四話
「そう……そんなことが」
すっかり学校の染井吉野も散り落ちた校舎裏で、由乃と柘榴はあの時から初めて二人で話をしていた。
しばらく見ない間に、柘榴は少し変化していた。表情は明るくなり、頬に赤みがさしている。何よりも、あの曖昧な笑い方ではなく、自然な笑みを零すようになっていた。
本来は良いことであるはずのその変化はしかし、由乃の心をなんとはなしにざわつかせるものだった。
「それで、桜子さんのお姉さんはどうなされたのかしら」
「ええ、無事に男の子をご出産されたそうです。『さやま』のご主人も大喜びだそうですよ。お姉ちゃんの百香ちゃんも弟ができたと嬉しそうでした」
「そう……それは良かった。極楽堂さんも随分心配なさっていたから、ほっとしているでしょう?」
「見てるこっちが呆れちゃうぐらいですよ。でもこれでしばらく、姉は風吹先生に頭が上がらないでしょうね」
そういって苦笑いする由乃を、柘榴はただ静かに微笑みを浮かべて見つめていた。
後から聞いた話だが、六堂はやはりこれを機に風吹を正式に妻として迎えるつもりだったらしい。だが、風吹は六堂の家に入る事を辞退した。本人曰く「死神業をやめるつもりはない」かららしい。それを続けていれば、春乃が察知するというその匂いは風吹に染み付いてしまうだろう。いくら晶刺を入れたといっても、四六時中その匂いを漂わせている自分が側にいるのは忍びないという理由らしかった。それは、風吹なりの不器用な母性なのだろう。
しかし、由乃には風吹が「六堂の側にいるのが嫌」だとは思えなかった。むしろその逆にしか見えない。それでも、自分の信念と風吹なりの春乃への想いを貫く事を選んだのだろう。臨床実験は恭助も六堂も「既に必要ない」と判断したので、その重荷を降ろす事ができたのは風吹にとって良かったのかもしれない。
あんなに飄々としていた風吹が、その反面深い愛情を見せたのは由乃にとって予想外の事だった。しかし、深い絆で繋がっていると思っていた相手が、実は同じ方向を見ている訳ではなかったという事もままあるという事を知った。……月宮雫のように。
「……芳崎和葉の書斎になっていた倉庫は、今、警察が調べているそうね」
「ええ……そうらしいですね」
柘榴の言葉に、由乃はあの時の事を思い出す。薄暗い倉庫の一角に並べられた、毒の鉱石の数々。それを思い出すだけで由乃はぞっとした。
「あの時……極楽堂さんが助けに来てくれなければ、私は死んでいたかもしれなかったわね……お姉さんには、なんとお礼をいったらいいかわからないわ。もっとも、薬がまだ残ってる状態で首を締められていたから、あの時何があったのか朦朧としているのだけれども……」
「え、ええと……」
困った。まさか自分の姉がバス停を振り回して大立ち回りしたなど、恥ずかしくて言えない。由乃が目線を泳がせている様子を見て、柘榴は柔らかく微笑んだ。
「……素敵なお姉様をお持ちね。羨ましいわ。あんなに想ってくれる家族がいるのは、幸せな事よ」
そんな柘榴の表情に、由乃の胸がまたざわついた。なんだろう、こんな風に笑う
「あの時ね……本当は、このまま死んでもいいのかもしれないって、少しだけ思ってしまったの。例え雫先輩が私の事なんかなんとも思っていなかったとしても……同じところに行けるなら、と……」
「あの!」
由乃は、柘榴の言葉を遮る。不意に声をかけられた柘榴の瞳が、由乃の金色の瞳を捉えた。
「……雫先輩は、柘榴先輩の事をなんとも思ってなくは……なかったと思います。だって、そうじゃなかったら手紙なんか書いたでしょうか。わざわざ、最後に謝ったりしたでしょうか」
「……」
「本当のことは、私にもわかりませんけど……でも、本当は雫先輩は……」
そこまで言って、由乃は言葉を飲み込んだ。本当は、止めて欲しかったのかもしれない。そう思ったけれども、だけどそれを柘榴に言えば、雫の死を止められなかった事を悔いる事になるだろう、これからずっと。
なんて事だ。何を言っても、柘榴にとって残酷な解釈にしかならない。もどかしい。
だが、泣きそうな目をした由乃を見て柘榴は優しく微笑むと、ふわりとその手を由乃の頭にかざして、そっと髪を撫でた。
「由乃さんは、優しいのね」
ああ、まただ。こんな笑い方ではなかった。あの、物哀しくも一途な笑い方に由乃は心奪われていたのだ。
「もう、大丈夫よ。あの時、踏ん切りがついたわ。……私ね、学校を中退する事になったの。結婚が決まったのよ」
「えっ……」
由乃にとっては予想外の話だった。だが、柘榴は既に心を決めていたらしい。柘榴の目には迷いがなかった。
「芳崎工業の長男……この前お会いした和茂さんね。芳崎工業なりに今回の事件の責任を取るという形らしいわ。和茂さんも私の事を悪しからず思ってくれているようだし……元々、雫先輩が結婚する筈だった方と一緒になれるなら、私にとってこれ程の良縁は無いわ」
「で、でも……! いいんですか? 柘榴先輩はそれで……!」
「……どのみち、もう雫先輩はいないのよ。私も、家族にこれ以上迷惑はかけられない」
それは、柘榴の本心なのだろう。柘榴なりに、気持ちに整理をつけた上で、納得して決めた事なのだ。だが、それでも由乃は納得できなかった。あんなに雫に心を寄せていた柘榴が。自分の気持ちを袖にしてまでも、故人への気持ちを貫いた
「由乃さんとここで会えるのも、これが最後になるかしらね……ありがとう」
自分の頭を撫でていた柘榴の手が離れようとしたその刹那、由乃はそっと柘榴の手を捕まえた。
「……由乃さん?」
柘榴が訝しげに由乃の方を伺い見る。由乃はその手を胸元に寄せて、両手で握りしめた。ぐっと、まるで祈りを捧げるように。
「……最後になると言うのなら……最後にひとつだけ、お願いを聞いて下さいますか……」
由乃はその目を胸元の手に落として、柘榴の方を見ずにそう呟いた。その声は微かに枯れて、少し緊張しているのがわかった。
「誰にも言いません……お墓まで持っていく秘め事にします……ですから、最後に、接吻を……」
ああ、なんてはしたないお願いだろう。だが、何かを自分に残して欲しい。私が彼女を想った証を、せめて、この瞬間でも。
長い時間に感じた。やがて、由乃が握っている方と反対側の手で柘榴が頬に触れた。ぞくりとした感覚を覚えてその顎を少し上げると、柘榴のその瞳と目が合った。
それはまるで、夢の中に出てきた染夜に似ている、と由乃は思った。その真摯な瞳が、すっと由乃の心を穿つ。
「由乃さん……」
そう呟いた柘榴の赤い唇が、そっと由乃の方に近づいてくる。由乃は思わず、ぐっと目を閉じた。
柔らかい感触が、左頬に当たった。思わず目を開けると、目の前に柘榴の首筋があった。頬が熱くなっていくのがわかる。考えて見れば当たり前の事だ。相手は嫁入り前の女性なのに、自分は一体何を期待していたのか。
だが、柘榴はしばらくそのまま離れなかった。柘榴に染み付いた真珠煙管の香りが由乃の鼻孔をくすぐり、耳まで赤くなるのがわかる。由乃は柘榴から離れようとしたが、そのまま柘榴に両腕を回されて動けなくなった。柘榴はその唇をそっと動かして、由乃の耳元に寄せた。
「ごめんなさいね……私はこれが精一杯」
吐息交じりの柘榴の声に耳を侵されて、由乃は小さく身震いする。そのまま、耳に小さく口付けされて、由乃は小さな悲鳴を上げた。
どれぐらいの間、そうして抱きしめられていたのだろう。柘榴が離れた時、由乃はもう恥ずかしさで頭が爆発してしまうのではないかと思ったほどだ。柘榴が離れた瞬間、由乃は足元がもつれてしまい、慌てた柘榴が支えてくれなければその場に倒れていただろう。
「大丈夫?」
「は、はい……」
手を繋いだまま、柘榴と目が合う。思わず、笑い出してしまった。吹き出す由乃につられて柘榴も笑い出す。二人で手を取り合ったまま、しばらくくすくすと笑い合っていた。
大きな欅の木が二人を見下ろしている。足元では散り落ちた花びらがそよ風に揺られて舞い踊っていた。
やがて、暖かくなり、夏が来るのだろう。そんな季節の変化を思わせる晴天の元で、密やかに二人の少女の秘密が交わされたのは、誰も知ることはない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます