放課後、ノボルの「なぁなぁ木谷君」という声を無視し、教室を後にした。長い廊下を歩き、転げ落ちるような音をたて階段を下った。下駄箱を開け、いつも通り一人で帰ろうと学校を出た時、どこからかギターの荒っぽい音が聞こえた。演奏というにはあまりにもがさつで、喧騒というにはあまりにも心を掴む音だった。上の方から聞こえてくる。気が付いたら遅刻寸前の登校日のように急いで校内へ引き返し、靴を脱ぎ、下駄箱から上履きを取り出し、投げ捨て、すぐに履き替えて走って屋上へと向かっていた。


屋上につくと、すでに二人の聴衆がいた。一人は同級生だけど、名前も知らないし喋ったことももちろんない。しかし身長がずば抜けて高い彼の存在は知っていた。彼はその大きい体全体で嵐山のギター音を受け止めていた。

もう一人は下級生の女子だった。確か毎回テストで学年一位を取っている秀才。たまに目にするといつも白いイヤホンを耳にかけている姿が印象に残っている。彼女はイヤホンを肩にかけ、体を奮わせているようだった。

僕もすぐに打ちのめされた。真っ黒なレザー素材に大小様々な星のシルバースタッズが付いたギターストラップを肩にかけ、焦がした飴色のギターを一心不乱に掻き鳴らす嵐山の姿に、目と耳の自由を奪われ、全身の細胞が人質となった。

ギターのジャック部分についた小さなアンプが音の所在だった。間近で聴くと、小さいアンプでも迫力がある。遠くにいてもかすかに聞こえたその音は、何かを変えたい僕を誘いだすには十分過ぎるほど甘美な響きだった。

ギターを掻き鳴らしたあと、嵐山は汗だくになりながら乱れた髪を上げると笑顔で、

「木谷君。バンドやろうぜ」と言った。

僕は人質となった細胞を少しずつ開放させると、「うん」と短く絞り出した。

「よし。やったぜ」と嵐山は笑った。「で、二人はどうする?」と続けて言うと、同級生の男が先に口を開く。

「俺、山中聡。三年二組。中学の時、文化祭でドラムをやってた。君みたいに上手じゃないけど、君と一緒にバンドがやりたい」

「お、経験者? やった! ありがたい! やろう!」と嵐山は無邪気笑って答えた。

下級生の彼女が一歩前に出る。まだ体が震えているように見えた。

「私、二年四組の金戸紀恵って言います! あの、私楽器使ったことないから何もわからないけど、今の演奏すごく感動しました! 私にも、できますか?」

「もちろん! やろう! うわっ。なんだ、よかった。やっぱり皆求めてたんだ――」と嵐山は嵐山なりに今日のクラスメイトの振る舞い、多分特に僕の振る舞いに疑問に感じていたんだろう。その疑問が解決したようで、安堵の表情に変わってきた。

「俺、嵐山ノボル。今日北海道から転校してきたんだ。今年の夏、バンド甲子園で優勝するのが目標なんだ! 初心者とか関係ない。俺が教えるし、音楽は気持ちだから」

「バ、バンド甲子園? まじかよ」と山中が興奮気味にいった。

「自己紹介の時にも言っていたけど、バンド甲子園って一体なに?」

「十数年ぶりに復活するバンドの大会だよ。ゴールデンタイムでテレビ放送されてたんだぜ。今回は深夜に放送されるみたいだけど、すごいことに変わりないよ!」とノボルは興奮交じりに言った。

「確かに言われてみれば、聞いたこともあるような気がする。」

一時期バンドブームを作ったと言われている番組のはずだ。

「でも、さすがに素人二人いて今からはちょっと難しくないかな?」と怖気づいた僕を気にも留めず、

「あ、あの!」と金戸さんが身を乗り出して言った。

「ん? なに?」と嵐山は答える。

「私、ベース、やってみたいです」

「いいじゃん!女性ベーシストかっこいいね!」と嵐山が嬉しそうに笑う。

「それで、あの、ギターがいて、ドラムがいて、ベースがいて、僕はなにしたらいいのかな?」

嵐山はニヤッとしてから、「俺と一緒にギターだよ」と言った。

もちろん不安しかなかったが、もう少し嵐山の近くで、嵐山といれば自分も変われるかもしれないと思った。

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