エピローグ

エピローグ

「童は……見たり……野中の、薔薇……」

 気付くと、由乃はのばらの歌を口ずさんでいた。あの時、柘榴が口ずさんでいた歌だ。

 いろんなことがありすぎて、既に遠い昔の事のように感じる。あれから、柘榴は話していた通り女学校を中退していった。しばらくは胸に穴が空いたように感じたが、そんな由乃を鼓梅やの々かが元気づけてくれた。普段通りに接してくれる彼女たちの気持ちが、由乃には嬉しかった。

 口の中で小さく歌を口ずさみながら、図書室へと足を進める。図書室の扉の前まできて、由乃は流石に歌うのを辞めた。図書室内でまで口ずさむわけにも行かない。

 ひとつ大きく深呼吸をして、図書室の扉を開け、中に入る。静かな図書室の中には、誰もいなかった。そのまま、手持ち無沙汰そうに由乃は本棚と本棚の間をゆっくりと眺めて歩く。ふと、由乃はその足を止めた。そこにあったのは森 紫鶴の著書、「証人」だった。手にとって見るとその表紙には、画家 文無あやなしの描いた渦の絵が描かれている。

 森氏と文無あやなしは、あの事件の後間も無く帝都へと帰って行った。その前日に、二人は極楽堂を訪れて由乃に二人の著名入りの本を手渡してくれた。あの本を鼓梅に見せたら、どんなに嫉妬するだろう。由乃は表紙の渦の絵を手でなぞりながら、くすりと笑って鼓梅の悔しがる姿を想像した。

「あら、森先生の小説ね」

 後ろから声をかけられて、驚いて振り返る。そこには、図書委員の桜子の姿があった。

「桜子……先輩」

「この前は、姉への出産祝いをどうもありがとう。姉も喜んでいたわ」

「あ……いいえ。あれは、こちらの姉が準備したもので、私は何も……」

「由乃さんは歴史小説も読まれるの?」

「はい。森先生の小説は、特に好きなので……」

 そう言って本を胸元で抱きしめると、桜子はにこりと笑った。そういえば桜子も、あの事件の被害者であったことを由乃は思い出した。

「桜子先輩は……あの後、体調は大丈夫なんですか?」

「あの後……ああ、あの赤い煙管の事件?……大丈夫よ。風吹先生に解毒剤を打っていただいて、だいぶ咳は治ったわ」

「そう……ですか」

 桜子は、和葉に心を寄せていた桜子は、あの事件をどのような気持ちで受け取ったのだろう。由乃には想像することしかできない。月宮雫といい、桜子といい、和葉にはどのような魅力があったというのだろう。

「……今、思えば。私は和葉さんに想いを寄せていたのではないかもしれないわ」

「えっ?」

 まるで心を読まれたかのように桜子が和葉の話を始めたので、由乃は驚いた。そんな由乃の動揺を余所に、桜子は言葉を続ける。

「私は、小説の中の主人公に恋をしていたのよ。そして、主人公に寄り添う黒ずくめの女に自らを重ね見て、勝手に和葉さんに主人公を重ねて……結局は、現実の彼の事など見ていなかったのかもしれない」

 桜子のその言葉に、由乃は何か得心がいったような感覚を覚えた。恐らくは雫もそうだったのかもしれない。だが、どこかで雫はその事に気付いていたようにも思う。だから、今際の際に手紙を届けたのではないだろうか。

 何もかも、由乃の想像でしかないけれども。そうであれば、柘榴と雫の縁にも一縷の救いがあるように思うのだ。

「きっと……それに気付けた桜子先輩は、強い方だと思います」

「そうかしら」

「きっと、そうですよ」

 気付くと由乃は無意識に微笑んでいた。それを見た桜子も、少し強張っていた表情を緩ませた。

「……改めて、お申し込みさせていただけないかしら。由乃さん、私のエスの妹君になってくださらない?」

「……えっ!?」

 桜子の言葉に、由乃の思考が止まって頭が真っ白になった。今、一体何を言われたのだろう。

「あら? お手紙は受け取っていただけたのでしょう? だからここに……」

「えっ、あの、下足箱に入っていたお手紙は……桜子先輩が……?」

「あらやだ……私、名前を書き忘れちゃったのかしら……」

 桜子が頬を赤らめる。つられて由乃も顔を赤くした。

 無記名の申し出の手紙に、本当は断るつもりでここにきたはずだったのだ。しかし、その相手が桜子だったとは思わなかった。由乃は、やぶさかではないと感じている自分に動揺していた。柘榴のことがあったばかりなのに、自分ときたら。

「……柘榴さんとのことは、少し噂で聞いているわ。だから、由乃さんが納得できたらでいいの。ね?考えておいてくださらない?」

 そう言って、桜子は由乃の手を取った。

「は……はい」

 勢いに飲まれて、とりあえずそう答える。由乃の回答に桜子は心からの笑顔を見せた。それは柘榴の物哀しい微笑みとも違う、朗らかで眩しい笑顔だった。

「そうね……カトリック系の女学校ではこういう時、エスの関係になる証にロザリオを渡すらしいわ。うちの姉様も由乃さんのお姉様に月長石の首飾りを頂いていたし……何かあったかしら?」

「あ、あの、まだそんな……」

 まだ考えておくだけ、という話のはずなのに、気の早い桜子の提案に由乃はたじろぐ。なかなかに桜子は積極的なほうであるらしい。

「そうだ、これでいいかしら?」

 そういうと、桜子は髪を結っていた山吹色の組紐を解いて、由乃に差し出した。桜子の髪が解け、窓から差し込む光に照らされてきらきらと艶めいている。思わず由乃は、その髪に見とれてしまっていた。

「私の姉様が編んで下さった組紐で、少し不恰好なのだけれども……もしお断りされるなら、返してくださって構わないわ。でも、もしお受けしてくださるなら……その組紐を使っていただけないかしら?」

 そう言って微笑む桜子の笑顔に、由乃は思わず二つ返事で承諾してしまいそうだった。なるほど、美しい髪の女性というのはこんなにも心奪われるものなのか。柘榴に声をかけた雫の気持ちが、なんとなくわかるような気がした。


 遅咲きの桜も散り、葉桜の様相を見せている。春も終わろうとしているこのうららかな陽気の中で、由乃にはようやく春が訪れようとしていた。

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ウェヌスの涙 −極楽堂鉱石薬店奇譚− 永久野 和浩 @nagihiro

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