三話
「あー……感動の再会をしているところ悪いのだがな……」
奈落がそう声をかけようとしたその時だった。唐突に喫茶店のドアが開き、桜子が息を切らせて姿を表した。
「桜子先輩!?」
由乃と同じく制服姿の桜子の異様な様子に、由乃はただ驚いた。しかし、桜子はそれどころではないらしい。咳き込みながらも、風吹たちの方に歩み寄ってきた。
「姉様が……急に産気づいて……! 風吹先生を呼んでって……!!」
「千代さんが!?」
すかさず奈落が反応して椅子から立ち上がる。風吹は春乃から一旦離れ、狼狽えた表情で視線を泳がせた。
「ええっ……な、なんで僕なんだよ……。産婆さんを呼んだ方が確実だろう?」
「お前、千代さんを診ていたではないか!」
「だってあの時は、僕のところに来てた時に出血したから……! 僕、子どもをとりあげた事なんてないよ!」
「産んだ事ならあるだろう!」
「それとこれとは全然話が違うよ!!」
半ばパニックに陥って奈落と言い争う風吹に、六堂が後ろから肩を叩く。意表を突かれて不安げな顔で見上げる風吹に、六堂は落ち着いた声で窘めた。
「風吹、とにかく今は緊急事態だ。ちょうど外に車を停めてあるから、それで千代さんを診療所に運ぼう。桜子さんと言いましたか、産婆さんはいらっしゃるのですか?」
「え……ええ。今は姉のそばに付いていますが」
「では、その方も一緒に。お前が不安なら、私も付きそう。専門外だが、お前より知識はあるだろう」
「病院で、産ませて頂けるんですか……?」
桜子が呆気に取られるのも無理はない。未だ出産が穢れとされている昨今、畳の上で分娩できるのはまだましな方で、大体の出産は土間や離れで行われている。病院で出産するのは珍しい事なのだ。
「設備は整ってはいないだろうが、土間よりは遥かにましだ。さあ、早く」
「で! でも……!」
風吹はまだ何か言おうとしていたが、六堂に睨まれて怯み上がる。こんな女性らしい表情を見せる風吹を由乃は見た事がなかった。
「なら、私も一緒に……!」
そう言って六堂に駆け寄ろうとした奈落を、しかし恭助が後ろから捕まえて引き戻した。動きを制されて体制を崩した奈落が、恭助を睨みつける。
「これ、落ち着かんか。お前が行ってどうする。見世物ではないのだから、ここは医者と産婆に任せるのが筋ってもんだ。何、そこの六堂の倅は腕の立つ医者だ。赤児の一人ぐらい難なくとりあげて見せるだろうさ」
正論を突きつけられて、奈落はぐっと顔を歪める。姉は千代の事ともなると冷静な判断が出来なくなる傾向があるが、ここまでとは思わなかった。
「風吹! お前、千代さんや子どもを死なせてみろ! 私が生涯かけて呪ってやるぞ!」
「ええぇ……旦那に呪われるのはおっかねえなぁ……くそお、やるよ! やればいいんだろ!」
ようやく腹を括った風吹は、六堂を見上げて大きく頷いて見せた。六堂はそれに応じ、風吹を連れてドアの外へと出ていく。その後ろを、慌てて春乃が追いかけて行った。
「千代さん……大丈夫かな……」
突然訪れた静寂に、由乃はぽつりとそう呟いた。姉は苛立ち紛れに頭をかきむしり、珈琲のカップに口をつけたが既に中身は空で、やりきれない憤りを溜息と共に吐き出していた。
「おーい、タカさん。悪かったな、騒がしくしちまって」
タカさんと呼ばれたマスターは、恭助の呼びかけに苦笑いで応えてみせた。
「あんたの連れが店に来て、騒がしくなかった事があったかい?」
「ははは、ちげえねえな」
恭助は皮肉めいたマスターの言葉に肩を竦ませると、遠巻きに様子を伺っていた女給を手招きで呼び寄せて、懐から出した何かを女給に握らせた。
「駄賃だ、迷惑かけて悪かったな。珈琲を人数分、もう一杯頼む」
女給は手の中のそれを確認すると、恭助にウインクをしてカウンターへと歩いていった。
風吹たちが去った余韻の中で、由乃はある事を思い出していた。時雨が言っていた、由乃よりも若い子に
由乃は、
そして、染夜も。
「そう言えば……」
ぽつりと呟いた由乃に、奈落と恭助が目を向ける。由乃は少し気後れしたが、そのまま言葉を続けた。
「いや……あのね。あの人に攫われて眠らされていたあの時……夢の中に染にいが出てきたの」
由乃の言葉に、二人が目を丸くした。家の中では半ばタブーとなっていた染夜の話が、当事者である由乃の口から出てきたからだろう。
「そめや、が」
姉の口からその名前が出てきたのはいつぶりの事か。由乃は小さく頷いた。
「……あの時の染にいじゃなくて、おっきくなった染にいだった。桜の樹の下に立って、私に声をかけてきたの」
「染夜は、なんて」
奈落の問いかけに由乃はやや躊躇したが、ひと呼吸置いて気持ちを整えた。そして、真っ直ぐに奈落の目を見て答えた。
「お前のせいじゃない、って」
その瞬間、奈落が酷く顔を歪めて泣きそうな顔になった。すぐに片手で顔を覆ったが、唇を噛み締めているのがわかる。その頬に光るものが伝い落ちるのが見えて、由乃は小さく息を飲んだ。
「……そうか」
そんな姉の反応を見て、由乃は少し得心がいった。あの言葉は、由乃だけに向けられたものではなく、姉にも向けたものだったのだろう。思えば、自分たちの子守をしていたのはいつだって姉だった。あの時から、姉も自責の念を抱いていたのだ。思い返せば、今のように奈落が過保護になったのは、染夜の事があってからだった。
「……ははは、儂が同じ事を何度言っても納得しなかったやつが、本人の言葉なら流石に堪えると見える」
そう言って、恭助は少し目頭を押さえた。
「染夜の死は、奈落。お前のせいでも、まして由乃のせいでもない。あれは不幸な事故であったし、染夜は倒れる直前まで、由乃の事を心配していたよ。……はは、由乃。お前が羨ましいな。儂も成長した染夜を目にしたかった……」
そこで、恭助も言葉に詰まり俯いてしまった。
そうは言っても、由乃たちと父との溝は今後も埋まる事はないのだろう。父の中で一人息子を失った穴は相当に大きい。だが、それでもここにいる三人の気持ちは同じだった。
先ほどの女給が、珈琲を乗せた盆を持って席に訪れたが、場の雰囲気を読んで特に声をかける事はしなかった。そのまま珈琲だけを置き、由乃だけに小さく頭を下げてその場を去っていった。
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