二話

 按摩を生業とする座頭、常盤 鐘煙しょうえんの養子となった風吹が懐妊したのは、女ながらに医科大学へ通っていた二十歳の頃の事だった。

 子どもの父親は、その大学で師事をしていた六堂 也平なりひら。自らも医者で、華族の家系だった。妊娠がわかると、風吹は医科大学を中退し消息を断つ。それは、身分の違う六堂に配慮してのことだったのだろう。

 風吹は義理の家族にも遠慮して一人で娘を育てようとした。だが、風吹にはそもそも子どもを育てるという事にあまり適性がなかったのだろう。重ねて、鉱石体質の傾向がある赤児というのはかんが強く、手が掛かる事が多い。風吹はみるみるうちに酷い神経衰弱に陥った。

 元々恭助と繋がっていた六堂は手を尽くして風吹の行方を追っていた。そして、風吹を見つけ出した時は既に酷い有様だったという。六堂ははじめ、風吹と娘の二人を連れて帰ろうとしたが、そんな状態ですら風吹は頑なに六堂を拒絶した。だから、六堂の方から提案したのだ。「この娘は私の子だ。だから娘だけでも連れて帰る」と。

 それで、風吹は娘の手を離したのだ。




「……鐘煙しょうえんは儂の古い友人でな。だから当時のこいつの事も見ておったが、そりゃあ酷いもんだった」

 そう呟くと、恭助は残り少なくなった珈琲を飲み干した。

晶刺しょうさしってのは、実はそんなに古くからあるもんじゃない。実は、儂が自分の体で試して確立させたもんだ」

「えっ?」

 突然の話題の変化に、奈落が眉を顰めて聞き返す。しかし恭助はそのまま話を続けた。

「染夜が死んで由乃が『覚醒』した後、由乃は酷い状態だった。儂にとってはそれをなんとかするのが目下の難題でな。そして、娘を手放した罪悪感に苛まれていたこいつと利害が一致した。こいつの娘と由乃はいろんな症状が似ていた。二人とも鉱石体質の変種だったってわけだ。だから、晶刺しょうさしにおける水晶の配合量をこいつと調べ上げた。儂は由乃のために。そしてこいつは娘のためにな。そしてその関係はそのまま、今に至る。こいつの娘により良い生活環境を保証する代わりに、石薬の臨床実験を繰り返させてたってわけだ」

 風吹は既に眼鏡を外して、両手で顔を覆っていた。重い空気が四人を包む。

「……そうやって調べ上げられた石の効能が、皮肉にも今の極楽堂を支えているというわけですか……」

 絞り出すような声で、奈落がぽつりと呟いた。

 由乃の背筋にさあっと冷たいものが流れるような気がした。つまりは。祖父と風吹がしていた事は、半分は自分のためであったのだ。

「……じゃあ、私が五才いつつの時に入れた晶刺しょうさしは、あれは……」

「ああ。儂とこいつとである程度の目処がついたから、お前と奈落に施したものだ。今でこそこの界隈では普及しているが、実はな、きちんとした晶刺しょうさしを受けたのは、お前たちが初めてだ」

「じゃあ……風吹さんの娘さんも……?」

「いや、あの子は刺青を入れるにはあまりにも幼過ぎた。それに、由乃。お前ほど逼迫して必要だったわけでもない。普通に生きていればそうそう死ぬ間際の人間に出くわす事もないからな」

 ぐらぐらと、目が回るような感覚に陥っていた。風吹が余命幾許の患者に施していたという臨床実験。たとえ同意を得ていたとしても、それが僅かな寿命を縮めた事もあっただろう。何も知らなかったとは言え、自分はその犠牲の上に人並みの生活を手にしていたのだといえるのではないか。いや、自分だけではなくて、極楽堂そのものが。

 横目で姉の表情を伺う。心なしか、奈落は青ざめているように見えた。風吹は、両手で顔を覆ったまま動こうとはしなかった。

 その時、後ろから男の声がした。

「だが、風吹。もうお前はそんな事をしなくてもいい」

 聞き覚えのある声だった。振り返ると、やたら長身で身なりのいい男性がそこに立っていた。

「六堂……」

 眉間に皺を寄せた風吹が、そう呟く。六堂、つまりはあの時風吹と一緒にいた男性。風吹が産んだ子どもの父親ということになる。

 男は懐から薬瓶を取り出すと、風吹の前に置いた。

「お前が所望したものだよ。BAL、砒素の解毒剤だ。お前、あの赤い煙管を自分の体で試していただろう。あの咳は慢性砒素中毒のものだ」

「だって! ……そうでもしなければ……やりきれなかった……!」

「もういい。もういいんだ」

 六堂はそう言うと、後ろを振り返った。そこには、どこか風吹に面差しの似た幼いワンピース姿の少女が、隠れるように佇んでいた。肩まである髪は、ふたつのおさげに結われている。

「母様……」

「春乃……」

 春乃。それは、娘の名前か。風吹は一瞬、表現し難い複雑な表情を見せた。

「六堂、なぜ春乃を。僕はもう会わないと……」

「春乃に晶刺しょうさしを受けさせた」

 一瞬、場が静まり返った。春乃と呼ばれた少女は恥ずかしそうに、だが前に進んで腕を捲り上げてみせた。その腕には由乃と同じように、目立たないが傷跡のような色合いの晶刺がある。その模様は美しい雪輪だった。

「母様。わたし、もうすぐ女学校に入学します。……あの、えっと……これを入れてから、あの匂いはだいぶわかりにくくなりました」

「どうだ?お前よりも貞淑な淑女に育っているぞ?」

「……どういう意味だよ」

「そうだな……。この春乃を見ても、お前はまだ歯を食い縛ってまで臨床を続ける必要があると思うのか? ……もういいだろう。もう、私に心配を掛けさせないでくれ」

 六堂の言葉にしばらく沈黙していた風吹は、不意に耳飾りを外した。そして手の中でその鴉花珠を転がすと、目の前でそれをつまみ六堂に見せつけるようにして、精一杯に笑って見せた。

「養殖真珠の作り方って知ってる? ……真珠貝の生殖器官を抑制させてね、卵を産まないようにさせるんだ。生殖活動をすると真珠を抱えた時に、負荷がかかり過ぎるからね。そして卵巣に核を入れる。体に入った異物から自分を守るために、貝は異物を真珠にするってわけさ……なかなかえぐいよね」

 風吹は座席から立ち上がって春乃に歩み寄ると、その手を取って耳飾りを彼女に握らせた。

「春乃、これはお前にやるよ。僕が貰ったんだ、誰にあげても僕の自由だろ?」

「……好きにしろ」

「僕なんて、真珠貝みたいなもんさ。この体を使って、身に余る物を産み出した」

「母様、そんな事は……」

「でもさ。……なかなか、綺麗な真珠になったじゃないか」

 そう言って、風吹は春乃に恐る恐る触れる。春乃も、おずおずと風吹の手を握り返した。

「……私は、母様を傷つける異物だったのでしょうか」

 その言葉に、風吹は春乃を抱きしめた。急に抱きしめられた春乃は目を丸くしたが、その腕を必死に風吹に回して、しがみつくようにその背を握りしめた。

「……ごめん。ごめんよ」

 風吹のその謝罪は、春乃に気を遣わせてしまったことへのものだったのか、それともあの時手を離してしまったことへのものなのか。いや、きっと全てなのだろう。風吹の震える肩は、嗚咽を漏らすばかりでそれ以上何も語らなかった。

 柱時計の鐘の音が、静かに店内に鳴り響いた。

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